皆さん、今日は済州島で聞いた話をひとつしようと思います。
確かなことは言えません。あちらに住んでいた方から聞いたのですが、その方もお母さんから聞いたとおっしゃっていて。だからどこまでが本当のことなのか、私にもわかりません。ただ、そういう話があるということです。
旧暦の二月になると、済州の海の方から霊登ハルマンが上がってくると言われています。風と海を司る女神で、この時期に陸へ上がり、島をひとめぐりして去っていくのだそうです。帰り際には海に海の幸の種を撒いていくとも言われていて。だから済州市サラボンの麓にあるチルモリ堂では、毎年この神様をお迎えする霊登クッが行われるのだといいます。かなり盛大にやるそうですよ。
ところが。不思議なことに、ハルマンが陸に滞在している旧暦二月のあいだじゅう、海が格別に荒れるというのです。ハルマンが留守にしているあいだ、海を守る神もいなくなってしまうのだと言う人もいて。それが正しいかどうかはわかりませんが、とにかくこの時期に海の事故が多いということは、あちらのお年寄りは皆知っている話だそうです。
ただ、私が聞いたのは、そこからもう一歩踏み込んだ話です。
数年前の旧暦二月、霊登クッが開かれる二日前のことだったといいます。サラボンの方から夜明け前に漁へ出ようとしていた海女さんが、チルモリ堂の前を通りかかったとき、その日に限って堂の方から妙な匂いがしたというのです。海藻の腐ったような匂いなのだけれど、生臭いわけでも湿っているわけでもなく、ただ深い海の底から這い上がってくるような匂いだったと。息を吸うたびに、肺の中に海水が満ちていくような気がしたとおっしゃっていたそうです。
おかしいとは思いながらも通り過ぎようとしたとき、堂の中から何かが聞こえてきたといいます。最初は風の音かと思ったそうですが、風にしてはあまりにも低く、あまりにも規則的だったと。まるで人が呼吸しているような音。ひどくゆっくりと、大きく。
その方が足を止めて、脇門の方へ顔を向けたとき。
堂の中に、人がいたというのです。
背を向けて立っていたのですが、背丈がひどく高かったと。髪が濡れていて、足元に水が溜まっていたと。夜明け前の四時、堂の扉は閉まっていたのに。その人物は内側から外へ向いて立っているのではなく、堂の奥の壁に向かって顔を上げていたというのです。何かを見ているかのように。
その方はその場から一歩も動けなかったといいます。息もできずにただ立ち尽くしていると、その人物がゆっくりと顔をこちらへ向け始めたというのです。
どれほどゆっくりと振り向いてきたか、その短い瞬間がひどく長く感じられたとおっしゃっていました。首の後ろの産毛が一本一本立っていくのがわかるほど。
その方は結局、見られなかったそうです。目を閉じてしまったと。そしてしばらくして目を開けたとき、何もなかったといいます。水の溜まった跡も。匂いも。音も。全部消えていたと。
その日、その方は漁に出なかったそうです。そのまま家へ引き返したと。
ところがその夜明け、サラボンの沖合で船が一隻、転覆したといいます。霊登クッの前だったから、まだ誰も来ていない時間のことでした。
それと関係があるのかどうかはわかりません。お年寄りたちはただ、ハルマンが先に来ていたのだろうとだけ言ったそうです。
あの水の溜まった跡が何だったのか。そして、あの顔がどこまでこちらへ向いていたのか。
皆さん、その方は今でも、あの夜明けの匂いがふとすることがあるとおっしゃっています。海など、どこにもない場所で。