森・木の怪談

同じ場所に戻る道、葉の隙間からの視線。森や木の周りで起こる物語です。

札幌の森の囁き

Sapporo

これは、知人の知人から聞いた話です。確かめようがないんですが、聞いた人間が妙にはっきり覚えていたもんで、今日はそれをそのまま、皆さんにお伝えしようと思います。 札幌の郊外に、ちょっと奥まった森があるそうです。名前は言わないでおきますが、地元の人間は皆、そこを知っている。近づかない理由も、なんとなく、皆知っている。 何年か前の秋の話です。 美咲さんという女子大生が、友人四、五人と連れ立って、その森へ入ったと言います。肝試しというほど本気でもなく、ちょっとした酔い覚ましの散歩くらいの気持ちだったそうです。十月の初め、日が落ちるのが早くなってきた頃のことです。 森の入り口は、街灯もなく、砂利道がひとすじ、黒い木立の間に吸い込まれるように続いていたと言います。踏み込んだ瞬間、気温がすっと下がった。外よりも二、三度は低かったんじゃないか、と美咲さんは後から言っていたそうです。足元の落ち葉が妙

クァンジュ(광주)の忘れられた学校

光州(クァンジュ)

みなさん、今日はクァンジュ(광주)の方から聞いた話をひとつしましょう。 確かなことは言えません。私も知り合いから聞いた話で、その人もまた誰かから聞いたと言っていたので。ただ、そういう話が流れているということです。 クァンジュ(광주)の外れに、山の斜面を登っていくと細い土道がひとつあるそうです。地図にもほとんど載っていない道。その道を十五分ほど上がっていくと学校がひとつ現れるというのですが、今は雑草が膝の上まで伸び、塀には苔が厚くこびりつき、窓ガラスはほとんど割れた状態だと言います。近くの住民に尋ねると、みんな少し口を閉ざしてから、しばらくしてこう言うそうです。「あそこは三十年前に突然閉まったところだよ」。なぜ閉まったのかとさらに聞くと、ただ顔を背けるだけだと。 その学校に実際に入った人がいます。去年か一昨年か、二十代前半の青年で、名前はわからないのですが、廃墟探索をしている人だったそ

テグ(대구)の呪われたケヤキの木

大邱(テグ)

皆さん、今日お話しするのは、テグ(대구)の郊外にある小さな村のことです。 私が直接確かめたわけではないんですが。あちらの村の人から聞いた話で……聞いていて、私も少し落ち着かない気持ちになりました。 その村の片隅に、ケヤキの木が一本あるそうです。樹齢がどれほどなのかはわからないけれど、村の人たちの話では、自分の祖父が子どもの頃にも、あの木はもう老いていたと言われるほどだと。もともとは村を守る神木として崇められていて、祭りの季節には祭祀を行い、願いごとを祈ったりもしていたようです。ところが……ずっと昔に、ひどい干ばつが続き、疫病まで広まった年があったそうで。村人たちがどれほど追い詰められていたか、その木の下に供物を捧げても、何一つ好転しなかったんです。それからだといいます。村の人たちが木を信じなくなったのが。いや、信じなくなったというより……恐れるようになったのが。 風ひとつない日でも、

カロスキルの最後の訪問者

ソウル

ソウルのカロスキルは、昼間こそ洗練されたカフェや店が立ち並ぶ華やかな通りだが、夜になると別の顔を見せる。都心でもっとも垢抜けたその街が闇に沈むとき、そこには語り継がれる怪談がある。 数年前、この道をよく歩くカップルがいた。ある夜遅く、カフェを出てタクシーを拾おうとカロスキルを歩いていると、どこからともなく、すすり泣く声が聞こえてきた。好奇心に引かれた二人は、声のする方へと足を向けた。 声の源にたどり着いたとき、彼らは古びた服を纏い、道端にうずくまる女を見つけた。女は顔を伏せたまま、肩を震わせて泣いていた。二人が近づき、どうしたのかと声をかけても、女は答えなかった。代わりに、ゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。その目は真っ赤に充血し、口は不自然に裂けていた。 驚いた二人は後ずさり、急いでその場を離れようとした。しかし女は歪んだ笑みを浮かべながら、「あなたたちも、すぐに私と同じになる」と叫

仁川の影の怪物

仁川

仁川の古い港の近く、日が暮れると誰もが足を踏み入れることを恐れる路地がある。古びた建物に四方を囲まれたその場所は、昼間は喧騒に満ちた街の営みの中に静かに潜んでいる。しかし夜が訪れると、その路地はまるで別の世界へと続く扉のように変貌する。 深い静寂の中で、人々はときおり奇妙な音を耳にすると言う。風もないのに木の枝が揺れるような、そんな音だと。だがそれは風ではなく、数百年前にこの地で生まれたという伝説の生き物のささやきなのだ。その生き物は「影の怪物」と呼ばれ、形を持たず、ただ影のように忍び込んでくるとされている。 ある老婆が、この怪物にまつわる話を語ってくれた。若い頃、友人たちと連れ立って好奇心から路地を訪れた彼女は、そこで奇妙な体験をしたという。友人の一人が突然姿を消し、それきり二度と戻ってこなかったのだ。残された者たちはその後、あの夜のことは決して口にしないと誓い合ったが、それでも彼女

