川・海・井戸の怪談

水面の影、水底から聞こえる声。川、海、池、井戸にまつわる物語です。

京の都、妖の声

Kyoto

これはですね、知り合いの知り合いから聞いた話でして、確かめようがないんですが……まあ、そういう話だと思って聞いてください。 京都に、加奈さんという女の人がいたそうです。二十代の後半で、烏丸のあたりの会社に勤めていた。帰り道にいつも鴨川沿いを歩くのが習慣だったらしい。夜の川沿いってのは、昼間とは空気が違いますよね。川の匂いがして、柳がさわさわと揺れて、なんとなく落ち着く、と。彼女にとってはそういう道だったそうです。 ある夏の夜のことです。七月の終わりで、日が落ちてもまだじっとり蒸していたと言います。加奈さんはいつもどおり川沿いを歩いていた。靴底に石畳の感触があって、川の水の匂いが鼻をついて、虫の声がしていた。いつもと同じ夜でした。 ただ、途中でふと気づいたんですって。 子供の声がする、と。 笑い声です。きゃあきゃあというんじゃなくて、くくく、くくく、というような……抑えた笑い声。川

プサン(부산)ヘウンデ(해운대)の影の伝説

釜山(プサン)

みなさん、今日はプサン(부산)の話をひとつ。 ヘウンデ(해운대)はご存知ですよね。夏になればパラソルや浮き輪であふれかえって、足の踏み場もないあのヘウンデ(해운대)です。でもあそこに長く住んでいる人たちの間で、ひっそりと囁かれている話があるんですよ。日が沈んだあと、あの砂浜をひとりで歩くなって。ただの用心じゃなくて、本当に、絶対にひとりで歩くなっていうんです。 これを聞いたのはもう何年も前のことで。プサン(부산)生まれの人から聞いた話なので、ちょっと伝えてみようと思います。確かなことは言えませんが、あのあたりではそこそこ知られた話らしいんです。 何年か前の夏のことだったそうです。大学生のグループがヘウンデ(해운대)で夜を過ごしていたんですって。お酒を飲んで、砂浜に座ってわいわいやって、みんな浮かれていたんでしょうね。ところが夜中の一時ごろになって、友人たちがひとりふたりと宿に引き上げ

道頓堀の影

Osaka

これはね、大阪の道頓堀で聞いた話なんですが。 まあ、誰から聞いたかっていうと、友人の友人の話でして。確かめようがないんですけれど、ちょっと妙な話なんで、そのまま聞いていただければと。 健二くん、というんですがね。大学二年生だったとか。ある秋の終わり、雨の夜のことだったそうです。 友人たちと難波で飲んで、帰り道に道頓堀の橋に差し掛かった。戎橋のあたりですね。あのスポーツ選手の看板がネオンで滲んで、川面に溶けていくような夜。雨粒が水面を叩いて、ぽつ、ぽつ、と音を立てている。 酔っていた彼はね、ふと橋の欄干に肘をついて川を覗き込んだんだそうです。 特に理由はなかった。ただ、足が止まった。 ネオンの赤と黄が水の中で揺れている。その中にね、一つだけ、光らないものがあった。光を吸い込むように黒い、人の形をした何かが、水面の下にある。 「あれ、何や」と友人に言ったんですが、誰も振り返らなか

カロスキルの最後の訪問者

ソウル

ソウルのカロスキルは、昼間こそ洗練されたカフェや店が立ち並ぶ華やかな通りだが、夜になると別の顔を見せる。都心でもっとも垢抜けたその街が闇に沈むとき、そこには語り継がれる怪談がある。 数年前、この道をよく歩くカップルがいた。ある夜遅く、カフェを出てタクシーを拾おうとカロスキルを歩いていると、どこからともなく、すすり泣く声が聞こえてきた。好奇心に引かれた二人は、声のする方へと足を向けた。 声の源にたどり着いたとき、彼らは古びた服を纏い、道端にうずくまる女を見つけた。女は顔を伏せたまま、肩を震わせて泣いていた。二人が近づき、どうしたのかと声をかけても、女は答えなかった。代わりに、ゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。その目は真っ赤に充血し、口は不自然に裂けていた。 驚いた二人は後ずさり、急いでその場を離れようとした。しかし女は歪んだ笑みを浮かべながら、「あなたたちも、すぐに私と同じになる」と叫

淀川の呪われた倉庫

Osaka

これはね、淀川沿いの話です。 確かな筋からではないんですが、まあ、聞いてください。 大阪に住んどる知人から聞いた話で、その人もまた誰かから聞いたっていう、そういう話です。ですから、どこまで本当のことかは、わたしにも保証できません。 淀川の、ちょうど橋から少し離れたあたり。正確な場所は、あえて言わないでおきますが、川沿いの古い倉庫の話です。何十年も使われてない、鉄製の扉が半分錆びついて、もう開けることもできないような、そういう建物だと聞いています。周りの住民は、誰もあそこには近づかないと。近づかないどころか、夜はその道を通ることすら避けるんだって。 なんでかって言うとね、霧が出るんだそうです。夏の夜でも、あの倉庫の周りだけ。川霧というには妙で、風が吹いても動かないような、そういう霧が。そして静かなんだと。川べりですから本来なら水音がするはずなのに、あのあたりに来ると、すうっと音が消え

漢江の囁き

ソウル

漢江は数えきれぬ伝説と怪談を抱えながら流れ続ける。その中でも最も人々に目を背けられてきた話が、漢江の深淵から聞こえてくる囁きであった。ソウルを静かに抱き込むこの川の水面の下で、何かがまどろむことなく息づいているという。 ある夜更け、川沿いで月光に揺れる水面を眺めていたジスは、奇妙な音を耳にした。最初は単なる水の音だと思っていたが、やがてそれは理解の及ばない言葉へと変わっていった。一つの声ではなく、無数の存在が一斉に囁いているような響きだった。 音に引き寄せられるように、ジスは川岸へと近づいていった。その瞬間、穏やかだった水面がかすかに揺れたかと思うと、突然、巨大な波紋が彼の足元に広がった。その中には、銀河を思わせる星の光がきらめいていた。ジスはその輝きに魅せられ、ゆっくりと手を伸ばした。 不意に、星の光の中から何かが姿を現した。それは人間の想像力をはるかに超えた存在であり、無数の目と

福岡の呪われた塔

Fukuoka

どこで聞いた話かは、はっきりとは申し上げられないんですが。 中洲を、ご存じですか。 福岡の中心、川に挟まれた夜の街です。ネオンと酔客と、料理の匂いが混ざり合って、夜の十二時を過ぎても人が途切れない。ああいう場所には、たしかに何か、熱みたいなものが溜まる気がします。 ただ、その中洲の、ちょっとだけ外れたところ。川沿いの、人通りが細くなるあたりに、一棟だけ、ぽつんと取り残されたビルがあるんだそうです。 地元では「赤い塔」と呼ばれているらしい。 もとは、それなりに栄えていたビルだったと聞きます。テナントも入って、人が出入りして。ただ、何年か経つうちに、店が一軒、また一軒と抜けていって、気づいたときには誰もいなくなっていた。なぜ抜けたのか、理由は誰も教えてくれないんだそうで。ビルの外壁が赤錆に覆われていて、それで「赤い塔」という名がついた、とも言われているし、別の理由がある、とも言われて

谷の囁き

釜山

釜山の郊外に、長い年月、人の足が届かない小さな谷がある。地元の人々はその場所を「囁きの谷」と呼び、近づくことを避けてきた。囁き声が聞こえるという噂が絶えなかったからだ。夕暮れ時に谷を通りかかると、耳元にまとわりつく、低く陰鬱な声がするのだという。 遠い昔、その谷には小さな集落があったと伝えられている。村人たちは毎年春になると、谷の精霊を鎮めるために祭祀を執り行っていた。しかしある年、強引な開発計画によって村は跡形もなく消え去り、それ以来、谷では不可解な出来事が後を絶たなくなった。 あるとき、肝の据わった大学生が二人、取材のために谷へと向かった。「囁きの谷」の伝説を解き明かしてみせると、彼らは豪語していた。夜が深まるにつれ、二人は谷の中心部へと踏み込んでいった。そのとき、声が聞こえてきた。「引き返せ……引き返せ……」彼らはそれを幻聴だと笑い飛ばし、さらに奥へと進んだ。 しかし、じりじり

海雲台の影

釜山

みなさん、今日は釜山の話をひとつしようと思います。 海雲台、ご存知ですよね。昼間に行ったことのある方ならわかるはずです。砂浜が果てしなく広がって、周りのホテルの灯りが海の上に瞬いているあの浜辺。でも、それが……夜になると変わるんだそうです。人が全員いなくなると、あの広い砂浜がただ静かに暗くなるんじゃなくて、何かが変わるって。空気が変わるって言うんですよ。うまく説明しにくいんですけど、聞いた話なんですが、昼間あれだけ賑わっていた浜辺が、夜になると急にしんと静まり返るんだそうです。波の音だけが残って。でもその波の音が、ただの波の音に聞こえないって。 数年前からあのあたりで失踪事件がけっこうあったらしいんです。確かなことはわからないんですが、主に夜に一人で浜辺を歩いていて消えるケースだったって。痕跡がなかったというのが不思議なんですよ。砂浜ですから。足跡が残るはずなのに、ある地点でぷつりと途

狐の囁きと夜の湖

Fukuoka

えー、聞いた話なんですが。 確かめたわけじゃないんで、どこまで本当かはわからない。でも、何人かから同じような話を聞いたので、今夜ちょっと、話させてもらおうかと思って。 福岡の、油山っていう山があるんですよ。昼間はね、家族連れが弁当広げてるような、ごく普通の市民の森です。でも、奥の方に、地図に名前が載ってない小さな湖があるって話がある。地元では昔から「狐湖」って呼ばれてるらしいんですが、正式な名前は、どうも誰も知らないらしい。 で、二年ほど前の秋のことだって言うんですが。 陽介、っていう大学生がいて。まあよくある話で、友人たちと肝試しにその狐湖を目指したわけです。夜の十一時過ぎ、四人で山道に入った。懐中電灯を持って、わいわい言いながら登ってたらしいんですが、途中からだんだん、誰も喋らなくなったって。 理由はよくわからない。怖いっていうより、なんか、喋る気がしなくなったって、後から友

