皆さん、今夜は梨泰院の話をしてみようと思います。
今わたしたちが梨泰院と呼んでいるあの街のことです。賑やかで騒がしいあの通りではなく、その下に眠る土地の話です。龍山の方へ上がっていくと高校がひとつあるのですが、そのあたりが昔、黄鶴谷と呼ばれていたそうです。そしてその黄鶴谷のどこかに、雲從寺という寺があったといいます。
尼僧だけがいらっしゃった寺だったそうです。確かではありませんが、当時はずいぶん静かで奥まった場所だったと聞いています。山の裾に寺がひとつ、尼僧が数人。それだけの場所でした。
そこへ、壬辰倭乱が起きました。
倭軍が漢陽まで攻め込んできたとき、その寺にも倭将が一人、部隊を率いて入ってきたといいます。聞いた話では、その倭将が雲從寺を駐屯地にしたとのことです。寺の庭に陣幕を張り、法堂に荷を解いて。尼僧たちには行き場がなかったでしょう。逃げることも、抗うこともできずに。
そのあとに何があったかは、まあ、わざわざ申し上げなくても皆さんには察しがつくかと思います。
倭軍が退いたのち、尼僧たちは寺へ戻らなかったといいます。戻れなかったのか、戻らなかったのかはわかりません。いずれにせよ、彼女たちは隆慶山のほとりに掘っ立て小屋を建てて身を寄せ合い、世間とはきっぱり壁を作って暮らしたといいます。
時が流れました。
そして、子どもたちが生まれました。
近隣の村人たちが最初にそれを知ったのがどういう経緯だったかはわかりませんが、伝え聞くところでは、ある日あの小屋の方から生まれたばかりの赤子の泣き声が聞こえてきたといいます。秋のことだったそうです。風もない夜なのに、どこからともなく赤子の泣き声がずっと聞こえてきたと。最初に一人、それからまた一人。それがひと晩のうちのことだったといいます。
翌朝、人々が訪ねていって尼僧たちの顔を見たとき、誰も何も言えなかったといいます。その目のせいで。罪があるわけでも、ないわけでもない人間の目。ただそこにいた人たちの目。それの方がよほど恐ろしかったと、その村の老人から聞いたという人がいます。
村人たちはそのあたりを、異胎、異胎と呼び始めました。異胎——異なる胎を持つ子どもたちのいる場所。そこに院がついて、異胎院になったといいます。
後に孝宗の時代、梨の木が多いからという理由で字を改めたとも伝わっています。梨泰院、梨の木の梨の字に。名前を書き換えれば何かが変わると思ったのでしょうか。さて、どうでしょう。
ところで皆さん、わたしがこの話の中でいちばん長く引っかかっている部分があります。
あの子どもたちが生まれた夜の、泣き声の話です。確かではないのですが、聞いた話では、その声はひとつの方向から聞こえてきたわけではなかったといいます。山の方から聞こえたという人もいれば、寺の跡地の方から聞こえたという人もいて。つまり、別々の場所から、ほぼ同時に泣いていたということです。
あの夜に生まれた子どもは、一人ではなかったということです。
その子どもたちがどうなったかは、誰も語りません。伝わっていないのです。尼僧たちも、子どもたちも、ある時点からぱたりと記録が途絶えています。
黄鶴谷という地名も今は使われておらず、雲從寺の跡地がどこにあるのか、誰も知りません。
ただ、あの街を今でも夜に一人で歩いていると、ときおり何かおかしいと感じる人がいるといいます。何かがおかしいというより、何かが並んで歩いているような感じ、と。そこで立ち止まって振り返ると、何もいないのに。
足音だけが、一拍遅れて止むといいます。