これは、知人の知人から聞いた話です。確かめようがないんですが、聞いた人間が妙にはっきり覚えていたもんで、今日はそれをそのまま、皆さんにお伝えしようと思います。
札幌の郊外に、ちょっと奥まった森があるそうです。名前は言わないでおきますが、地元の人間は皆、そこを知っている。近づかない理由も、なんとなく、皆知っている。
何年か前の秋の話です。
美咲さんという女子大生が、友人四、五人と連れ立って、その森へ入ったと言います。肝試しというほど本気でもなく、ちょっとした酔い覚ましの散歩くらいの気持ちだったそうです。十月の初め、日が落ちるのが早くなってきた頃のことです。
森の入り口は、街灯もなく、砂利道がひとすじ、黒い木立の間に吸い込まれるように続いていたと言います。踏み込んだ瞬間、気温がすっと下がった。外よりも二、三度は低かったんじゃないか、と美咲さんは後から言っていたそうです。足元の落ち葉が妙に湿っていて、踏むたびに音がしなかった。乾いた秋の落ち葉のはずなのに、ぐっ、ぐっと、濡れた布を踏むような感触だったと。
しばらくは皆で笑いながら歩いていた。けれど、奥へ進むうちに、会話が少しずつ減っていった。誰かが言ったそうです。「なんか、静かすぎない?」虫の声もしない。風もないのに、木の枝が頭の上でかすかに鳴っている。
美咲さんが最初に気づいたのは、仲間たちの足音が聞こえなくなったことでした。振り返ると、懐中電灯の光がいくつか、木々の向こうにぼんやり見えている。まだいる、大丈夫、と思ったそうです。そのまま少し先の木の根元に腰を下ろして、靴ひもを結び直した。ほんの十秒か、十五秒のことです。
顔を上げると、光がひとつもなかった。
声をかけました。返事がない。もう一度、今度は叫んだ。森が、音を吸い込むように静まり返っていた。
美咲さんは立ち上がって、来た方向へ歩き出しました。五分歩いても、十分歩いても、入り口が見えない。同じ太さの木が、同じ間隔で並んでいる。足元の落ち葉は、相変わらず濡れた音を立てない。
そのとき、聞こえたそうです。
耳のすぐそばで、息がかかるほどの近さで、自分の名前が呼ばれた。
「みさき」
声というよりも、音でした。楽器の音に近い、と後から言っていたそうです。人間の声ではない。でも確かに、自分の名前の形をしていた。
美咲さんはそこで振り返ったそうです。
木と木の間に、人が立っていました。
一人ではない。五人か、六人か、暗くてはっきりしないけれど、こちらをじっと見ている。顔がわからない。けれど、立ち方が、人間の立ち方じゃなかったと言います。膝が、少し逆に曲がっていた。
美咲さんは、声も出なかったそうです。ただ、目を離したら終わりだと思った。だからずっと、その影たちを見つめたまま、後ろへ後ろへ、ゆっくり下がっていった。どのくらいそうしていたか、わからない。気づいたら木立が途切れて、砂利道の感触が足の裏に戻ってきた。
朝方、仲間たちが森の入り口で美咲さんを見つけたとき、彼女は地面に座ったまま、膝を抱えて、森の奥をずっと見つめていたそうです。声をかけても、最初は反応がなかった。
その夜何があったか、美咲さんは誰にも話さなかったと言います。ただ一つだけ、仲間の一人に、小声でこう言ったそうです。
「あの人たち、ずっと笑ってたんだよ」と。