影島を離れてはいけない理由

ヨンド(영도)のポンネサン(봉래산)、ヨンドのハルメ岩(할매 바위)

みなさん、今日は釜山の影島に伝わる話をひとつ聞いてもらおうと思います。 人から聞いた話なんですけどね。影島で生まれ育った人たちはほとんど知っているそうなんです。鳳莱山に登ると、ハルメ岩というのがあるんだって。ただの古い岩なんですけど、影島の人たちはそれをふつうのものとして見ないんだそうです。 そのハルメが、影島に入ってくる人は歓迎してくれるんだって。懐に抱き入れてくれると。でも、出ていく人には違うんだそうです。許しを得ずに出ていくと、そのままにはしておかないって。 はっきりしたことはわからないけれど、影島の生え抜きの人たちの間では、ずっと昔からこういう言い伝えがあるそうです。影島を離れるときは、必ず鳳莱山に登ってハルメ岩の前に立ち、挨拶をして許しをもらわなければならないって。そうしてはじめて、出ていってもいいんだって。 ただの噂話みたいに聞こえますよね。私も最初はそう思ってました。

加陽駅 怪異連続失踪事件

カヤン駅(가양역)

あ、これ話していいのかな……本当に。聞いたとき、しばらく加陽駅に乗れなくなったんだよね。本当の話。 聞いた話なんだけど、確かじゃないけど——2022年に加陽駅の近くで、三人もの人が消えたんだって。ただ消えたんじゃなくて。駅の中に入るところはぜんぶ防犯カメラに映ってたのに、出てくるところがない。どこにも。出口でも乗り換え通路でもトイレでも——いないんだよ。まるで駅の中に入った瞬間から、その人が世界から消されたみたいに。 その中でも、ある男の人の話が一番怖くて。夜中の二時半ごろだったって、その人が彼女に電話したのが。たいした話でもなかったって。「もうすぐ帰る」って、それだけ言って切ったんだって。彼女はそのまま帰ってくるんだと思って寝たんだけど、朝になっても電話に出なくて、家にもいないんだよ。家族がビラを作って貼って回ったんだけど——情報提供は一件もなかったって。一件も。その人の最後の声が「

サラボン・チルモリ堂の霊登ハルマン

済州市サラボン(사라봉)チルモリダン(칠머리당)

皆さん、今日は済州島で聞いた話をひとつしようと思います。 確かなことは言えません。あちらに住んでいた方から聞いたのですが、その方もお母さんから聞いたとおっしゃっていて。だからどこまでが本当のことなのか、私にもわかりません。ただ、そういう話があるということです。 旧暦の二月になると、済州の海の方から霊登ハルマンが上がってくると言われています。風と海を司る女神で、この時期に陸へ上がり、島をひとめぐりして去っていくのだそうです。帰り際には海に海の幸の種を撒いていくとも言われていて。だから済州市サラボンの麓にあるチルモリ堂では、毎年この神様をお迎えする霊登クッが行われるのだといいます。かなり盛大にやるそうですよ。 ところが。不思議なことに、ハルマンが陸に滞在している旧暦二月のあいだじゅう、海が格別に荒れるというのです。ハルマンが留守にしているあいだ、海を守る神もいなくなってしまうのだと言う人

江南の鬼神の地にまつわる祭祀の禁忌

カンナム(강남)のあるオフィスビル

あ、これ話していいのかな……私が直接体験したわけじゃないんだけど、話してくれた人がもう震えながら語るもんだから、私もあの日以来ちょっとおかしくなっちゃって。聞く? 江南のど真ん中の話。駅の近くにある、あのきれいなオフィスビルのことよ。ガラス張りの外壁に、ロビーもぴかぴかに磨かれてるやつ。その何階かにIT系の会社が入ったんだって。ソウルの郊外から江南に拡張移転してきたらしくて。はっきりはしないけど、十数年前の話だって聞いた。 で、入居契約のとき、ビルのオーナーのおじいさんが社長に、本当にはっきりと念を押したらしいの。この土地は古くからの鬼神の地だ、必ず祭祀を済ませてから入れ、形だけでもいいからマッコリの椀を一杯供えろ——そこまで言ったのに、会社側は笑って流したんだって。今どき祭祀なんて、って。まあ気持ちはわかるけどね。そうでしょ? でも引っ越してきたその週から、おかしなことが起き始めた

江南某アパート404号室の祟り

カンナム(강남)のとあるマンション

皆さん、今日お話しするのは……江南のどこかにあるアパートの話です。 場所をはっきり言うのは少し憚られますが。ただ、江南でも名の知れた複合住宅だと聞いています。ロビーには大理石が敷かれ、守衛室もあって、駐車場には外国車が立ち並ぶような場所。確かではありませんが、かつては芸能人や実業家たちが出入りしていたとも聞きました。 ただ、そこの警備員たちの間で、ひっそりと語り継がれている話があるそうです。 四階、あるいは四のつく階のあのライン——用がなければ近づくなと。特に夜間巡回のときは、あの廊下を足早に通り過ぎろと。なぜそうなのかは、最初はなかなか教えてもらえないそうです。ただ、肩越しに、静かに。 聞いた話なんですが。 数年前、そのラインに新しく入ってきた警備員の方がいたそうです。五十代半ばくらいだったとか。夜勤で、一人で巡回するのが仕事だったんですが、ある夜中の二時頃、その階の廊下を歩い

新世界の裏路地の呪い

新世界の裏路地

ねえ、聞いてくれる? 大阪の新世界でね、ちょっと……聞き捨てならない話が回ってるんだけど。 確かめた話じゃないの。でも、何人かから同じようなことを聞いたから、もしかしたら、って。 去年の秋のことだったって。大阪に出張で来た、三十代の男の人の話。名前は……まあ、仮にKさんとしとく。Kさんは仕事が終わったあと、一人で新世界に串カツを食べに来たんだって。夜の九時を過ぎたころ。通天閣がオレンジ色にぼんやり光って、表通りはまだそれなりに人がいた。でもね、Kさんは食事を終えて、ホテルに帰ろうとして、ちょっとだけ近道しようとしたらしいの。 そこで、一本、細い路地に入ってしまった。 最初は何でもなかったって。古いビルの間の、人ひとりがやっと通れるくらいの暗い道。地面はアスファルトがあちこち剥がれてて、排水溝のにおいがした。ちょっと酸っぱいような、腐ったものが水に混じったような……ずっとそこにあっ

祇園、座敷の奥に隠された井戸

祇園の古いお茶屋や料亭

ねえ、聞いてくれる? 祇園のお話なんだけど。確かめたわけじゃないから、ほんとうにただ聞いた話として受け取ってほしいんだけどね。 あの辺の古いお茶屋さんとか料亭って、何百年もの時間が染み込んでいるでしょう。軒を連ねる格子戸、石畳、夜になると提灯がぼんやり灯って……ああいう場所って、昼間とはまるで別の顔を持ってるって言うじゃない。それはただの雰囲気の話じゃなくて、もっとずっと、文字通りの話だったみたいなの。 ある芸妓さんが、先輩から聞かされた話だって言うんだけど。 その人がまだ若い頃、お座敷に呼ばれて、とある古いお茶屋に上がったんですって。お客さんも数人、お酒も入って、賑やかな宴席だったって。で、夜もだいぶ更けた頃、その芸妓さんがちょっと席を外そうとして、立ち上がった拍子に、畳の端を踏んだらしいの。 そしたらね。 ずれたんですって。畳が、ほんの少し。 みんな笑い声が止まったって言

丹沢の神隠し

丹沢山地(特に山の神トンネル周辺)

ちょっと、聞いてもらえますかね。 丹沢の話です。神奈川の、あの山の話。 確かめたわけじゃないんですけど、まあ、こういうことを言う人がいるんですよ。山の奥のほうに、「山の神トンネル」って呼ばれてる場所があるらしくて。地元じゃ昔から、あそこだけはあんまり近づかないほうがいい、って言い伝えがあるんだそうです。 で、三年か四年ほど前の話、らしいんですけど。 ある男の人が、一人で丹沢に入ったんですね。ベテランの人で、もう何十回も同じ山域を歩いてる。装備も充分、天気も悪くない。十月の終わりで、日は短いけれど、昼前に入山して夕方には下りてくる予定だったと聞きます。 ところが、夕方になっても戻らない。 最初は、まあ少し長引いただけだろうと。そういう判断だったらしいんですよね。でも夜になっても音沙汰がない。翌朝、捜索が始まったんですけど、これがまた、何も出てこなかったそうなんです。荷物もない、足

不忍池のボートに乗ると別れるカップル

不忍池

ねえ、聞いてくれる? 去年の春の終わり、私ね、上野に一人で行ったんだよね。別に理由があったわけじゃなくて、ただなんとなく、人混みの中に混ざりたい日があるじゃない。不忍池のほとりをぐるっと歩いて、ベンチに座って、蓮の葉を眺めてた。 そのとき、隣のベンチに女の人が座ったの。 三十代くらいかな。きれいな人だった。でも、なんか……目が、ぼんやりしてた。私を見てるんだけど、私を見てない、みたいな。で、その人がぽつりと言ったの。「ここで乗ったんですよね」って。 ボート乗り場の方を見ながら。 なんとなく話を聞いてしまったんだよね、私。 彼氏と来たのは二年前の春で、二人でボートに乗ったって。夕方に近い時間で、水面が橙色に染まってて、きれいだったって、小さな声で言ってた。そこまでは普通の話なんだけど…… 池の真ん中あたりに出たとき、急に匂いが変わったんだって。 泥の、あの池特有のひんやりした

