昔の話でな……いや、昔でもないか。ほんの数年前のことで、わしが直に見たわけじゃない、人から聞いた話なんじゃが。まあ、ちょっと聞いてみてくれ。
済州島のことじゃよ。オルレ道を歩く人が多いじゃろ。その道沿いに、거믄소という場所があるそうでな。黒い淵、という意味なんじゃが、名前からしてもう、何かあるじゃろ。森がどれほど深いか、真昼でもまともに光が差し込まんというんじゃ。木の葉が隙間なく絡み合うて、空が見えんほどだというんじゃよ。そうなれば水がどれほど黒いか、わかるじゃろ。水面に顔を近づけても、自分の顔が映らんというんじゃ。ただ墨のように黒い水があるだけだと。
それでな……そこには古い噂がある。深い恨みを抱えた娘がいるというんじゃよ。どうして死んだのかは、誰もはっきりとは知らんらしい。水に落ちて死んだとも言うし、誰かに突き落とされたとも言う。定かではないが。とにかくその恨みがどれほど深いか、今もそこにいるというんじゃ。
ところがこの亡霊、女だけを惑わすわけじゃないというんじゃ。男も引き寄せるというんじゃよ。性別を選ばんというのが、よけい怖くないか。
聞いた話じゃが、数年前にある男の人が一人でオルレ道を歩いたそうでな。四十を過ぎた方だと言っておったが、山歩きも慣れた人だったそうじゃよ。遅い午後で、雨がしとしとと降っておったというんじゃ。雨音が木の葉の上でさわさわと鳴って、森の匂いが立ち上って。その人が거믄소のそばの道を通り過ぎようとしたその時……
足が、動かんかったというんじゃ。
歩みがどうしても水の方へ向かう感じ。意志とは関係なく、体がそちらへ傾いていくというんじゃよ。それでも正気を取り戻して顔を背けようとしたその瞬間、聞こえてきたというんじゃ。
泣き声が。
雨音ではなかったというんじゃ。風の音でもない。ちょうど耳のすぐそば、口を耳に押し当てるほどの近さで、ひどく静かにすすり泣く声。息を呑む音。それが耳の奥で響くように聞こえたというんじゃよ。それで勢いよく振り返ったら……
淵の真ん中、水面のすぐ下に、白い腕が一本、上へと伸びておったというんじゃ。
水の上に浮いているのではないんじゃ。水の中から上がってくるように、水面のすぐ下から空へ向かってまっすぐ伸びているというんじゃよ。指は大きく開かれ、手首は折れ曲がったまま。皮膚が水に浸かってふやけたように白く、張り詰めておったというんじゃ。それが動いたというんじゃ。ごくゆっくりと。揺れるのではなく、手招きをするように。おいでと言うように。
その人はその場で固まってしもうたというんじゃ。足は動かず、息は喉で詰まり、雨音だけが聞こえるのに泣き声は止まらず。近づいてくるような気もして。体はどんどん水の方へ傾いていくような気がして。
どうやって走ったのか、自分でもわからんと言っておったそうじゃよ。気がついたら、ずっと離れた場所で息を切らしておったというんじゃ。人のいるところまで出てきてようやく息をついたとき、ふと足元を見たら、靴が足首までびっしょりと濡れておったというんじゃ。
なのにその人の記憶には、水に足を入れた覚えがないというんじゃ。
確かなことはわからんが……だから거믄소を通るときは、絶対に淵を覗き込むなと言うんじゃよ。
もしかしたら……水の中から、何かがすでにこちらを見上げておるかもしれんから。