ねえ、少しだけ聞いてくれる?
東広島の山の奥に、どんどん淵峡って場所があるの。観光地として載ってるし、河童の石像なんかも置いてあって、昼間に行けばわりとのどかな場所なんだけど……去年の夏の終わりに、わたし、あそこに行ったんだよね。
お盆を過ぎたくらいの、まだ蒸し暑い日だった。着いたのが夕方の五時半ごろで、もう観光客は誰もいなかった。山の中の渓谷って、木が深いから、空がまだ青いのに足元だけ夜みたいに暗くなるんだよね。石畳の小道を降りていくとき、自分の足音が妙によく聞こえて、なんかそれだけで少し落ち着かなかった。
淵に近づくにつれて、水の音が大きくなってきて。「どんどん」って、低くて腹に響くような音。滝がある渓谷だからそれは当たり前なんだけど……なんか、その音に、もうひとつ何かが混じってる気がして。木の葉でも風でもなくて、間のある音。どん、って来て、少し間が空いて、またどん、って来る。一定じゃないの。水の音に紛れてるから最初は気のせいだと思ったんだけど、淵の縁まで降りていったら、もうはっきり聞こえた。
淵を覗き込んだら、水が深い緑色をしてた。透き通ってるのに底が見えない。水面から三十センチくらいまでは確かに澄んでるのに、その下でスッと緑が暗さに変わって、もうそこから先は何もなかった。色がなくなる、って感じ。深さじゃなくて、なんか……切れてるみたいに。
しばらくそこに立って水を眺めてたら、足首のあたりに、冷たい感触があった。
雨は降ってない。飛沫が来るほど滝には近くない。でも確かに、素肌に何かが触れた。冷たくて、ぬるっとした……濡れた指みたいな感触が、くるぶしのすぐ上を、するって撫でたの。
振り向いた。誰もいない。
足元を見たら、靴の横の石畳が濡れてた。雫が落ちたみたいな形じゃなくて、広がってる。手を伸ばして触れたら、冷たかった。ただの水なのに、なんか……ちょっと待って、触らなきゃよかったって思うくらい、嫌な冷たさで。
そのとき気がついた。濡れた跡の形が、ぼんやりとだけど、足みたいなの。小さくて、細長い。ただ、指のあたりが、普通じゃなかった。五本じゃない。もっと多い。六本か、七本か……はっきり数えられなかった。数えたくなかったのかもしれない。
わたしはそのまま引き返した。走らなかったのは、走ったらもっと怖いと思ったから。石畳を上って、小道を戻って、駐車場に出るまで、ずっとあの音が背中にあった。どん、どん、どん、って。水の音じゃなくて、間のある、あの音。
後になって調べたら、あの場所の名前の由来って、戦国時代に近くの城が落とされたとき、城主が命を絶って、誰も降ろさなかった太鼓が櫓から転げ落ちて滝に打たれ続けた、そこからだって言われてるんだって。誰が打つわけでもなく、ただ水に叩かれるままに、どんどん鳴ってたって。
それを読んで、なんか少し、腑に落ちたような、でももっと嫌な感じになったような。
あの音は水の音だったと思う。たぶん。
でもね、ひとつだけ、どうしても頭から離れないことがあって。
帰り道、車に乗り込んでドアを閉めたとき、ふと足元を見たら、助手席側のフロアマットに、小さな濡れた跡がついてた。わたしが乗り込む前から、あったみたいに。細長くて、指が、多かった。