合羽橋に棲まう河童の恩恵

合羽橋、曹源寺

ねえ、聞いてる? 合羽橋の話、しようと思って。 道具街って、知ってるでしょ。業務用の鍋とか、包丁とか、プロが使うような道具がずらっと並んでる、あの通り。昼間は観光客が写真を撮って、活気があって、ぜんぜん怖い場所に見えない。わたしもそう思ってた。行くまでは。 去年の十一月だった。ちょうどこの時期みたいに、冷え込みが急に本格的になってきた頃。撮影の仕事で使う小道具を探しに、夕方から合羽橋をうろうろしてたの。でも目当てのものが見つからなくて、気づいたら閉店時間をとっくに過ぎてた。 通りから人が消えてた。 昼とはぜんぜん違う顔をしてた。街灯に照らされた銅鍋がショーウィンドウに並んでて、黒ずんだ光を反射して、なんかこう……静かで、きれいで、でも、人形みたいに整いすぎてて。わたし、なんとなく足が止まらなくて、ひとりで歩き続けてた。 そのうちに、曹源寺の方に来てた。 「かっぱ寺」って呼ばれ

浅草寺を襲った牛鬼

浅草寺、隅田川

これはね、ずいぶん昔の話だって聞いてます。鎌倉の頃のことらしい。らしい、というのは、確かめようがないからで。でも、確かめようがないからこそ、ずっと語り継がれてきた話でもあるんですよね。 浅草寺で、法要があったそうです。 秋の、雨上がりの夜だったとか。境内にお坊さんが五十人ほど集まって、読経をしていた。ろうそくの光が雨水を含んだ石畳に揺れて、お線香の煙が低く漂って、そういう、静かな夜だったらしいんです。 最初に気づいたのは、川の匂いだったって聞きました。 隅田川は近い。だから川の匂いがするのは別に不思議じゃない。ただ、その夜の匂いは少し違ったんだそうです。泥と、腐った草と、もうひとつ、何か獣のような……生臭いような……うまく言えないけど、普通じゃない匂いが、風もないのに、ふっと境内に流れてきたと。 読経の声が、少しずつ乱れていったそうです。 誰かが気づいた。川のほうから、何かが来

重林寺跡地の「祟り道」

重林寺 (跡地周辺の道路)

ねえ、聞いてくれる? 池袋の話なんだけど……確実かどうかはわからないんだけどね。ただ、地元に長く住んでるお年寄りから何人か、同じような話が出てるって聞いたから、もしかしたら、って。 重林寺、ってお寺があったんだって。今はもうないんだけど。慶安年間っていうから、江戸時代の初め頃に開かれたお寺でね、その周りはずっと、広いお墓だったらしいの。ずっと、ずっと長い間。何百年も、そこで眠ってきた人たちがいた場所。 それがね、ある時期に道路になったんだって。お墓の上に、そのまま。 最初は何も気づかなかったと思うのよ。ただの道路。車が走って、人が歩いて。でもね……その道路で、事故が続くようになったって。 一件、二件じゃないの。何度も何度も。なぜかその場所で、ってくらい続いたらしくて。地元の人たちの間で、だんだん「あそこは通らないほうがいい」って話になってきたんだって。 そのうちにね、こんな話を

伊良林の枕返しの部屋

長崎市伊良林

……ねえ、聞いてくれる? 長崎の、伊良林のあたりで、ずっと前から囁かれてる話なんだけど。確かめたわけじゃないから、あくまで噂として聞いてほしいんだけどね。 伊良林って、坂が多くて、古い家が石垣に寄り添うように並んでる、そういう町でしょう。そのなかに、代々ひとつの家族が住んでたとある古い家があってね。表から見たら何ということもない、雨に焼けた木の引き戸があって、軒が少し傾いていて、庭の奥のほうに古い井戸がひとつ。蓋はしてあるけど、使われてはいない。そういう家。 その家に、四畳半の部屋があるんだって。ちょうど井戸のある方角に向いた、縁側に面した小さな部屋。昼でも少し薄暗くて、畳が日焼けして白っぽくなってて、柱のところだけ空気がひやりと重い、そういう部屋らしい。 その部屋で、ある夜、親戚の男性が泊まることになったそうなの。遠くから来て、他に空き部屋もなかったから、ってことで。 その人、

権現山のまごころの鐘の呪い

権現山展望公園

さて、今夜は長崎の話を一つ。 野母町というところがありましてね。長崎市の南の端っこ、半島の先の方です。そこに権現山展望公園という場所がある、と聞いたことのある方もいらっしゃるかもしれません。晴れた日には軍艦島が見えて、海の色が刷毛で塗ったみたいに青い、そういう景色のいい場所だそうで。 その公園の一角に、「まごころの鐘」というものが建っているんです。世界平和への願いを込めて設置された鐘だということで、まあ、訪れた人が鳴らしていく、そういう場所らしいですね。 これはある男の人から聞いた話です。名前は出せませんが、長崎に住んでいる方で、三十代の前半。まあ、確かめようのない話ではありますが、聞いてください。 数年前の秋のことだそうで。その男の人が友人と二人、夕方の遅い時間にその公園に行ったと。観光でも何でもなく、ただの気まぐれで、車で立ち寄っただけだったそうです。時間にして午後七時か八時か

森に消える橋、太白山第二橋

太白山第二橋

これはですね、仙台のほうで聞いた話です。 確かめた訳じゃありませんが、どうも本当にある場所の話らしくて、知ってる人は知ってる、でも誰も詳しく語ろうとしない、そういう類の話でして。 仙台市の太白区に、「太白山第二橋」という橋があるそうです。 名前だけ聞くと、別にどうってことない。川に架かった普通の橋でしょう、と思いますよね。ところがこの橋、渡り切った先に、道がないんだそうです。 道が……ない。 橋があって、欄干があって、コンクリートがあって、ちゃんと車が通れるような幅もある。でも渡り終えたその瞬間、アスファルトがぷつりと途切れて、そこから先はただ、鬱蒼とした森が広がっているだけなんだと。 聞いた人が言ってたんですけどね。初めてそこへ行ったとき、夕方の少し遅い時間だったそうで。細い山道を車で走って、橋の手前で一度止まったらしいんです。なんとなく、すぐ渡りたくなかったって。 橋の上

消えた女子高生と最後の電話

室蘭市

聞いた話なんですけどね。 確かめようがないんですが、知り合いの知り合いから流れてきた話で、室蘭に縁のある方なら、ひょっとしたら耳にしたことがあるかもしれない。 二〇〇一年の春先のことだといいます。 まだ雪が端に残っているような、あの北海道の中途半端な季節ですね。室蘭に住んでいた女の子で、当時高校二年生だったそうです。名前は伏せますけど、近所では明るくてよく気の付く子だって評判だったらしい。 その日、彼女は母親に「バイト先のパン屋さんに行ってくる」って言ったそうです。コーヒーの淹れ方を教えてもらう約束があるって。特別なことは何もない、普通の土曜日の昼過ぎだったそうで。 母親は玄関で見送って、夕方には帰ってくるものだと思っていた。 ところが夕方になっても、夜になっても、帰ってこなかった。 あとで防犯カメラの映像を確認したら、まず市内の大きなショッピングセンターに立ち寄っているのが

太宰府天満宮の縁切り橋

太宰府天満宮

……ねえ、聞いてくれる。 太宰府天満宮の話なんだけど。去年の秋、私の後輩の子が経験したことで……本人から直接聞いたから、私はこれが頭から離れなくて。 あそこ、境内の池に橋が三つかかってるの、知ってる? 過去、現在、未来って呼ばれてて、カップルで渡ると縁が切れるって、昔からそういうことが言われてるみたい。まあ、観光地の言い伝えでしょって、普通は笑えるやつよね。 その子も笑ってたの。彼氏と一緒に、手をつないで、三つ全部渡りながら。十一月の、晴れた午後だったって。参道に梅ヶ枝餅の甘い焦げたにおいがして、修学旅行の学生がわあわあ声を立ててて、境内は人でいっぱいで。怖いとか変とか、そういう気配は何もなかった、って。 ただ、三つ目の橋を渡り終えたとき。 振り返った瞬間に、周りの音がすうっと引いた感じがしたって。人はいるのに、なんか、水の底みたいに声が遠くなって。 それで……手をつないでる彼

蛇池の大蛇

蛇池

……蛇池、ご存知でしょうか。 名古屋の西区、庄内川のそばに今もある池です。直径が百メートルほどもある、大きな池で。昼間は公園になっていて、子供たちが縁に並んで魚を眺めていたりする。なんでもない顔をした、ふつうの池です。 ただ、池のほとりに龍神社がある。石の小さな社で、大蛇を龍神として祀っているんだそうです。なぜ大蛇が龍神になったのか。その話が、少し妙な形で残っていましてね。 昔、ある若い武将が、この池に大蛇が棲んでいるという噂を聞いた。自分で確かめてやろうと、村人に命じて池の水を汲み出させた。何日もかけて。ところが、いくら汲んでも池は干上がらなかった。底がなかったそうです。武将は自ら刀を口にくわえて池に飛び込んだが、大蛇も底も見つからないまま引き上げた。それだけでも相当な話ですが……戻ってきたその武将が、それ以来、ほとんど口をきかなくなったと伝わっています。何かを見たのか、何かに会っ