八坂の幻影

Kyoto

これはね、聞いた話なんですが。 どこまで本当かはわかりません。ただ、話してくれた人の顔が、妙に青かったもので。 京都の、八坂神社です。 夜中に行ったことがある方は、わかるかもしれませんけれど。あそこは昼間と、まるで別の場所になるんですね。観光客がいなくなって、提灯の灯りだけが残ると、空気の重さが変わるというか……ぺたりと、肌に貼りついてくるような感じがある、と。 その夜、ある男性が、ひとりで訪ねていたそうです。 年は二十代の後半、友人から「八坂の夜は面白いぞ」と言われて、なんとなく足が向いたらしい。特に怖いものが好きというわけでもない、ごく普通の方だったと聞いています。 時刻は夜の十一時を過ぎた頃。参道はほとんど人気がなくて、石畳を踏む自分の足音だけがやけに大きく聞こえた、と言っていたそうです。 本殿の横を抜けて、少し奥に入ったあたり。境内の端に、昼間は気にも留めないような小

光州の星明かりの囁き

光州

皆さん、今日お話しするのは、光州の楊林洞から流れてきた噂です。確かなことは言えません。ただ、あの辺りに住む人から聞いた話なんですが、聞いた後しばらく、私もどこか落ち着かない気持ちが続きました。 楊林洞に行ったことのある方はご存知でしょうが、あそこには古い路地が残っているんです。宣教師墓地の方へ上がっていくと、車も入れないような細い裏道が出てくるんですが、その中に、電柱が一本だけ立っている道があるそうです。ずいぶん古い木の電柱で。そこに古びたポスターが一枚貼ってあったというんですが、いつ貼られたのか誰も知らないと。気づいたらそこにあった、というんです。 ポスターには「星明かり祭り」と書かれていて、下に星座のようなものが描かれていたそうです。ところがおかしなことに、その星座がどこにも見たことのない形だったというんです。北斗七星でもオリオンでもなく、ただ見慣れない点が繋がっているだけなのに、

狐の囁きと夜の湖

Fukuoka

えー、聞いた話なんですが。 確かめたわけじゃないんで、どこまで本当かはわからない。でも、何人かから同じような話を聞いたので、今夜ちょっと、話させてもらおうかと思って。 福岡の、油山っていう山があるんですよ。昼間はね、家族連れが弁当広げてるような、ごく普通の市民の森です。でも、奥の方に、地図に名前が載ってない小さな湖があるって話がある。地元では昔から「狐湖」って呼ばれてるらしいんですが、正式な名前は、どうも誰も知らないらしい。 で、二年ほど前の秋のことだって言うんですが。 陽介、っていう大学生がいて。まあよくある話で、友人たちと肝試しにその狐湖を目指したわけです。夜の十一時過ぎ、四人で山道に入った。懐中電灯を持って、わいわい言いながら登ってたらしいんですが、途中からだんだん、誰も喋らなくなったって。 理由はよくわからない。怖いっていうより、なんか、喋る気がしなくなったって、後から友

光州の復讐する霊

光州

皆さん、今日は光州の話をひとつしましょう。 確かなことは言えないんですが……光州の郊外のどこかに、今もゆっくりと朽ちていく建物があるそうです。かつて精神病院だったというその場所は、二十年ほど前に突然閉鎖されたとか。理由についてはいろんな噂があって、患者に何か酷いことをしていたとか、記録を改ざんしていたとか、そういった話です。正確なことは誰も知らないらしい。ただ、地元の住民たちの間では、もはや常識のように根付いていることがひとつあります。 夜は絶対に、あの近くに近づかないということ。 聞いた話なんですが。三十代の男性がいたそうです。廃墟探索というんでしょうか、使われなくなった建物を巡るのを趣味にしていた人で。その人が一人で、あの病院に入り込んだというんです。夜中の十二時を少し過ぎた頃に。 最初は何もなかったそうです。割れたガラス、ひっくり返った鉄製のベッド、壁から剥がれ落ちたタイルの

