ねえ、聞いてる?
合羽橋の話、しようと思って。
道具街って、知ってるでしょ。業務用の鍋とか、包丁とか、プロが使うような道具がずらっと並んでる、あの通り。昼間は観光客が写真を撮って、活気があって、ぜんぜん怖い場所に見えない。わたしもそう思ってた。行くまでは。
去年の十一月だった。ちょうどこの時期みたいに、冷え込みが急に本格的になってきた頃。撮影の仕事で使う小道具を探しに、夕方から合羽橋をうろうろしてたの。でも目当てのものが見つからなくて、気づいたら閉店時間をとっくに過ぎてた。
通りから人が消えてた。
昼とはぜんぜん違う顔をしてた。街灯に照らされた銅鍋がショーウィンドウに並んでて、黒ずんだ光を反射して、なんかこう……静かで、きれいで、でも、人形みたいに整いすぎてて。わたし、なんとなく足が止まらなくて、ひとりで歩き続けてた。
そのうちに、曹源寺の方に来てた。
「かっぱ寺」って呼ばれてる小さなお寺。河童の縁起物が飾ってあって、江戸の頃に水路工事を手伝った河童が祀られてるって、そういうところ。夜は門が閉まってて、石畳の前に街灯がひとつだけ立ってた。
寺のすぐ脇に、細い路地があって。
そこで、匂いがした。
川の匂い……いや、もっと濃いもの。泥と水草と、魚のはらわたみたいな、生臭くて重い匂い。鼻の奥に張りつくような。でも近くに川なんてない。この辺りの水路はとっくに埋められてる。道路の下に、蓋をされて、眠ってる。
立ち止まったとき、聞こえた。
ちゃぷ、って。
水音だった。
路地の奥から。
ちゃぷ、ちゃぷ、って、一定のリズムで。まるで誰かが足を水につけて、ゆっくり揺らしてるみたいな音。でも、道に水たまりなんてなかった。アスファルトは乾いてた。わたしの息だけが白くなって、消えて、また白くなった。
目が暗さに慣れてきたとき、見えた。
路地の突き当たり、街灯の光が届かないぎりぎりのところ。
小さいシルエットが、しゃがんでた。
子供くらいの大きさ。全身がびしょ濡れで、服か肌かわからないものが濡れ光ってた。十一月の夜なのに。十一月の、あの冷え込みの中なのに、びしょびしょで。
声をかけようとした。「大丈夫ですか」って、口を開きかけた、そのとき。
それが、顔を上げた。
悲鳴が出なかった。出なかったのは、顔がなかったからじゃない。あったの。ちゃんとあった。目も、鼻も、口も、ぜんぶ。
でも。
その目が、わたしを見てなかった。
まっすぐ、下を向いてた。足元じゃなくて、もっと下。アスファルトの、その下。地面の、もっと下。まるでそこに、まだ水が流れてるみたいに。まるで今も、暗い水路が続いてるみたいに。顔を上げながら、ずっと、ずっと、下を見てた。
わたし、走ってた。
どこをどう走ったか覚えてない。大通りに出てから、やっと息ができた。
後で調べたら、あの辺りの地中にはいまも江戸期の水路が残ってるって。埋められて、蓋をされて、忘れられたまま、でもまだそこにある。水が通らなくなってから何百年も、暗い土の中に。
わたしが怖いのはね。
あれがわたしに気づいてなかったことじゃないの。
気づいてて、それでも、ずっと下を見てたことが、怖い。
今も目を閉じると出てくる。顔を上げながら、地面の下を見つめてる、その顔。濡れた頬に街灯の光が一筋だけ反射して、目は、ぜんぜん、こっちを向いてない。