繋がるはずのない通路

南港の歩道橋・連絡通路

ねえ、聞いてくれる? 南港のこと、なんだけど。 あそこの歩道橋、使ったことある人ならわかると思うんだけど……あの独特の雰囲気、あるじゃない。コンクリートと鉄骨で組まれた、人工的な空中回廊みたいな通路。昼間でも人が少なくて、足音だけが響いて、なんか……ちょっと浮いた感じがする場所。 その南港の連絡通路で、変なことが起きるって話、聞いたんだけど。 友達の友達から聞いた話だから、確認はできないんだけどね。 その人、仮にKさんって呼ぶけど、Kさんは南港に仕事があって、週に何度も同じ経路を歩いてたんだって。フェリーターミナルのほうから、いつもの歩道橋を渡って、連絡通路を抜けて、ビルの入り口に出る。そのルート、もう体が覚えてるくらい歩き慣れてたっていう。 それが、ある秋の夜遅くのこと。 残業帰りで、時刻は十一時過ぎ。人はほとんどいなくて、通路に入った瞬間から、蛍光灯の白い光だけがずっと続

打越橋の地蔵

打越橋(横浜市南区)

ねえ、聞いてくれる? これ、わたしの知り合いから聞いた話なんだけど……確かめようがないから、ほんとかどうかはわからない。ただ、その子がすごく怖い顔で話してくれたから、なんとなく、忘れられなくて。 横浜の、南区のほうに、打越橋っていう橋があるんだって。 古い橋でね、下を見ると、かなり深い崖になってるらしいの。地元の人はみんな知ってるみたいで、昔から「魔の崖」なんて呼ばれてたって聞く。飛び降りる人が多かった時期があったらしくて……今は柵が立ってるから、そういうことは減ったそうなんだけど。 その橋のたもとに、小さなお地蔵様が祀られてるんだって。 苔がついてて、ちょっとくすんだ感じの、古いお地蔵様。誰かが置いていったのか、最初からそこにいたのか、それも定かじゃないらしい。ただ、いつからかそこにいて、通りかかる人たちはみんな、なんとなく手を合わせて通るんだって。 で、これが問題なんだけど

横浜三塔物語

横浜三塔(神奈川県庁、横浜税関、横浜市開港記念会館)および周辺のビュースポット

聞いてください。 去年の秋のことなんです。私が直接、ではないんですが、ほぼそれに近い。知人の女性から、直に聞いた話です。仮に、Kさんとしておきましょう。 Kさんは横浜の生まれで、みなとみらいの近く、ずっとあのあたりに住んでいた人です。横浜三塔、ご存知ですか。神奈川県庁が「キング」、横浜税関が「クイーン」、横浜市開港記念会館が「ジャック」。港を囲むように建つ、三つの古い塔です。 その三塔を一度に見渡せるビュースポットが、横浜に三ヶ所ある、という話があります。赤レンガパーク、日本大通り、それから大さん橋の国際客船ターミナル。この三ヶ所を一日で全部回ると、願い事が叶う、と。観光のパンフレットにも載っているような、明るい言い伝えです。 Kさんはそれを、去年の十月に一人でやった。 願ったのは、亡くなった恋人にもう一度会いたい、ということだったそうです。春に急に逝ってしまった人で、まだ三十代

合羽橋の河童大明神

曹源寺 (合羽橋道具街)

ねえ、聞いてる? これ、私が直接関わった話じゃないんだけど……でも、すぐそばにいた人の話だから、他人事みたいに笑えなくて。 去年の夏の終わりごろ、私の知ってる人が合羽橋で働いていてね。道具街の端っこの方にある小さな食器の卸問屋で、閉店後の棚卸しを一人で任されることが多かったんだって。夜の十一時、十二時まで残ることもざらで。 その日も、仕事を終えてシャッターを下ろして、道具街を一人で歩いていたらしいの。 夜の合羽橋って、昼間とは別の場所みたいになるんだって。包丁が並んだショーウィンドウも、プラスチックの食品サンプルも、全部シャッターの向こうに閉じ込められて、通りには街灯だけ。そしてあちこちに、河童の像がひっそり立っている。昼間は観光客が写真を撮って笑ってるような、愛嬌のある顔した河童たちが、夜になるとただ、そこに在るだけになるって言ってた。 その人が曹源寺の前まで差し掛かった時のこ

上野東照宮の水を飲む龍

上野東照宮、不忍池

さあ、ひとつ聞いてください。 上野の東照宮、あそこの唐門に龍の彫刻があるのはご存じでしょう。左右に一体ずつ、向かって右が頭を上に向けた龍、左が頭を下に向けた龍。拝観に来た方なら一度は目にしているはずです。 ただ——これが、ただの飾りじゃないというんですよ。 昔から言われているんです。あの龍、夜になると動く、と。 夜な夜な唐門を抜け出して、不忍池まで水を飲みに降りてくるんだと。だから頭を下に向けているほうが「昇り龍」で、上を向いているほうが「降り龍」なんだと——偉い人ほど頭を垂れる、という意味が込められているとも聞きますけどね。まあ、それが表向きの話。 裏の話を、今日はしましょう。 これはある講談師から聞いた話で、確かなことは言えませんが。 江戸のころ、腕利きの彫師がいたそうです。名前はちょっと……はっきりとは伝わっていない。その職人が、ある秋の夜明け前に、不忍池のそばを歩いて

美久仁小路、過去の残響

美久仁小路

ねえ、聞いてくれる? 池袋でね、ちょっと不思議な話を聞いたんです。確かめたわけじゃないし、誰から聞いたかもぼんやりしてるんだけど……でも、なんか妙にリアルで、忘れられなくて。 池袋の東口から少し歩いたところに、「美久仁小路」って路地があるんですって。知ってる人、いるかな。駅からそんなに遠くないはずなのに、一歩入ると、あの池袋の騒音がすうっと消えるんだって。提灯がぽつぽつと並んで、看板の字体も、なんか昭和のまま止まってるみたいな。 そこ、もともと「青線」があった場所らしくて。戦後のね、そういう場所。詳しくは言わなくていいと思うんだけど……たくさんの人が、いろんな気持ちを抱えて、あの小路を通り抜けてきたってことは、確かなんだと思う。 ある男の人の話なんですけどね。仮にKさんって呼ばせてください。Kさん、去年の秋ごろ、仕事終わりに一人でふらっとあの小路に入ったんだって。別に怖いもの見たさ

池袋駅、消えたホームの誘い

池袋駅

さて、今夜は池袋の話をひとつ。 聞いた話なんですがね。確かめようがないんで、ほんとかどうかはわからない。ただ、こういう話が出回ってるっていうのは、まあ、お伝えできますよ。 去年の秋だったか、池袋で働いてる男の人の話です。名前は伏せますが、丸ノ内線を毎日使ってる、ごく普通の会社員だったそうで。 その夜は残業で、終電まで一時間もない時間帯だったといいます。ホームに降りて、ふと気づいたら財布をどこかで落としたらしくて。来た道を引き返しながら、地下のコンコースをぐるぐると歩き回った。池袋の地下ってのはご存知の通り、線路が何本も重なって、通路が縦横に走ってて、何年通っても「あれ、ここ来たことあったかな」ってなるような場所でしょう。その日も、財布を探しながら歩いてたら、どこかで曲がり方を間違えたんでしょうね。気づいたら、見たことのない通路に入ってたっていうんです。 薄暗い、コンクリートの壁に挟

西大新洞、古い家の封じられた井戸

ソデシンドン(서대신동)(特定の日本式家屋)

あ、これ話していいのかな……本当に自分で直接聞いた話なんだけど、しかもその町に住んでる人から。はっきりはしないけど、西大新洞のほうに、あの坂の路地を入ったところにある古い日本家屋の話。ほら、屋根が低くて、軒が長く垂れ下がってるような家。今も人が住んでるのかどうかわからないけど、とにかくその家の話。 聞いた話なんだけど……その家の庭の奥の隅に、井戸がひとつあるんだって。でもただの井戸じゃなくて、蓋がしてあって、その上にお札が貼ってあるっていうんだよ。しかも一枚じゃなくて、何枚も重ねて。流れるような文字がびっしり書かれた黄ばんだ紙が幾重にも貼り重ねられて、雨が降っても剥がれないように紐で縛ってあるって。確かめた人がいる。直接見たって。 その人が言うんだよ。ある晩秋の夕方、その路地を通りかかったら門が開いてたから、なんとなく中を覗いたんだって。深く考えずに。そしたら庭の向こうにそれが見えるん

影島大橋の下、果たされなかった約束の影

ヨンドダリ(영도다리)(占い師横丁)

みなさん、今日は釜山の話をひとつ聞かせましょう。 影島大橋はご存知ですよね。あの橋の南側のたもとに、昔「占い師横丁」と呼ばれていた場所があったそうです。今はずいぶん変わってしまいましたが、その横丁のどこかには、まだ何かが残っているという話が絶えない。確かなことは言えないけれど、あのあたりを長く歩き回ってきた人たちの間で、ずっと語り継がれている話なんです。 人から聞いた話です。 数年前のこと、生粋の釜山っ子という男がいたそうです。年は四十代の半ばくらい、ごく普通の会社員だったと言いますが。お母さんが亡くなって、まだ日が浅い頃のことでした。長く患って療養施設に入っていたのに、最期にちゃんと顔を見てやれなかった、そのことがどうしても胸に引っかかっていたようで。 その夜、どこへ行くあてもなく車を走らせているうちに、影島大橋の方へ流れ着いたと言います。日付が変わって少し経った頃でした。橋の下

一条戻橋の鬼と蘇りの伝説

一条戻橋

……これはまあ、聞いた話ですから、どこまで本当のことかはわかりません。ただ、知り合いのそのまた知り合いから流れてきた話で、あんまりよくできてるもんですから、ここでひとつ、お耳に入れておこうかと思いまして。 京都の堀川に、一条戻橋というのがございます。ご存じの方もいらっしゃるでしょう。今は綺麗に架け替えられた、小さな橋でして、観光客がよく写真を撮っていくような、一見なんでもない橋です。ところがあそこは、昔からこの世とあの世の境目だと言われているそうで。渡ったら戻れる、あるいは、向こうのものがこちらへ戻ってくる、そういう場所だと。 平安の頃の話だそうですが、ある学者が亡くなりまして。葬列が組まれて、棺がちょうどその橋の上を通っていたとき、熊野の山で修行していた息子が血相を変えて駆けつけた。棺にすがりついて、声をからして祈り続けたら、冷たくなっていた父親がぽつりと息を吹き返した、というんです