タプコル公園(탑골공원)の裏路地に漂う奇妙な気配

タプコル公園(탑골공원)の裏路地

あー、これ……話していいのかな。本当に私が直接聞いた話なんだけど、知り合いのお姉さんやお兄さんたちの間で広まってる話だから、確かなことは言えなくて。でも聞くたびに鳥肌が立つんだよね。 チョンノ(종로)のタプコル公園(탑골공원)、あるじゃない、あそこの裏手の路地。昼間に行けばただのお年寄りが囲碁を打ったりマッコリを飲んだりしてる、普通の下町の路地なんだけど……夜になると全然違うんだって。知り合いのお兄さんが夜の十一時過ぎにそこを通ったことがあるって。一杯引っかけて一人で歩いてたら、路地に入った瞬間から空気が急に冷たくなるんだって。真夏の七月だったのに。背筋に冷や汗がにじむあの感じ、エアコンの風でもなくて、ただ湿っぽくて重い冷気がどっと押し寄せてくるんだって。 その路地がちょっと変わってるのは、街灯はあるんだけど、光がそこでぷつりと途切れるんだって。電柱のすぐ真下は明るいのに、その光が地面

大地から湧き出た三神人の痕跡、三姓穴

済州市サムソンヒョル(삼성혈)

あ、これ……話していいのかな。本当に聞いた話なんだけど、最初はただ聞き流してたんだよね。でも、そうじゃない気がしてきて。 済州の三姓穴、知ってる?市街地のど真ん中にあるのに、入った瞬間にぱっと、街の音が消える森。そこに三つの穴があるじゃない。高乙那、良乙那、夫乙那、三人の神人が湧き出たっていうあの穴。耽羅国の始祖たちが生まれた場所だって、済州の人たちにとってはもうほとんど聖地みたいなものらしい。 でもこれ、ちょっとおかしいって話があるんだよね。どれだけ雨が降り注いでも、あの穴の中には絶対に水が溜まらないんだって。冬に雪が積もっても、穴の上だけきれいに積もらないって。周りは真っ白に覆われるのに。確かじゃないけど、そこを管理してる人たちも、それが説明できないって言うらしくて。 でも本当に怖いのはそこじゃないんだよ。 聞いた話なんだけど、数年前に写真を撮りに一人で行った女の人がいたんだっ

ムドゥンサン(無等山)のタンサンナム(당산나무)から消えた祭祀

ムドゥンサン(무등산)運林洞の堂山木

みなさん、今日持ってきた話なんですけど。 光州の方から聞いた話で、確かなことは言えません。ただ……あのあたりで囁かれている話です。 無等山の中腹、雲林洞へ向かう道の入り口に、ケヤキの木が一本あるそうです。樹齢五百年はくだらないといわれていて、幹があまりにも太く、大人が二、三人で手を繋いで囲んでも抱えきれないと聞きました。昔からその村の人たちは당산나무と呼んでいたそうです。村を守る神が宿る木、と。 毎年、正月の大望月になると、화주——祭祀を取り仕切る人——を決めて、당산祭を行っていたといいます。餅や果物を供えて、村の平穏を祈り、豊作を祈る。何百年もそうしてきたというんです。 それがいつの頃からか、途絶えてしまったそうで。 理由が少し妙なんですが。 화주を務めた人に、決まって何か良くないことが起きたというんです。はっきり説明するのが難しい、ただ家に影が差す、という言い方をしていまし

梨泰院の悲しき由来:異胎院の話

イテウォン(이태원)(旧ウンジョンサ(운종사)跡、現ヨンサン高校(용산고등학교)付近)

皆さん、今夜は梨泰院の話をしてみようと思います。 今わたしたちが梨泰院と呼んでいるあの街のことです。賑やかで騒がしいあの通りではなく、その下に眠る土地の話です。龍山の方へ上がっていくと高校がひとつあるのですが、そのあたりが昔、黄鶴谷と呼ばれていたそうです。そしてその黄鶴谷のどこかに、雲從寺という寺があったといいます。 尼僧だけがいらっしゃった寺だったそうです。確かではありませんが、当時はずいぶん静かで奥まった場所だったと聞いています。山の裾に寺がひとつ、尼僧が数人。それだけの場所でした。 そこへ、壬辰倭乱が起きました。 倭軍が漢陽まで攻め込んできたとき、その寺にも倭将が一人、部隊を率いて入ってきたといいます。聞いた話では、その倭将が雲從寺を駐屯地にしたとのことです。寺の庭に陣幕を張り、法堂に荷を解いて。尼僧たちには行き場がなかったでしょう。逃げることも、抗うこともできずに。 その

重林寺跡地の「祟り道」

重林寺 (跡地周辺の道路)

ねえ、聞いてくれる? 池袋の話なんだけど……確実かどうかはわからないんだけどね。ただ、地元に長く住んでるお年寄りから何人か、同じような話が出てるって聞いたから、もしかしたら、って。 重林寺、ってお寺があったんだって。今はもうないんだけど。慶安年間っていうから、江戸時代の初め頃に開かれたお寺でね、その周りはずっと、広いお墓だったらしいの。ずっと、ずっと長い間。何百年も、そこで眠ってきた人たちがいた場所。 それがね、ある時期に道路になったんだって。お墓の上に、そのまま。 最初は何も気づかなかったと思うのよ。ただの道路。車が走って、人が歩いて。でもね……その道路で、事故が続くようになったって。 一件、二件じゃないの。何度も何度も。なぜかその場所で、ってくらい続いたらしくて。地元の人たちの間で、だんだん「あそこは通らないほうがいい」って話になってきたんだって。 そのうちにね、こんな話を

