むかしむかしの話でな、慶州からずいぶん奥に入ったところに、山あいの小さな村があってな、そこに一本の道があるというんじゃ。村の人たちがなんと呼ぶかといえば……鬼火の路、と呼んでいたそうな。はっきりとは言えんのじゃけど、外祖母の家がそのあたりだったという人から聞いた話でな、今日はおばあちゃんが聞かせてあげよう。
それでな、その村に三十がらみの独り者がおってな、名前はまあ、ヒョングンとしておこうか。秋もすっかり深まったころのことでな、その人が法事の日に合わせて村の長老の家を訪ねた帰り道、その路をひとりで歩くことになったんじゃと。夜の十時を過ぎた刻で、山から吹いてくる風がひやりと耳をかすめるような夜だったそうな。
最初は何もなかったそうじゃ。慣れた道だからランタンも点けなかったというんじゃ。ところが五分ほど歩いたころ、急に足元からほんのり甘い匂いが漂ってきたというんじゃ。土の匂いでも草の匂いでもなく、なんというか……蓋を開けた甘酒の壺みたいな、そういう匂いだったそうな。山の夜にそんな匂いがするはずがないじゃろう。それでヒョングンが立ち止まって鼻をひくひくさせたんじゃが、その瞬間から頭がおかしいくらいぼうっとしてきたというんじゃ。
じゃが、問題はその後のことでな。
ヒョングンの十メートルほど後ろをついて歩いていた弟がおってな、その弟が言うには、兄がふいに足を止めて、路の脇の森のほうへ顔を向けたというんじゃ。ただくるりと向くのではなく、誰かがそこから名前を呼んだかのように、ぴたりと首をかしげたというんじゃ。そのまま何も言わず、森の中へ歩いていきはじめたというんじゃ。弟が「兄さん!兄さん!」と叫んでも、ヒョングンは振り返りもせずに歩いていったそうな。走るでもなく、おかしな様子でもなく、ごくゆっくりと、のんびりと、まるで迎えに出てきた誰かのもとへ向かうように、そうして入っていったというんじゃ。
弟があまりに怖くて兄の腕を引っ張ったら、そのときヒョングンが振り返ったというんじゃ。じゃが……泣いていたそうな。わんわん泣くのではなく、涙がただ静かにとめどなく流れているのに、顔はにこやかに笑っていたというんじゃ。何かとても素晴らしいものを見ているような、そういう顔で泣きながら笑っていたそうな。
弟はとにかく兄を引きずって走ったというんじゃ。村まで死に物狂いで駆けたそうな。
ヒョングンは後になって正気に戻ってから、何も覚えていないと言ったそうな。あの匂いも、歩いていったことも、泣いていたことも。翌朝、靴の底を見たら泥がたっぷりついていたんじゃが、路の土ではなく、水辺の泥みたいなものだったというんじゃ。近くに小さな渓谷があるんじゃ。そこまで歩いて戻ってきたんじゃと。
それからな、その路では昔、耕運機を運転していて溝に落ちて亡くなった老人もいると聞いたよ。その老人も夜にひとりでその路を通っていたときにそうなったというんじゃ。村の年寄りたちはみんな知っているんじゃが、ただ口をつぐんでいるそうな。なぜそうするのかと聞けば、なんと言うかといえば……鬼火が怒ればもっとひどいことになる、と言ったそうな。
じゃがな、おばあちゃんが一番怖いのはそこじゃないと思うんじゃ。
弟が言うにはな、兄の腕を引っ張ったとき、ヒョングンの手がひどく冷たかったというんじゃ。真冬の水道水よりもなお冷たく。じゃがヒョングンの頬を伝う涙は温かかったというんじゃ。その温度が違っていたことが忘れられないと、その弟は何年経ってもその話をするたびに必ずそう言うそうな。
冷たい手と、温かい涙と。
それが何なのかは……さあ、おばあちゃんにもわからないよ。