昔の話でな……いや、昔でもないか。五年か、六年か、そんくらい前の話や。江南のバンバン交差点、知っとるやろ、あの近くにオフィスビルがあってな、そこで働いとった人から聞いた話なんやけど。
その人は名前は言えんって言うとった。知り合いが聞いたらどうするって。でも、その人がひどう震えながら話すもんやから、わしは全部しっかり覚えてしもうたんや。
IT関係の仕事やったかな、とにかく残業の多い職種やったらしくてな。その日も皆さっさと帰って、その人だけ残って報告書の仕上げをしとったんやと。夜の十一時は過ぎとったって言うとった。外は車の音もほとんどなくて、事務所の中は蛍光灯が二つばかりしか点いてなくて、あちこち薄暗かったんやけど、そのビルが複層構造でな、上の階が丸見えになる吹き抜けの手すりがあったんやって。
それでな、モニターばかり見とったら、急に上からギィ、って音がしたんやと。古い木材が重みに耐えかねて軋むような音。最初はビルが古いからやろって思うたらしい。ところがその音が規則正しく続くんやと。ギィ……ギィ……ギィ……まるで何かが吊るされて、ゆっくりと前後に揺れとるみたいに。
顔を上げたんや。
その手すりにな……
何かが引っかかっとったんやと。人や。形が人なんや。首に何かが巻きついとって、足が床から一拳ほど浮いとって、全身がゆっくりゆっくり揺れとるんやって。ギィ……ギィ……って音は、その手すりの木材が重みを支えながら鳴らしとる音やったんや。
その人が叫ぼうとしたら喉が開かんかったって。息を吸わんと声も出んのに、息が吸えんかったんやと。ただ口だけ開けたまま座って、それをじっと見とったって……
でも、もっと怖いのはその後なんや。
その形が頭を持ち上げたんやと。こっちを見たんやって。そして片腕を上げて、下に向かってゆっくり、ゆっくりと伸ばしてきたんやと。手を差し伸べてくるんや。助けを求めとるんか、来いと言うとるんか、その人にも分からんかったって。でもその手がな、指が長すぎたんやと。人の手があんなに長いはずがないのに、暗闇の中でその指が下へ、下へ、どんどん伸び垂れてくるんや……
その人がそこからどうやって出たか、本人も分からんって。気がついたらビルの外の歩道に立っとったんやと。携帯も鞄も全部置いてきたのに、戻る気にはとてもなれんくて、そのままタクシー捕まえて家に帰ったって言うとった。
翌日聞いたら、同僚がこう言うたんやと。おい、あそこに夜一人でいるなって何度言うたと思っとるんや、って。あの手すり、昔ほんまに誰かがそこで……
そこで話が途切れたんやと。同僚もそれ以上は言わんかったって。
はっきりしたことは分からん。そのビルが正確にどこかもわしは知らん。でもな、その人がこう言うとったんや。あの日以来、残業が一度もできんようになったって。夜に事務所の蛍光灯がちらつくだけで、胸がどすんと落ちるって。
ギィ……って音がしたら、すぐ出ろって。何も聞かず、何も見ずに。
もう見てしもうたなら、遅いんやって。