伊良林の枕返しの部屋

長崎市伊良林

……ねえ、聞いてくれる? 長崎の、伊良林のあたりで、ずっと前から囁かれてる話なんだけど。確かめたわけじゃないから、あくまで噂として聞いてほしいんだけどね。 伊良林って、坂が多くて、古い家が石垣に寄り添うように並んでる、そういう町でしょう。そのなかに、代々ひとつの家族が住んでたとある古い家があってね。表から見たら何ということもない、雨に焼けた木の引き戸があって、軒が少し傾いていて、庭の奥のほうに古い井戸がひとつ。蓋はしてあるけど、使われてはいない。そういう家。 その家に、四畳半の部屋があるんだって。ちょうど井戸のある方角に向いた、縁側に面した小さな部屋。昼でも少し薄暗くて、畳が日焼けして白っぽくなってて、柱のところだけ空気がひやりと重い、そういう部屋らしい。 その部屋で、ある夜、親戚の男性が泊まることになったそうなの。遠くから来て、他に空き部屋もなかったから、ってことで。 その人、

森に消える橋、太白山第二橋

太白山第二橋

これはですね、仙台のほうで聞いた話です。 確かめた訳じゃありませんが、どうも本当にある場所の話らしくて、知ってる人は知ってる、でも誰も詳しく語ろうとしない、そういう類の話でして。 仙台市の太白区に、「太白山第二橋」という橋があるそうです。 名前だけ聞くと、別にどうってことない。川に架かった普通の橋でしょう、と思いますよね。ところがこの橋、渡り切った先に、道がないんだそうです。 道が……ない。 橋があって、欄干があって、コンクリートがあって、ちゃんと車が通れるような幅もある。でも渡り終えたその瞬間、アスファルトがぷつりと途切れて、そこから先はただ、鬱蒼とした森が広がっているだけなんだと。 聞いた人が言ってたんですけどね。初めてそこへ行ったとき、夕方の少し遅い時間だったそうで。細い山道を車で走って、橋の手前で一度止まったらしいんです。なんとなく、すぐ渡りたくなかったって。 橋の上

第六天の森の切り株の祟り

第六天の森跡の切り株 (世田谷区岡本)

ねえ、聞いてくれる? 世田谷の岡本ってところに、ちょっと不思議な切り株があるんだって。 東名高速の脇なんだけど……道路がね、そこだけ不自然に曲がってるの。まっすぐ通せばいいのに、わざわざ迂回してる。地図で見るとすぐわかるくらい、明らかにそこだけ避けてるんだって。で、その曲がった内側に、古い大きな切り株がぽつんと残ってるらしくて。 聞いた話では、昔あのあたりに「第六天の森」っていう鎮守の森があったんだって。今はもう区画整理でほとんど消えちゃって、残ってるのはその切り株だけなんだけど……それが、その森のご神木だったって言われてるらしいの。 江戸時代に、道を広げようって話が持ち上がったことがあったみたい。そのとき、工事に関わった作業員たちが次々と怪我をしたり、事故に遭ったりしたんだって。しかも、原因がはっきりしないものばかりで。足場が崩れたわけでも、何か落ちてきたわけでもなく、ただ、関わ

西大新洞、古い家の封じられた井戸

ソデシンドン(서대신동)(特定の日本式家屋)

あ、これ話していいのかな……本当に自分で直接聞いた話なんだけど、しかもその町に住んでる人から。はっきりはしないけど、西大新洞のほうに、あの坂の路地を入ったところにある古い日本家屋の話。ほら、屋根が低くて、軒が長く垂れ下がってるような家。今も人が住んでるのかどうかわからないけど、とにかくその家の話。 聞いた話なんだけど……その家の庭の奥の隅に、井戸がひとつあるんだって。でもただの井戸じゃなくて、蓋がしてあって、その上にお札が貼ってあるっていうんだよ。しかも一枚じゃなくて、何枚も重ねて。流れるような文字がびっしり書かれた黄ばんだ紙が幾重にも貼り重ねられて、雨が降っても剥がれないように紐で縛ってあるって。確かめた人がいる。直接見たって。 その人が言うんだよ。ある晩秋の夕方、その路地を通りかかったら門が開いてたから、なんとなく中を覗いたんだって。深く考えずに。そしたら庭の向こうにそれが見えるん