井の頭公園のボートの呪い

井の頭恩賜公園

ねえ、聞いてる? 少しだけ、声を落として話すね。 去年の秋のことなんだけど、わたし、あの公園に行ったの。一人で。友達と待ち合わせしてたんだけど、相手が三十分遅れるって連絡してきて、暇つぶしに池のほとりをぶらぶら歩いてた。十月の終わりで、紅葉が始まりかけてた。あの、赤と黄色が水面に映るやつ。きれいなんだけど、なんか妙に静かで、人が多いのに音が遠い感じがする、あの時間帯。 ボート乗り場の前を通ったとき、ちょうど一艘、戻ってくるところだった。若いカップルが乗ってて、女の子が笑ってた。声は聞こえなかったけど、口が動いてた。彼氏のほうが何か言って、彼女がそれに笑い返す。ほんとうに、なんでもない光景。 なのに、わたし、立ち止まっちゃったの。 なんでかな、ってそのときは思わなかったんだけど。後になって考えたら、女の子の笑い方がちょっとだけ、ずれてたんだよね。彼氏の言葉に反応するのが、半拍遅くて

春川・三千洞の廃屋怪談

チュンチョン・サムチョンドン(춘천 삼천동)(かつての凶屋跡)

みなさん、今日は春川のほうで囁かれている話をひとつ聞かせましょう。 三千洞にあった家の話です。今はもう取り壊されたそうですが、その場所を知っている人たちは、いまだにあのあたりへ近づこうとしないと言います。理由を聞いても、みんな言葉を濁すばかりで。 聞いた話では、十数年ほど前からその家の名が少しずつ広まっていったそうです。最初はただの古い空き家だったとか。扉もなく、窓はすべて割れ、屋根の片側が崩れ落ちていた。近所の人たちは通り過ぎるときも、決して目を向けなかったといいます。なんとなく、目を向けてはいけないような気がする——そういう家だったと。 それでも、肝試しに訪れる者が一人、また一人と現れ始めました。 そのなかに、二十代前半の男三人が入り込んだことがあったそうです。そのうちの一人が後になって打ち明けた話なのですが、確かなことはわからないものの……入った瞬間から、においがおかしかった

慶州金氏の豪邸の秘密

キョンジュ(경주)のある村のキム氏の大邸宅

みなさん、今日は慶州のほうから流れてきた話をひとつ聞かせましょう。 確かなことは言えません。あくまでも、あのあたりの村でずっと昔から囁かれていた噂だというので……ただそういう話がある、そのくらいのつもりで聞いてください。 慶州の外れ、ある小さな村に、金という姓を持つ家があったといいます。新羅の王族の血を引くと自ら称していたそうで、実際その家の門柱の高さは村のどの家よりも高かったといいます。瓦屋根が幾重にも連なり、塀の向こうに屋根の端が見えないほど広かったとか。土地がどこまでこの家のものなのか、村人たちにも分からなかったという話もあります。 ところがですね。 その家の富を不審に思う目が、村にはずいぶんあったといいます。凶作になれば他の家はみな没落するのに、金家だけは年ごとに蔵がさらに膨らんでいったというのです。日照りも、戦も、疫病も——何が来てもこの家だけは無傷だったと。それがかえっ

サエッコル(샛골)で待ち続ける女

チョンジュ・ハノクマウル(전주 한옥마을)のセッコル(샛골)

皆さん、今日は全州(전주)のハノクマウル(한옥마을)についてお話ししようと思います。 昼間に訪れると、本当に美しい場所です。瓦屋根の軒先には観光客が溢れ、どこからともなく甘い香りが漂っている。でも、その路地の奥、人の足がほとんど届かないところへと踏み込んでいくと……サエッコル(샛골)と呼ばれる、ひどく細い通路があるそうなんです。私自身が行ったわけではなく、そこで生まれ育ったという方から聞いた話なんですが。 そのサエッコル(샛골)は、昼間でも影が差しているそうです。両側に古い土塀が肩幅ほどの間隔で立ち並んでいて、真昼でも陽がほとんど入らないと言うんです。塀に張り付いた苔は、古いところはほとんど黒ずんでいると。そしてその土塀から漂う匂いが、何というか……雨に濡れた土の匂いなんだけれど、もっと重くて湿っぽい、そういう匂いがするそうなんです。 その路地にまつわる話があって、百年以上も前のこと

青函トンネルの止まった時間

青函トンネル

……少し、聞いていただけますか。 確かなことは申せません。ただ、こういう話が伝わっているということを、そのままお伝えするだけです。 青函トンネルのことです。青森と北海道を繋ぐ、あの長い長い海底の道のことです。 聞いた話では、深夜のメンテナンス作業に入った者が、時折おかしなものを経験するのだとか。作業員たちの間で、ひそひそと語り継がれているそうでございます。 ある年の冬のこと、だそうです。詳しい日付は分かりませんが、確か十一月か十二月の深夜だったとか。担当の作業員が、ひとりでトンネルの中ほどの区画を点検していたと聞きます。名前は伏せますが、ベテランの方で、そういった作業には慣れていた方だったそうです。 トンネルの中というのは、普段から独特の空気があるそうでして。地上とは違う、じっとりとした重い湿気と、どこからともなく漂う鉄と海水の混ざったような匂いが常にあるのだと。それはいつものこ

三坂峠のヒッチハイクする女

三坂峠(幽霊トンネル)

……少し、聞いていただけますか。 確かなことは申せません。ただ、このあたりに長く仕える身として、耳に入ってくる話というものがございます。語り継がれているうちに、尾ひれがついているやもしれぬ。それでも、あまりにも似たような話を、別々の方から聞くと……やはり、何かあるのだろうかと、思わずにはいられないのです。 三坂峠のことです。 愛媛の松山と、久万高原を結ぶあの峠道に、小さなトンネルがございます。地元では昔から「幽霊トンネル」と呼ばれていると聞きます。正式な名はあるのでしょうが、誰もそちらの名では呼ばない、と。そういう場所というのは、たいてい、理由があるものでして。 昔、あの峠道は走り屋たちが集まる場所だったそうです。夜な夜な、エンジンの音を響かせて、急カーブの多い峠を競うように走っていた、と聞きます。ですから事故も多かった。ガードレールを突き破って、崖の下へ落ちたものも、一人や二人で

光源寺の飴屋の幽霊

光源寺

これ、長崎の話でございます。 光源寺、ご存知の方もいらっしゃるでしょうか。長崎市にある、古いお寺でして。そのお寺に、飴屋の幽霊という話が伝わっているそうでございます。 似たような話は全国にあるそうで、ええ、子育て幽霊と申しましてね。ただ、長崎では特にこの光源寺の話として語り継がれているとか。聞いたのはずいぶん前のことですが、妙に細部が残っておりまして。 江戸の頃のことだと言います。 麹屋町というところに、小さな飴屋があったそうです。ある晩の九つ過ぎ、もう店じまいしようかという刻限に、女が一人、戸口に立ったらしい。 主人が顔を上げると、青白い顔の女で、髪がぐっしょりと濡れているように見えたそうです。雨は降っていなかったのに、と。それで、一文銭を一枚、土間にそっと置いて、飴をひとつ、買って帰った。 翌晩も来たそうです。同じ刻限に、同じ女が。 主人は最初、近くの長屋の者だろうと思っ

別大国道の手招き地蔵

別大国道(手招き地蔵)

ねえ、聞いてる? 大分と別府をつなぐ、あの別大国道の話なんだけど。知ってる人は知ってると思うんだけど……聞いたことある、手招き地蔵って。 友達から聞いた話でね、確かめようがないんだけど、どうしてもずっと頭に残っちゃって。 その子のお父さんが、仕事の関係で夜遅く別大国道を走ることがあったんだって。去年の秋だったかな、十一月の頭ごろ、夜の十一時を回ったくらいの時間帯に、いつも通りその道を走っていたらしくて。別に特別な夜じゃなかったって。残業が長引いて、疲れてはいたけど、眠いわけでもないし、ちゃんと意識もあった、って後から何度も言ってたみたい。 別大国道って、片側は海で、片側はすぐ山が迫ってるでしょ。夜になると、ほんとに暗くて、ヘッドライトの届く範囲だけが世界みたいな感じになるんだって。海からの風が強い夜で、窓を少し開けてたら、生臭いような、潮だけじゃない、もっと重たい匂いが入ってきたっ

黄泉の国への入り口「猪目洞窟」

猪目洞窟 (出雲市猪目町)

ねえ、聞いてくれる? 出雲に、猪目洞窟っていう場所があるんだって。島根の、猪目町ってところ。海沿いの小さな漁村のはずれに、ぽっかりと口を開けてる洞窟。 確実なことは言えないんだけど……その洞窟、『出雲国風土記』にも名前が出てくるんだって。千年以上前の文書に。黄泉の坂、つまりあの世への入り口として。昔から、ずっと、そう呼ばれてきた場所らしいの。 聞いた話なんだけどね。 地元では昔から、こんな言い伝えがあるんだって。「猪目洞窟の夢を見た人は、死ぬ」って。 ……ただの迷信、そう思うでしょ。でも、地元の人たちは本気で口にしないようにするらしいの。洞窟の話をしすぎると、夢に出てくるから、って。だから今わたしがこうして話しながら、少し、怖い。 去年だったか、一昨年だったか、はっきりはしないんだけど。ある女の人が、一人で行ったらしいの。観光、のつもりで。平日の昼間だったはずなのに、なぜか海か

