聞いてください。
去年の秋のことなんです。私が直接、ではないんですが、ほぼそれに近い。知人の女性から、直に聞いた話です。仮に、Kさんとしておきましょう。
Kさんは横浜の生まれで、みなとみらいの近く、ずっとあのあたりに住んでいた人です。横浜三塔、ご存知ですか。神奈川県庁が「キング」、横浜税関が「クイーン」、横浜市開港記念会館が「ジャック」。港を囲むように建つ、三つの古い塔です。
その三塔を一度に見渡せるビュースポットが、横浜に三ヶ所ある、という話があります。赤レンガパーク、日本大通り、それから大さん橋の国際客船ターミナル。この三ヶ所を一日で全部回ると、願い事が叶う、と。観光のパンフレットにも載っているような、明るい言い伝えです。
Kさんはそれを、去年の十月に一人でやった。
願ったのは、亡くなった恋人にもう一度会いたい、ということだったそうです。春に急に逝ってしまった人で、まだ三十代だったと言っていました。詳しくは聞きませんでしたが、事故だったらしい。
朝から動いて、赤レンガ、日本大通りと回って、最後に大さん橋へ向かったのが夕方の四時を少し回ったころ。十月の横浜は日が落ちるのが早い。ターミナルの先端、クジラの背中みたいに緩やかに盛り上がったあの場所まで歩いて、海のほうへ向いて三塔を探した。
キング、クイーン、ジャック、全部見えた、と。
その瞬間のことを、Kさんはこう言っていました。
風は吹いていたんです、ちゃんと。髪も揺れていたし、コートもばたついていた。なのに、耳の中だけ、すとんと静かになった。波の音も、後ろを歩く人の靴音も、全部消えて、自分の息が、気道を通る音だけが、聞こえた、と。
そのまま、心の中で願い事を言った。
そうしたら、肩の横に、ぬっと、重みが来た。
人が隣に立ったときの、あの空気の動き。肩から腕にかけての皮膚が、ざっと粟立った。振り向いたら、誰もいなかった。夕暮れのターミナルは広くて、最寄りの人影は十メートル以上先にいた。なのに、確かに、誰かが右肩のすぐ横に立っていた。
気配だけじゃなかった。
潮の匂いの中に、甘ったるい焦げた匂いが混じっていた、と。線香には似ているけれど、線香じゃない。何かが、ゆっくり焦げていくような、粘りつく甘さ。それが、ほんの数秒、鼻の奥にあって、消えた。
その日はそのまま帰ったそうです。
三日後に、夢を見た。亡くなった恋人が出てきた。特に何かするわけじゃなく、ただ、隣に座っていた。夢の中でKさんは、ああ来てくれたんだ、と思ったらしい。起きたとき、泣いていたと言っていました。
それを私に話してくれたとき、Kさんは穏やかな顔をしていた。願いが叶ったんだ、会えたんだ、と。
私が何も言えずにいたら、Kさんがぽつりと続けたんです。
大さん橋で隣に立ったの、あの人だったと思う、って。
そうですね、と私は言いました。そう言うしかなかった。
でも、帰りながらずっと考えていたんです。
Kさんが願い事を言い終えるより前に、すでに肩の横に来ていた、という順序が、どうしても、頭から離れなくて。
願ったから来たのではなくて、Kさんが三塔を見た瞬間に、もう、そこにいた。
Kさんが話してくれた夢の中で、その人はずっと黙って隣に座っていたそうです。何も言わず、ただ、こちらを見ていた、と。
夢の中の、その顔。
Kさんは、穏やかだったと言っていたけれど、私には、その顔がどんな表情だったのか、もう少し詳しく聞けなかった。