鞍馬山の天狗と牛若丸の兵法

鞍馬山

ねえ、聞いてる? 鞍馬山の話なんだけどね。京都の北、ちょっと奥まった山の中に、今もひっそりと続いてるって言われてる話なの。確かなことは、わたしにもわからないんだけど……聞いてほしくて。 友達の友達が、去年の秋に行ったんだって。ひとりで。平日の昼過ぎに入山したから、夕方には戻れるだろうって軽い気持ちで、ケーブルカーも使わずに歩いて登ったらしいの。 山道はね、最初はそうでもないんだけど、奥に進むにつれてだんだん、空気の色が変わってくるって言うのよ。光の質が違う、って。木が高くて密で、昼なのに薄暗くて、ひんやりした湿った風が首筋に当たる感じが、ずっとついてくるみたいで。 で、その子が辿り着いたのが、僧正ヶ谷の手前にある「木の根道」なの。知ってる?地面から杉の根っこが全部浮き出てきて、まるで何かが下から押し上げようとしてるみたいにうねってる、あの場所。地質が硬くて根が潜れないからだって説明

西将台の火の怪異、酔いどれた亡霊の悪戯か

ソジャンデ(서장대)

昔の話でな、いや昔でもないか、ほんの数年前のことなんやけど。 八達山、知っとるやろ、水原の人間やったら誰でも知っとるあの山。その頂に西将台っちゅうて、瓦を載せた将の楼閣がひとつあるんや。昼間行けばただ静かで、ええとこなんやけど。でも日が落ちると、そこにおった人間がなんとなく足が速うなるって言うんやな。なんかおるんかどうかは知らんけど、とにかく長居したくなくなるって、みんなそう言うんやと。 それでな、人から聞いた話なんやけど、ある秋の夜のことやったって言うんや。四十くらいやったかな、男がひとりで登って行ったんやと。かなり酒を飲んだ状態で。ひとりで。どんな事情があったかははっきりせんけど、なんか深く傷ついた人間やったらしいって言うんやな。 最初はただ楼閣の柱に寄りかかって酒飲んどったんやろ、そう思うやろ。でもその人が後になって言うたことがあってな、そこで何かを見たっちゅうんや。中でな。西

慶州の山あいの道、鬼火の路

キョンジュ(경주)郊外の山あいの村の特定の道

むかしむかしの話でな、慶州からずいぶん奥に入ったところに、山あいの小さな村があってな、そこに一本の道があるというんじゃ。村の人たちがなんと呼ぶかといえば……鬼火の路、と呼んでいたそうな。はっきりとは言えんのじゃけど、外祖母の家がそのあたりだったという人から聞いた話でな、今日はおばあちゃんが聞かせてあげよう。 それでな、その村に三十がらみの独り者がおってな、名前はまあ、ヒョングンとしておこうか。秋もすっかり深まったころのことでな、その人が法事の日に合わせて村の長老の家を訪ねた帰り道、その路をひとりで歩くことになったんじゃと。夜の十時を過ぎた刻で、山から吹いてくる風がひやりと耳をかすめるような夜だったそうな。 最初は何もなかったそうじゃ。慣れた道だからランタンも点けなかったというんじゃ。ところが五分ほど歩いたころ、急に足元からほんのり甘い匂いが漂ってきたというんじゃ。土の匂いでも草の匂いで

イモクデ(이목대)、あの世へと続く道

イモクデ(이목대)

あ、これ話していいのかな……本当に私が直接聞いた話なんだけど、でも私も確かじゃないんだよね。ただ聞いた話なんだけど、聞いてる間じゅう鳥肌が止まらなくて。 チョンジュ(전주)のハノクマウル(한옥마을)のあたり、行ったことある?あそこからイモクデ(이목대)に上がっていく道があるじゃない。昼間は観光客もいるし、ただの普通な町の坂道なんだけど、日が落ちてから行くと雰囲気がまるっきり変わるんだって。知り合いの姉の友達が去年の晩秋にそこへ行ったらしくて、その姉って怖いもの知らずで有名な人だったんだって。そんな人が言った話だから、余計に怖かったんだよね。 夜の八時ごろだったって。ちょうど闇が降りてくるそのタイミング。イモクデ(이목대)に上がる入り口から山のほうへ続く陸橋があるじゃない、その陸橋の下の草むらのそばを通りかかったとき、空気がふっと変わる感じがしたんだって。ただひんやりするんじゃなくて、湿

青函トンネルの止まった時間

青函トンネル

……少し、聞いていただけますか。 確かなことは申せません。ただ、こういう話が伝わっているということを、そのままお伝えするだけです。 青函トンネルのことです。青森と北海道を繋ぐ、あの長い長い海底の道のことです。 聞いた話では、深夜のメンテナンス作業に入った者が、時折おかしなものを経験するのだとか。作業員たちの間で、ひそひそと語り継がれているそうでございます。 ある年の冬のこと、だそうです。詳しい日付は分かりませんが、確か十一月か十二月の深夜だったとか。担当の作業員が、ひとりでトンネルの中ほどの区画を点検していたと聞きます。名前は伏せますが、ベテランの方で、そういった作業には慣れていた方だったそうです。 トンネルの中というのは、普段から独特の空気があるそうでして。地上とは違う、じっとりとした重い湿気と、どこからともなく漂う鉄と海水の混ざったような匂いが常にあるのだと。それはいつものこ