呪われた廃旅館「かもめ荘」

かもめ荘 (出雲市大社町日御碕)

はい、一つ聞いていただけますか。 島根の、出雲大社からさらに西へ……日御碕のほうへ向かう道があるんですが、その突端に近いあたりに、「かもめ荘」っていう廃旅館があるらしいんですよ。 聞いた話なんで、確かなことは言えないんですけどね。 もともとは普通の宿だったらしいです。海が見えて、夕陽が綺麗な場所だったって言う人もいる。ただ、廃業してからずいぶん経つらしくて、今はもうすっかり廃墟になってる、と。島根でもちょっと名の知れた心霊スポットだって話です。 場所がね、また妙なんです。海に突き出た断崖の、ちょうど根元のあたりに建ってるらしくて。その下の海に、水死体が流れ着きやすいって噂があるんですよ。潮の流れがそういう具合になってるのかどうか、そこまでは知らないんですが……ともかく、そういう場所だって言われてる。地元の人は近づかないって話も聞きました。 何年か前に、霊能者の方が一度訪ねたことが

大池遊園駅の怪異

大池遊園駅

……少し、聞いていただけますか。 和歌山の、山のほうに入ったところに、大池遊園という駅があるのだそうでございます。確かなことは申し上げられませんが、あの場所には……何か、普通の駅とは少し違うものが漂っていると、そういう話が伝わっておりまして。 民家はほとんどない。大きな池のある公園があるだけの、人の気配がひどく薄い土地だと聞いております。昼間でも静かすぎるくらいなのに、夜ともなれば、ホームに残るのは虫の声と、池から上がってくる水の匂いだけなのだそうでございます。池の匂い……腐りかけた草の、泥の底から染み出してくるような、あの重たくて湿った空気。口の中に入ってくるような、あの感じ。 ある秋のことだと聞きました。数年前、と言っておられた方がいらっしゃいまして。 その方は一人で、終電を乗り過ごしてしまったのだと。次の電車まで三十分ほど待たなければならなくて、仕方なく、ホームのベンチに腰を

姿見の井戸の警告

高野山 奥の院 姿見の井戸

これはですね、二年ほど前に、知り合いの知り合いから聞いた話です。確かめようがないんですが、奇妙に具体的でして。 高野山の奥の院に、姿見の井戸というのがあるそうです。 中の橋を渡ってすぐ、燈籠がずらりと並ぶ参道の脇に、お堂がひとつ建っています。その、お堂の影になるような場所に、ひっそりと、本当にひっそりと、石組みの小さな井戸があるんだそうです。案内板があるわけでもなく、知らなければ通り過ぎてしまうような、そんな場所に。 言い伝えはこうです。その井戸を覗き込んで、水面に自分の顔が映らなかった者は、三年以内に死ぬ。 まあ、よくある言い伝えだと思うでしょう。わたしも最初はそう思いました。 その方は、京都に住む三十代の男性だったそうです。名前はちょっと伏せておきます。仮にKさんとしましょう。Kさんは、高野山へは観光で行ったわけじゃなくて、友人の四十九日の法要に付き合って、そのついでに奥の院

廃墟に潜むもの

鬼怒川温泉の廃ホテル群

……これは、ある方からお聞きした話でございます。確かなことは、私にも申し上げられませぬ。ただ、そのようなことが、あの川沿いであったと……そう伝わっております。 鬼怒川の温泉地には、バブルの頃に建てられた大きなホテルが、今もいくつか、そのまま立っているのだそうです。取り壊されるでもなく、再建されるでもなく、ただ……川を見下ろすように、ずっとそこにあると聞きます。外壁は黒く滲んで、窓はほとんど割れていて、風が吹くたびに何かが軋む音がするとか。地元の方はあまり近づかないと聞きますが、それでも若い方々が夜に忍び込むことは絶えないようで……。 その中のひとつのホテルで、去年の秋ごろのことだと聞いております。二十代の男性が、友人たちと連れ立って中に入ったそうです。何人かで来たはずが、奥へ進むうちに自然と散り散りになってしまって、気づけばひとりで上の階にいたと……そういう話でした。 廊下は天井の一

数が合わない地蔵

憾満ヶ淵の並び地蔵

……聞いた話なんですがね。 日光の、憾満ヶ淵。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、大谷川の流れに沿って、石の地蔵さまがずらりと並んでいる場所がございます。百体以上、あるいはもっと、とにかくずいぶんな数が、苔むした台座の上に静かに座っておられる。 地元じゃ昔から「化け地蔵」と呼んでいるそうで。 なぜかというと、数えるたびに、数が合わない。 行きに数えた数と、帰りに数えた数が、どうしても一致しないんだと。増えることもあれば、減ることもある。何度数え直しても、同じ数にならない。……まあ、百を超える地蔵さまですから、数え間違いだろうと、普通はそう思いますよね。 ところが、ちょっと前に、ある男の人がそこへ行ったそうなんです。 几帳面な方でしてね、行きがけに一体ずつ、指でさしながら声に出して数えた。一、二、三……と、ゆっくり、丁寧に。で、百十六体だったと。その数をスマートフォンのメモに

藤沢の海岸に立つ人影

藤沢市の海岸 (国道134号線沿い)

……これはね、確かなことではございません。ただ、この社に参られる方のひとりから聞いた話でして、それをそのままお伝えするだけでございます。信じるも信じぬも、お気持ちのままに。 藤沢の海岸の話でございます。国道百三十四号線を走ると、夜になると海の匂いがぐっと濃くなるでしょう。潮と磯の混じった、あの湿った匂い。その匂いが強くなる頃、ちょうど砂浜に下りられる場所があるのだそうです。 その方、友人と連れ立って、深夜に車で走っていたのだとか。特に理由はなかった、ただなんとなく、と仰っておりました。夜中の二時か三時頃だったと思う、とも。海沿いの道はその時間になると人気がなくなって、波の音だけが窓の外から押し寄せてくるような、そういう夜だったそうでございます。 ふたりは車を停めて、砂浜に下りてみたのだと。特に怖いものは何もないだろう、という気持ちで。砂は夜露を含んで少しだけ重くて、歩くたびに足がわず

江の島岩屋の消えた時間

江の島岩屋

これはですね、知人から聞いた話なんですが……確かめようのないことも混じってますから、まあ、そういうつもりで聞いていただければ。 江の島の奥、岩屋のことなんです。 あの島、行かれたことある方はわかると思うんですが、大鳥居をくぐって裏手まで歩くと、だいぶ時間がかかる。階段がいくつもあって、人が多くて、足元も悪いところがある。普通に歩けば、一時間、もう少しかかることもある。そういう道のりなんです。 で、その人……仮にKさんとしておきましょうか。Kさんが、友人カップルと三人で江の島を訪れたのが、ある秋の夕方だったそうなんです。 観光半分、都市伝説の話半分で盛り上がってたらしくて、岩屋のあたりで時間の感覚がおかしくなるって噂があるって話になったんだって。時間が消える、とかね。まあよくある話じゃないですか。Kさんも最初は半笑いで聞いてたらしい。 そこで三人で実験してみようってことになった。

井の頭公園の首無し女

井の頭恩賜公園

……聞いたことがございますか。 井の頭の池のことを。 確かなことは申せません。ただ、こちらへ参られる方々から、折に触れて同じような話を耳にするものですから……少しだけ、お伝えしておこうかと思いまして。 あれは、ある秋の終わり頃のことだと聞いております。吉祥寺の街が賑わいを収めて、公園の入り口から人の声が消えていく、そういう時刻のことだったそうです。 二十代の男女が、弁天池のほとりを歩いておりました。恋人同士だったとか。夜の池を見ながら、ゆっくりと歩いておられたそうです。十一月の初め頃でしたか、池の水面に街灯が映って、橙色に揺れていたと、後に男の方が話しておりました……その男の方が、後に話せる状態であったということは、まあ、そういうことなのですが。 池の端に、さしかかった時のことです。 女の方が、ふと立ち止まったそうです。何かに気づいたように。男の方は少し先を歩いておりましたから

井の頭公園ボートの呪い

井の頭恩賜公園

ねえ、聞いてくれる? 井の頭公園のこと、ちょっと気になる話があってね。確かめたわけじゃないんだけど……どうしても誰かに話しておきたくて。 去年の秋だったかな、って聞いたのよ。友達の友達の話なんだけど。二十代のカップルで、付き合って半年くらいの、まだ仲のよかった二人がね、休日の昼間にスワンボートに乗ったんだって。井の頭の池で。あのピンクとか白の、ぷかぷか浮かんでるやつ。 最初は笑ってたらしいの。ペダルがうまく漕げなくて、くるくる回っちゃって、二人で声を上げて笑いながら。秋の昼間だから空気は澄んでて、水面がきらきらして、ほんとに楽しかったみたいでね。 でもね、池の真ん中あたりに差し掛かったとき。 急に、水の匂いが変わったんだって。 川の匂いっていうか……泥の奥から来るような、冷たくて暗い匂い。腐ってるとも違う、でも生きてるとも違う、なんとも言えない、地面の底みたいな匂いが、すうっと

上野の山に響く残響

上野恩賜公園 (特に血煙り坂周辺)

……お聞きになりますか。 これは、ここ上野の杜に仕える者として、幾度となく耳にしてきた話でございます。確かなこととは申せませぬ。ただ、同じ話が、別々の人の口からほぼ同じ形で出てくるというのは……やはり、何かあるのだろうと、そう思わずにはおられません。 ある秋の夜のことだと聞いております。もう終電も過ぎた頃合いで、霧雨が石畳を濡らしておりました。写真を趣味にしている男性が、夜の公園を一人で撮り歩いておられたそうです。不忍池のあたりから入って、燈籠の並ぶ参道を抜け、坂のほうへと向かったと。 血煙り坂、という名をご存知でございますか。 今は静かな木立の中の坂道でございますが、慶応四年の夏、あの戊辰の戦で、彰義隊の者たちが最後まで銃を手に立ち続けた場所だと伝わっております。官軍の砲撃が止まぬ中で、どれほどの血が石に滲んだことか。血煙り、とはそのままの意味でございます。 その方が坂の下に差

