釜山の郊外に、長い年月、人の足が届かない小さな谷がある。地元の人々はその場所を「囁きの谷」と呼び、近づくことを避けてきた。囁き声が聞こえるという噂が絶えなかったからだ。夕暮れ時に谷を通りかかると、耳元にまとわりつく、低く陰鬱な声がするのだという。
遠い昔、その谷には小さな集落があったと伝えられている。村人たちは毎年春になると、谷の精霊を鎮めるために祭祀を執り行っていた。しかしある年、強引な開発計画によって村は跡形もなく消え去り、それ以来、谷では不可解な出来事が後を絶たなくなった。
あるとき、肝の据わった大学生が二人、取材のために谷へと向かった。「囁きの谷」の伝説を解き明かしてみせると、彼らは豪語していた。夜が深まるにつれ、二人は谷の中心部へと踏み込んでいった。そのとき、声が聞こえてきた。「引き返せ……引き返せ……」彼らはそれを幻聴だと笑い飛ばし、さらに奥へと進んだ。
しかし、じりじりと近づいてくる声に恐怖を覚えた二人が踵を返そうとしたとき、すでに遅かった。突然、足元が崩れ、二人は深い沼へと飲み込まれた。必死にもがいたが、沼は容赦なく彼らを引きずり込んでいった。翌朝、救助隊が現場に到着したとき、残されていたのはカメラ一台だけだった。そのカメラには最後に撮影された映像が残っており、画面は激しく揺れ、囁きがかつてなく鮮明に聞こえた。「引き返せ……」
それからも谷は変わらずそこにある。警告の声はいっそう強まり、人々は日が落ちた後には決してその場所へ近づかない。谷の精霊が今もなお自らの領域を守り続けているという噂は、静かに、しかし確かに広まり続けている。