八甲田山の雪中行軍兵

八甲田山(後藤伍長の像周辺)

ねえ、聞いてる? 八甲田山の話、知ってるよね。明治三十五年の冬に、陸軍の兵士たちが雪の山に消えていった、あの話。教科書にも載ってるくらいだから、事件そのものはみんな知ってると思うんだけど……でも、あたしが聞いたのは、その続きの話なの。 ちょっと、耳を貸して。 これ、二、三年前に聞いた話なんだけど。青森に住んでる友人の知り合いが体験したって言うんだよね。確かめようがないから、本当かどうかはわからない。でも、その人、それからしばらく山には近づけなかったって言ってたらしくて……。 その人は、山岳写真を撮るのが趣味で、十二月の上旬に八甲田山に入ったんだって。一人で。夕方には麓の山小屋に戻る予定で、昼過ぎから後藤伍長の像の周辺を歩いていたらしいんだけど……あの像、知ってる?直立不動のまま雪の中に立ち尽くして、百年以上そこにいる。 その日は曇りで、雪がちらついていたって。風もほとんどなくて、

地図から消えた村

杉沢村(青森市小畑沢小杉周辺)

これはですね、ある人から聞いた話でして、確かなことは申し上げられないんですが……聞いていただければと思います。 青森の、山の奥の話です。 地図に載っていない村がある、と。そういう噂を、聞いたことがおありでしょうか。杉沢村、と呼ばれている場所なんですが。現在の地名で言いますと、青森空港のそう遠くない、小畑沢小杉のあたりだ、とも言われているらしいんですが、実際どこなのかは、行った者にしかわからない、とも聞いています。 その村でですね、昔、ひとりの男が発狂した、というんですね。 突然に、です。理由は誰も知らない。前の日まで普通に暮らしていたその男が、ある朝、斧を手に取って、村人を端から端まで、ひとり残らず殺した、というんです。子も老いも関係なく。そのあと男も自ら命を絶って、村には誰もいなくなった。 以来、村は廃墟になって、地図からも消された。そういう話です。 まあ、それだけなら、昔あ

数が合わない地蔵

憾満ヶ淵の並び地蔵

……聞いた話なんですがね。 日光の、憾満ヶ淵。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、大谷川の流れに沿って、石の地蔵さまがずらりと並んでいる場所がございます。百体以上、あるいはもっと、とにかくずいぶんな数が、苔むした台座の上に静かに座っておられる。 地元じゃ昔から「化け地蔵」と呼んでいるそうで。 なぜかというと、数えるたびに、数が合わない。 行きに数えた数と、帰りに数えた数が、どうしても一致しないんだと。増えることもあれば、減ることもある。何度数え直しても、同じ数にならない。……まあ、百を超える地蔵さまですから、数え間違いだろうと、普通はそう思いますよね。 ところが、ちょっと前に、ある男の人がそこへ行ったそうなんです。 几帳面な方でしてね、行きがけに一体ずつ、指でさしながら声に出して数えた。一、二、三……と、ゆっくり、丁寧に。で、百十六体だったと。その数をスマートフォンのメモに

井の頭公園の首無し女

井の頭恩賜公園

……聞いたことがございますか。 井の頭の池のことを。 確かなことは申せません。ただ、こちらへ参られる方々から、折に触れて同じような話を耳にするものですから……少しだけ、お伝えしておこうかと思いまして。 あれは、ある秋の終わり頃のことだと聞いております。吉祥寺の街が賑わいを収めて、公園の入り口から人の声が消えていく、そういう時刻のことだったそうです。 二十代の男女が、弁天池のほとりを歩いておりました。恋人同士だったとか。夜の池を見ながら、ゆっくりと歩いておられたそうです。十一月の初め頃でしたか、池の水面に街灯が映って、橙色に揺れていたと、後に男の方が話しておりました……その男の方が、後に話せる状態であったということは、まあ、そういうことなのですが。 池の端に、さしかかった時のことです。 女の方が、ふと立ち止まったそうです。何かに気づいたように。男の方は少し先を歩いておりましたから

上野の山に響く残響

上野恩賜公園 (特に血煙り坂周辺)

……お聞きになりますか。 これは、ここ上野の杜に仕える者として、幾度となく耳にしてきた話でございます。確かなこととは申せませぬ。ただ、同じ話が、別々の人の口からほぼ同じ形で出てくるというのは……やはり、何かあるのだろうと、そう思わずにはおられません。 ある秋の夜のことだと聞いております。もう終電も過ぎた頃合いで、霧雨が石畳を濡らしておりました。写真を趣味にしている男性が、夜の公園を一人で撮り歩いておられたそうです。不忍池のあたりから入って、燈籠の並ぶ参道を抜け、坂のほうへと向かったと。 血煙り坂、という名をご存知でございますか。 今は静かな木立の中の坂道でございますが、慶応四年の夏、あの戊辰の戦で、彰義隊の者たちが最後まで銃を手に立ち続けた場所だと伝わっております。官軍の砲撃が止まぬ中で、どれほどの血が石に滲んだことか。血煙り、とはそのままの意味でございます。 その方が坂の下に差