不忍池に潜む影

不忍池

ちょっと、聞いていただけますか。 これ、私が直接どうこうというわけじゃないんですが……上野に勤めている知り合いから、去年の秋ごろに聞いた話でして。確かめようもないし、信じるかどうかは皆さんにお任せするんですけれど。 その知り合い、Kさんというんですが、上野の美術館で働いていまして。残業が続いていた時期があったそうで、夜の十一時過ぎに退館することも珍しくなかったと言うんですね。帰り道に不忍池のほとりを通るのが、一番の近道だったんだそうです。 十月の終わりごろ、夜の十一時半ごろだったと言っていました。空気がひんやりしていて、蓮の枯れた茎がずらっと水面から突き出している季節です。夏の盛りにはあんなに青々と茂っていた葉が、全部黒ずんで、水の上でぐったり横たわっているような、そういう時期。 池のそばの遊歩道をひとりで歩いていたら、ふと、なんとなく、水のほうが気になったと言うんです。なぜかわか

月尾島から消えた子ども

ウォルミド(월미도)遊園地

あの……これ、話していいのかな、ほんとに。初めて聞いたとき、家まで歩いて帰りながら、街灯の下に来るたびに立ち止まったんだよね。自分の影以外に、もう一つ影が動いてるんじゃないかって。それくらいなんだよ、これ。 人から聞いた話なんだけど。知り合いの姉ちゃんの友達が直接聞いたって言うの。その姉ちゃん、もともとこういう話を全然平気な顔で受け流せる人らしくて。怪談聞かせても「だから何なの」ってタイプ。なのにこれを話してるとき、途中で自分から止まったんだって。声が小さくなったんじゃなくて、ただ――口を閉じたって。しばらく。それがいちばん鳥肌だったって。 月尾島の遊園地、閉園前の話らしい。夏、七月の中旬ごろ。はっきりはしないけど。海の潮の匂いとどこかから漂ってくる揚げ物の油の匂いが混ざり合って、人でごった返してる、そんな昼間だったって。七歳の女の子が回転木馬を見た瞬間、お母さんの手をぱっと振り払って

バンバン交差点の首吊り死者

ペンペンサゴリ(뱅뱅사거리)近くの事務所

昔の話でな……いや、昔でもないか。五年か、六年か、そんくらい前の話や。江南のバンバン交差点、知っとるやろ、あの近くにオフィスビルがあってな、そこで働いとった人から聞いた話なんやけど。 その人は名前は言えんって言うとった。知り合いが聞いたらどうするって。でも、その人がひどう震えながら話すもんやから、わしは全部しっかり覚えてしもうたんや。 IT関係の仕事やったかな、とにかく残業の多い職種やったらしくてな。その日も皆さっさと帰って、その人だけ残って報告書の仕上げをしとったんやと。夜の十一時は過ぎとったって言うとった。外は車の音もほとんどなくて、事務所の中は蛍光灯が二つばかりしか点いてなくて、あちこち薄暗かったんやけど、そのビルが複層構造でな、上の階が丸見えになる吹き抜けの手すりがあったんやって。 それでな、モニターばかり見とったら、急に上からギィ、って音がしたんやと。古い木材が重みに耐えか

落ちた芸能人と、江南のあのマンション

カンナム(강남)の特定の高級マンション

あ、これ話していいのかな……自分が直接体験したわけじゃないんだけど、聞いた話でさ——でも話してくれた人がすごく真剣な顔してて、気づいたら鳥肌が立ってたんだよね。確かなことは言えないけど、江南のど真ん中にある高級マンションの話。名前は言わない。知ってる人は全員知ってるって言うから。 そのマンション、見た目は本当に立派なんだって。ロビーには大理石が敷いてあって、警備室もピシッとしてて、一目で「ここに住む人間は違う」ってわかるような場所らしい。でも業界の人たちの間では、お互いに声を潜めて「あのマンション、知ってるよね」って言えば全員通じるっていうんだよ。 そこに数年前、かなり売れてた女性芸能人が入居したって話がある。ドラマの主演クラスだったって。引っ越して一ヶ月も経たないうちに、突然撮影現場で倒れたんだって。最初は過労だって言われた。でもおかしいのが、病院でいくら検査しても数値は全部正常だっ

大母山のマネキンの呪い

テモサン(대모산)

みなさん、今日は江南のほうの話をひとつしてみようと思います。 大母山、ご存知ですよね。ソウルのど真ん中に寄り添うように立っている山で、昼間は近所の方が散歩したり運動したりする、ごく普通の山です。ただ、人から聞いた話なんですが、その山に少しおかしなものがあるらしいんです。 マネキンだそうです。木に吊るされたマネキン。 最初にこの話をしてくれた人は、数年前の晩秋の夕方、ひとりでその山の中腹の登山道を歩いていたそうです。ちょうど日が沈みかけて、木々の間から光が消えていく、あの曖昧な時間帯に。そのとき、遠くに何かぶら下がっているものが見えたと。最初はビニール袋か布切れかと思ったそうです。そのまま通り過ぎようとして、足が止まったと。 韓服だったそうです。 白いチョゴリにチマを着ていて、頭がある。体がある。縄が首に巻かれて、木の枝に結ばれていたそうです。それがマネキンだとわかった瞬間でさえ、

魚切ダムの底に沈む怨念

魚切ダム

ねえ、聞いてくれる? 広島の、佐伯区のほうにね……魚切ダムっていう場所があるんだって。知ってる? 私も詳しいわけじゃないんだけど、ちょっと前に、ある人から聞いた話があって。その人もまた誰かから聞いた、って言ってたから、どこまで本当かはわからないんだけど……どうしても、忘れられなくて。 その人の友人が、カメラが趣味でね。夜の水面を撮るのが好きだったらしいの。湖とか、川とか、ダムとか。静かで、きれいでしょう、夜の水って。だから怖いもの知らずで、一人で魚切ダムに行ったんだって。夜中の十二時を少し回ったころ、だったって聞いた。 駐車場に車を停めて、ダムのほうへ歩いていったら……思ったより、静かだったって。虫の声も、風の音もなくて。ただ、水のにおいだけがした、って。川のにおいとも違う、もっと重たい、泥と何か腐ったものが混ざったような……そういうにおいが、ずっと鼻の奥にへばりついてたって言って

寺を彷徨う火の玉

大安寺・白毫寺周辺

……少し、聞いていただけますか。 確かなことは申せません。ただ、この社に仕えておりますと、折々にそういうお話が耳に入ってくるのでございます。どこそこで見た、誰それから聞いた、と。そのひとつを、今夜はお伝えしようと思います。 大安寺の、少し東へ入ったあたりのことだそうです。白毫寺へ続く古い道、ご存じでしょうか。昼間でも木々が重なり合って薄暗い、あの細い道でございます。 聞いた話では、これはもう十数年ほど前のことらしいのですが……ある秋の夜半過ぎ、その道をひとりで歩いていた男の方がいたそうで。名前は存じません。ただ、奈良に詳しい方で、夜道も慣れているつもりだったと、後に誰かに語ったと聞いております。 その夜は月も出ておらず、足元を照らすのは自分の懐中電灯だけだったそうです。秋とはいえ底冷えのする夜で、草いきれもなく、ただ石畳の濡れた匂いだけがしていたとか。 その方が古い石垣の脇を過ぎ

廃神社の狐憑き

白高大神

ねえ、聞いてる? 奈良の話なんだけど……確かめたわけじゃないから、あくまで聞いた話として聞いてね。 白高大神、って読むらしいんだけど……奈良の市街地からそう遠くないところに、そういう廃神社があるんだって。昔は新興宗教の修行場だったって話で、今はもう誰も管理してなくて、鳥居はとっくに朽ちて、境内に踏み込むと、なんか空気が違うって言う人が多くてね。ただ古びてるっていうんじゃなくて……何かが、こびりついてるみたいな、そういう重さがあるって。肝試しスポットとして、けっこう昔から名前が出回ってるらしいのね。 これ、何年か前の話なんだけど。 女の子が四人だったかな、大学生のグループで、夜に行ったんだって。夏の終わりごろで、でも山の空気って夏でも底冷えするじゃない。その子たちも、入り口の鳥居を潜ったとたんに、ひんやりした風が足元を撫でていったって言ってたみたい。上から吹いてきたんじゃなくて、地面

水の森公園の手形

水の森公園

……これは、少し前に耳にした話でございます。確かめたわけではございませんし、誰から聞いたのかも、今となっては霞のように曖昧で……ただ、こうして語らずにはいられない、そういうお話でございます。 仙台の、水の森公園に、公衆トイレがあるのはご存知でしょうか。 木々の多い静かな公園で、昼間は親御さんが子を連れて散歩するような、穏やかな場所だとか。ただ、夜になるとひとけが絶えて、街灯の光も届きにくい場所があるそうでございます。そのトイレも、そういう一角に建っているのだと聞きました。 ある夜遅く、近くに住む若い男性が、終電を逃して歩いて帰る途中に、その公園を通り抜けたそうでございます。近道になるからというだけで、特別な理由はなかったと。秋口のことで、風が少しあって、落ち葉が足元でこすれる音だけが聞こえていたと、その方は言っていたそうです。 用を足そうと、そのトイレに立ち寄りました。 扉を開け

