ねえ、聞いてる?
これ、私が直接関わった話じゃないんだけど……でも、すぐそばにいた人の話だから、他人事みたいに笑えなくて。
去年の夏の終わりごろ、私の知ってる人が合羽橋で働いていてね。道具街の端っこの方にある小さな食器の卸問屋で、閉店後の棚卸しを一人で任されることが多かったんだって。夜の十一時、十二時まで残ることもざらで。
その日も、仕事を終えてシャッターを下ろして、道具街を一人で歩いていたらしいの。
夜の合羽橋って、昼間とは別の場所みたいになるんだって。包丁が並んだショーウィンドウも、プラスチックの食品サンプルも、全部シャッターの向こうに閉じ込められて、通りには街灯だけ。そしてあちこちに、河童の像がひっそり立っている。昼間は観光客が写真を撮って笑ってるような、愛嬌のある顔した河童たちが、夜になるとただ、そこに在るだけになるって言ってた。
その人が曹源寺の前まで差し掛かった時のことなんだけど。
曹源寺ってわかる?合羽橋のちょうど真ん中あたり、道路に面してひっそりある小さなお寺でね。江戸時代に治水工事を助けた河童たちを祀ってるって言われてて、境内には河童大明神がいて……それから、河童のミイラの手が保管されてるって話もあるらしいんだよね。確かめた人の話は、聞いたことないんだけど。
その夜、その人が塀の前を通り過ぎようとした時ね。
足が、止まったんだって。
自分で止めたわけじゃなくて、気づいたら立っていた、って言い方をしてた。真夏なのに空気がひとつ変わって、湿った、生ぬるいような川の底の匂いが、鼻の奥にふっと入ってきたって。腐りかけた水草みたいな、生き物の匂い。
近くに水なんてない場所なのに。
あの辺りの用水路はとっくに暗渠になってるし、川なんて見当たらない。なのに匂いがして、それから……音がしたって。
塀の内側から。
ぴちゃ、って。
ぴちゃ、ぴちゃ、って。
水たまりを踏むような、でも水たまりにしては重い、何かが一歩ずつ移動してるみたいな音。それがゆっくり、塀に沿って近づいてきたって言うの。
怖くなって顔を上げたら、塀の上に何かがいたって。
最初は猫だと思ったらしい。しゃがんでいて、暗くて、輪郭がよくわからなくて。でも猫にしては大きくて、頭のてっぺんが……街灯の光を受けて、ぬらっと光ってたって言うの。濡れてるみたいに。皿みたいに、くぼんでいるみたいに。
目が合った瞬間に、声が出なくなったって。
そのまま数秒、向こうもこっちも動かなかったって言うんだけど。それから、ごぼっていう音がして、その何かが塀の向こうへ落ちた。水の中に沈むみたいな音で。
その後は何もなかった。匂いも、音も、すっと消えた。
その人、震えながら家まで帰って、鍵を閉めて、しばらくその場に立ってたって言うんだけど……ふと気づいたら、手のひらが湿っていたって。
両手とも。
指の間まで、じっとりと。
歩きながら何かに触れた記憶は、なかった。汗でもなかった。拭いても拭いても、しばらくの間、乾かなかったって言うの。
それから、その人は夜の棚卸しを断るようになったんだって。理由は言わなかったらしいんだけど。
ひとつだけ気になることがあってね。
後日、昼間に私がその人と合羽橋を歩いた時のことなんだけど。道具街のあちこちに立ってる河童の像、みんな愛嬌があって、観光客がそばで記念撮影してるような可愛い顔をしてるんだけど。
その人が、ぽつりと言ったの。
「あの子たちね、みんな手のひらを上に向けてる」
……見てみたら、本当にそうだった。
どの像も、手のひらを上に向けて、差し出すみたいに開いていた。