黒い淵の女の亡霊

コムンソ(거믄소)

昔の話でな……いや、昔でもないか。ほんの数年前のことで、わしが直に見たわけじゃない、人から聞いた話なんじゃが。まあ、ちょっと聞いてみてくれ。 済州島のことじゃよ。オルレ道を歩く人が多いじゃろ。その道沿いに、거믄소という場所があるそうでな。黒い淵、という意味なんじゃが、名前からしてもう、何かあるじゃろ。森がどれほど深いか、真昼でもまともに光が差し込まんというんじゃ。木の葉が隙間なく絡み合うて、空が見えんほどだというんじゃよ。そうなれば水がどれほど黒いか、わかるじゃろ。水面に顔を近づけても、自分の顔が映らんというんじゃ。ただ墨のように黒い水があるだけだと。 それでな……そこには古い噂がある。深い恨みを抱えた娘がいるというんじゃよ。どうして死んだのかは、誰もはっきりとは知らんらしい。水に落ちて死んだとも言うし、誰かに突き落とされたとも言う。定かではないが。とにかくその恨みがどれほど深いか、今

5・16道路の影

5・16道路

みなさん、今日は済州島の話をひとつしましょう。 5・16道路、ご存知ですよね。済州市内から西帰浦の方へ越えていくあの道。漢拏山の中腹を横切る道路で、昼間に通れば両側に杉の木がずらりと並んで、なかなか壮観に見えたりもします。でも、あの道についてちょっと妙な話が囁かれているんです。人から聞いた話なんですが、よかったら聞いてみてください。 私の知り合いに済州に住んでいる方がいます。五年ほど前のこと、その方が夜の十一時頃、西帰浦で仕事を終えて5・16道路を上っていたそうです。普段から何度か通ったことのある道だったので、特に身構えてはいなかったと言っていました。ただその夜に限って、やけに霧が深く立ち込めていたそうで。ヘッドライトの届く範囲だけが白く霞んで見えて、その先はただ黒い闇でした。 上っていくと、中ほどに長くカーブが続く区間があるんです。そこで少し速度を落としたとき、突然、車内の温度がす

バンバン交差点の首吊り死者

ペンペンサゴリ(뱅뱅사거리)近くの事務所

昔の話でな……いや、昔でもないか。五年か、六年か、そんくらい前の話や。江南のバンバン交差点、知っとるやろ、あの近くにオフィスビルがあってな、そこで働いとった人から聞いた話なんやけど。 その人は名前は言えんって言うとった。知り合いが聞いたらどうするって。でも、その人がひどう震えながら話すもんやから、わしは全部しっかり覚えてしもうたんや。 IT関係の仕事やったかな、とにかく残業の多い職種やったらしくてな。その日も皆さっさと帰って、その人だけ残って報告書の仕上げをしとったんやと。夜の十一時は過ぎとったって言うとった。外は車の音もほとんどなくて、事務所の中は蛍光灯が二つばかりしか点いてなくて、あちこち薄暗かったんやけど、そのビルが複層構造でな、上の階が丸見えになる吹き抜けの手すりがあったんやって。 それでな、モニターばかり見とったら、急に上からギィ、って音がしたんやと。古い木材が重みに耐えか

大母山のマネキンの呪い

テモサン(대모산)

みなさん、今日は江南のほうの話をひとつしてみようと思います。 大母山、ご存知ですよね。ソウルのど真ん中に寄り添うように立っている山で、昼間は近所の方が散歩したり運動したりする、ごく普通の山です。ただ、人から聞いた話なんですが、その山に少しおかしなものがあるらしいんです。 マネキンだそうです。木に吊るされたマネキン。 最初にこの話をしてくれた人は、数年前の晩秋の夕方、ひとりでその山の中腹の登山道を歩いていたそうです。ちょうど日が沈みかけて、木々の間から光が消えていく、あの曖昧な時間帯に。そのとき、遠くに何かぶら下がっているものが見えたと。最初はビニール袋か布切れかと思ったそうです。そのまま通り過ぎようとして、足が止まったと。 韓服だったそうです。 白いチョゴリにチマを着ていて、頭がある。体がある。縄が首に巻かれて、木の枝に結ばれていたそうです。それがマネキンだとわかった瞬間でさえ、