水源地の白い手

西岡水源地

ねえ、聞いてくれる? 札幌の、西岡水源地のこと。知ってる人は知ってると思うんだけど……あそこ、ちょっとただの公園じゃないって話、地元ではずっと囁かれてるみたいでね。 緑が深くて、昼間は家族連れも来るような静かな場所なんだって。貯水池があって、木々に囲まれて、ちょっとした湿地みたいな空気があるらしい。でもね、昔からあそこには……入水が多かった、って聞くの。しかも、ほとんどの遺体が上がってこないんだって。底が深いのか、流れがあるのか、理由はわからないけど……見つからないまま、そこにいる人たちが、今もあの水の下にいるっていう話なの。 確かめたわけじゃないんだけど、これ、友達の友達から聞いた話でね。 去年の秋口だったか、二十代のカップルが夜にあそこを散歩してたんだって。深夜って言っても十一時くらい。別に肝試しとかじゃなくて、ただの気まぐれで。 公園の入り口を抜けると、街灯がぽつぽつとある

生田神社の別れのジンクス

生田神社

生田神社、ご存知ですかね。 神戸の三宮、あのにぎやかな繁華街のすぐそばに、ひっそりと鎮まっている神社でございます。縁結びの神様として知られていて、休日ともなれば若いカップルが参道を連れ立って歩いている、そういう場所だそうで。 ただ……聞いた話なんですけどね。 あそこはカップルで行くと、別れるというんです。 まあ、よくあるジンクスですよ、と笑う方もいらっしゃるでしょう。でも私が聞いたのは、ちょっとそれとは毛色の違う話でして。 祀られているのが女神様なんです。それも、愛に深く関わる神様。で、その神様が……ひどく嫉妬深いというんですな。仲のいいカップルを見ると、許せないんだと。特に、長く真剣に付き合ってきた二人ほど、別れる確率が高いってささやかれているらしくて。 確かめようのない話ですけどね。 ただ、ある男性から直接聞いた話がありましてね。 その方、当時三年付き合っていた彼女さん

深泥池の消える乗客

深泥池

これ、ちょっと前に知り合いの運転手さんから聞いた話なんですが……確かめたわけじゃないので、そのつもりで聞いてください。 京都の北の方に、深泥池ってところがありますね。あの辺、昼間はまあ普通の池なんですが、夜中に通るとちょっと様子が変わるといいますか。水面が道のすぐ脇まで来てて、街灯も少なくて、なんともいえない暗さがある。 その運転手さん、名前は伏せますけど、京都市内で二十年近くタクシーをやってる方なんだそうです。夜の仕事にも慣れた、そういう人が経験した話だというのが、なんといいますか、余計に気になりまして。 ある夜中の二時ごろ、深泥池の脇の道を流していたら、白い服の女が立っていたんだそうです。手を挙げてる。乗客を求めてるのは間違いない。ただ、その立ち方がちょっとおかしくて、道のど真ん中じゃなくて、池の縁ギリギリのところに立っている。足元がほとんど水際なんだそうです。 それでも、お客

善波トンネルの準一

旧善波トンネル

ねえ、聞いてくれる? 神奈川にある、旧善波トンネルの話なんだけど……これ、知り合いの知り合いから流れてきた話で、どこまで本当かはわからないの。でも、聞いちゃったら最後、なんか忘れられなくて。 そのトンネル、今は使われてないんだって。山を抜ける古い旧道の途中に、ぽっかり口を開けてるらしくて。昼間でも暗くて、夏でもひんやりしてるって聞いた。コンクリートの壁に染みがついてて、ところどころ苔が黒く浮き出てて……まあ、それだけ聞いてもすでに行きたくない感じでしょ。 で、もう四十年以上前になるらしいんだけど、そこでバイクの事故があったんだって。亡くなったのは若い男の子で、名前はわからない。ただ「ある男の子」って、その地元の人たちはそう呼んでるらしいの。なんで名前を呼ばないのかっていうのも、ちょっと気になるよね。呼んだら来ちゃうから、って話もあるみたいで……。 で、ね。昔、そのトンネルの入り口に

姥ヶ池の鬼婆

花川戸公園 / 姥ヶ池

さて、今日お話しするのは……浅草のお話でございます。 浅草寺からほんの少し、歩いて五分もかからないところに、花川戸公園という小さな公園がありましてね。地元の方はご存知かと思いますが、あそこに人工の池がひとつ、ぽつんと作られている。姥ヶ池、と申します。 まあ、昼間に見れば何ということもない、どこにでもあるような公園の池です。鯉が泳いでいたりもするそうで。 ただ……あそこに立っている石碑には、少しばかりいわくがありまして。 聞いた話なんですけどね、今から随分と昔のことだそうです。あの辺り一帯はまだ「浅茅ヶ原」と呼ばれていた、湿地だったそうで。葦がざわざわと揺れるばかりの、人気のない荒れ地だったらしい。そこに一軒だけ、あばら家があったんだって。 そこに老婆がひとり、住んでいたと。 旅人を泊める宿として看板を出していたらしいんですね。浅草寺に参る人間が道に迷うと、その灯りを見つけて立ち

池袋駅地下の迷宮と消えたホーム

池袋駅地下

……少し、聞いていただけますか。 確かなことは申し上げられません。ただ、この社に参られる方々から、同じような話を何度か耳にしておりますので……そっと、お伝えしておこうと思いまして。 池袋の駅の地下のことです。 あの駅は、地下がとにかく深い、と聞きます。道が幾重にも重なって、どこをどう歩いているのか、慣れた人間でさえわからなくなることがある、と。特に西口の方へ向かう古い通路は、他の場所とは空気が違うと、何人かの方がおっしゃっていました。 ある男の人の話です。名前は存じません。ただ、去年の秋口、深夜の一時を過ぎた頃のことだったと聞いております。終電には間に合ったものの、乗り換えの通路で道を誤ってしまい、西口の方へ続く古い地下道に踏み込んでしまったそうで。 蛍光灯が一本おきにしか点いていない通路だったと言います。壁はタイル張りで、古い染みがところどころに浮いていて、足元から冷気が這い上

池袋四面塔尊の祟り

池袋四面塔尊

ねえ、聞いてくれる? 池袋のこと、なんだけど……ちょっと、耳を貸して。 あのね、池袋の駅から歩いてすぐのところに、「四面塔尊」っていう石塔があるんだって。古い、小さな塔。知ってた?わたしも最近まで知らなかったんだけど、ちょっと調べたら、なんか、ぞっとするようなことが出てきて。 江戸時代にね、あの辺りって「辻斬り」が多発した場所だったらしいの。辻斬りって、夜道で通りすがりの人を、理由もなく、ただ刀の試し切りのために斬り殺すやつ。侍が、ね。何も悪いことしてない人が、ただ歩いてただけで、そこで死んでいく。その犠牲になった人たちを供養するために建てられたのが、あの塔だっていう話なんだけど……供養が、足りなかったのかもしれない、って言う人がいる。 友達から聞いた話なんだけど、確かめたわけじゃないから、そのつもりで聞いてね。 その子が夜遅く、あの塔の前を通ったことがあるんだって。仕事帰りの十

サンシャイン60と旧巣鴨プリズンの呪い

サンシャインシティ / 東池袋中央公園

聞いた話なんですが、まあ、確かなことは言えません。 池袋のサンシャイン60、あのビルが建っている場所、ご存知ですか。あの、六十階建ての、遠くからでも見える、あのビルです。 あそこはかつて……巣鴨プリズンと呼ばれた刑務所があった場所だ、と。そういう話が、まあ、まことしやかに囁かれています。戦後、A級戦犯が収容されて、処刑も、そこで行われた、と。 そういう土地の上に、今はあのビルが建っている。 知人の話なんですが、その人の友人に、サンシャイン60で夜間警備をしていた男がいたそうです。二十代の、ごく普通の若い男で、夜中の見回りを、まあ、日課にしていた。 ある夜のことです。 深夜二時を回った頃、その男が、確か三十何階かの廊下を歩いていたと。外は雨で、窓ガラスを叩く音だけが聞こえていた。ビルの中はもう誰もいない。そういう時間帯です。 廊下の先、突き当たりのところに、人が立っていたそうで

新宿駅地下の潮騒

新宿駅

ちょっと聞いてもらえますか。 新宿の話なんですけどね、まあ確かめようがないんですが、知り合いの知り合いから流れてきた話で……信じるかどうかは、まあお任せします。 去年の秋ごろのことだそうです。二十代の男性、仮にKさんとしておきましょう。飲み会が長引いて、気がついたら終電を逃してしまった。新宿駅の南口あたりで途方に暮れてたみたいで、まあとりあえず始発まで駅の構内を歩いて時間でも潰そうと思ったそうです。それがね、最初の間違いだったのかもしれない。 新宿の地下というのは、ご存知の方も多いと思いますが、あれは本当に複雑でしてね。東口から西口、地下鉄との連絡通路、ショッピングモール……ちょっと気を抜くと、自分がどこにいるのかわからなくなる。Kさんもそうなった。歩いているうちに、見慣れない通路に入り込んでしまったらしい。 おかしいのはですね、そのころ、もう誰もいなかったというんです。夜中の一時

宇田川町の人喰い松

宇田川町(北谷稲荷神社付近)

……聞いた話です。確かかどうかは、わたくしにも分かりかねますけれど。 宇田川町に、かつて松の木があったそうです。 北谷稲荷の、ちょうど参道の脇のあたり、と聞いております。昭和のはじめ頃には、もうそこにあったのだとか。枝ぶりが見事で、遠くからでも目を引くほどの大きな木だったと。ただ、その木の下に立つと、どういうわけか、真夏の盛りでも、ひやりとした空気が足元から這い上がってくるような感覚があったそうです。肌に触れる、というより、肌の内側を撫でるような冷たさ、と言った方が近いかもしれません。 「人喰い松」という名で、土地の者たちは呼んでいたのだそうです。 なぜそう呼ばれるようになったのか、はっきりとしたことは誰も言わないのですけれど、ずいぶん古くから、その松の根元に近づいた者が、気づいたら日が暮れていた、とか、帰り道が分からなくなった、とか、そういった話は絶えなかったようで。ただ、みなそ