塔谷公園の裏路地に宿る怨霊たち

タプコル公園(탑골공원)の裏道

みなさん、今、何時ですか? いいんです。ただ、なんとなく聞いてみたくなっただけで。 今日は塔谷公園の話をしようと思います。公園そのものじゃなくて、裏手に回る路地の話です。ご存じの方はわかると思いますが、鍾路のど真ん中なのに、あの路地に入った途端、空気が変わるって言う人がいるんですよ。昼間でも。真昼の日差しが強い時間でも、あの路地の入り口に差しかかると、首筋がすっと冷たくなるって。そういう人が、けっこういるんです。 気のせいならいいんですけど。 聞いた話なんですが、数年前、あの路地をよく通っていた人がいたそうです。四十代前半の男性で、名前はKさんとしておきましょう。近くに出版社があって、帰り道にいつもその裏路地を歩いて抜けていたそうです。ある日の夕方、ちょうど夏の入り口のころ。まだ日が残っている七時ごろ、路地の片側に女が立っていたというんです。 特に変わったところはなかったそうです

水の森公園の手形

水の森公園

……これは、少し前に耳にした話でございます。確かめたわけではございませんし、誰から聞いたのかも、今となっては霞のように曖昧で……ただ、こうして語らずにはいられない、そういうお話でございます。 仙台の、水の森公園に、公衆トイレがあるのはご存知でしょうか。 木々の多い静かな公園で、昼間は親御さんが子を連れて散歩するような、穏やかな場所だとか。ただ、夜になるとひとけが絶えて、街灯の光も届きにくい場所があるそうでございます。そのトイレも、そういう一角に建っているのだと聞きました。 ある夜遅く、近くに住む若い男性が、終電を逃して歩いて帰る途中に、その公園を通り抜けたそうでございます。近道になるからというだけで、特別な理由はなかったと。秋口のことで、風が少しあって、落ち葉が足元でこすれる音だけが聞こえていたと、その方は言っていたそうです。 用を足そうと、そのトイレに立ち寄りました。 扉を開け

東山動植物園駐車場の怪

東山動植物園 駐車場

これは……確かなことは申せませぬ。ただ、耳に入ったことを、そのままお伝えするだけにございます。 名古屋の東山動植物園に、一般の方が今は入れぬ道がございます。園の駐車場へと続く、くねくねと曲がりくねった細い舗装路でございます。今は鎖と立て札で塞がれておりますが、かつては普通の乗用車も通れたのだと、そう聞いております。 その道が若い者たちに使われていた時期があったそうで。カーブの連なる地形を利用して、夜な夜な車を走らせておったとか。深夜の木立の向こうから、エンジンの唸りと砂利を弾く音が漏れてきたと、近くに住む方が語っておりました。笑い声も混じっていたと。夏の盛りの夜には、排気の熱と草いきれが入り混じって、妙にねっとりとした空気が漂っていたそうで。 ただ、死んだのだそうです。 何度か。 カーブを曲がり切れなかったのか、あるいは別の何かがあったのか、そこまでは存じません。ただ、若い者があ

代々木公園の黒い影

代々木公園

ねえ、聞いてくれる? 代々木公園の話なんだけど。確実なことは言えないんだけど、ちょっと……前から気になってた噂があって。 友人の友人から聞いた話なんだけどね。その人、名前は出せないんだけど、去年の秋に夜の代々木公園を一人で通り抜けようとしたらしいんだって。 夜の十一時すぎ、原宿口から入って、奥の木立のほうへ歩いていったんだって。ほら、代々木公園って広いじゃない?昼間はにぎやかだけど、夜になると街灯もまばらで、木が深くなるほど足元が暗くなっていく。その人、近道のつもりで、フェンスに沿った細い通路を選んだらしいんだよね。 最初は何もなかったって。ただ、落ち葉を踏む自分の足音と、遠くを走る車の音だけ。 でもね、しばらく歩いたところで、ふと気づいたんだって。 自分の足音が……二つになってる、って。 最初は錯覚かと思ったらしいんだよ。乾いた葉が風で鳴ってるのかな、とか。でも立ち止まって

もう一人の声

芝公園, 港区, 東京都, 日本

……これは、確かなことかどうか、わたくしには申し上げられません。ただ、ある方から聞いた話を、そのままお伝えするだけでございます。 芝公園に、古い公衆電話がある、と聞いております。東京タワーの灯りが届かぬ、木立の奥の方。昼間はただの古びた箱ですが、夜になると少し、様子が違うのだそうで。 その方——確か、三十少し手前の男の方だったと聞いております——が、その公衆電話の前を通ったのは、十一月の終わりの夜だったそうです。時刻は十一時を回っていた、と。仕事が遅くなって、最終の地下鉄に乗り損ねて、やむなく歩いて帰る途中だったとか。 公園の中は街灯が疎らで、銀杏の枯れ葉が路面に張り付いておりました。踏むたびに、ぐちゃ、と音がした、と。湿って冷たい葉の感触が、靴の底を通じてはっきり伝わってきた、と言うのです。そしてその晩は、風もなく、虫の音もなく——ただ、自分の足音だけが聞こえていた。 公衆電話の