これはね、大阪の道頓堀で聞いた話なんですが。
まあ、誰から聞いたかっていうと、友人の友人の話でして。確かめようがないんですけれど、ちょっと妙な話なんで、そのまま聞いていただければと。
健二くん、というんですがね。大学二年生だったとか。ある秋の終わり、雨の夜のことだったそうです。
友人たちと難波で飲んで、帰り道に道頓堀の橋に差し掛かった。戎橋のあたりですね。あのグリコの看板がネオンで滲んで、川面に溶けていくような夜。雨粒が水面を叩いて、ぽつ、ぽつ、と音を立てている。
酔っていた彼はね、ふと橋の欄干に肘をついて川を覗き込んだんだそうです。
特に理由はなかった。ただ、足が止まった。
ネオンの赤と黄が水の中で揺れている。その中にね、一つだけ、光らないものがあった。光を吸い込むように黒い、人の形をした何かが、水面の下にある。
「あれ、何や」と友人に言ったんですが、誰も振り返らなかった。みんな傘を傾けながら先を歩いていく。
健二くんだけが橋の上に残された。
影はゆっくりと動いていた。流れに逆らって、川上の方へ向かっていく。
おかしいと思いながらも、足が動いた、と言うんですよね。ついていってしまった。川沿いの道を、傘も差さずに。雨が首筋を伝って、シャツの中に入っていくのを感じながら。
しばらく歩くと、影は川から離れて、細い路地へ入っていった。道頓堀から少し外れた、観光客の来ないような場所です。
路地の奥に、建物があった。
木造の、二階建て。もう使われていない。窓ガラスが何枚か割れていて、黒い口を開けている。玄関の引き戸が、ほんの少しだけ、開いていた。
健二くんはそこで、初めてはっきりと怖いと思った、と言っていたそうです。足が震えているのに、体は前に進んでいた。
引き戸に手をかけると、古い木の感触と、それから、線香でも黴でもない、何か甘ったるい匂いがした。花の匂いとも違う。人の匂い、というんですかね。長い時間、人が溜まっていた場所の匂い。
中に入ると、廊下が奥まで続いていた。
電気はない。携帯の明かりで照らすと、壁には花柄の壁紙が貼られていた。ところどころ剥がれて、黒い染みが広がっている。床を踏むたびに、ぎ、ぎ、と鳴く。
廊下の突き当たりに、階段があった。
そこで、聞こえてきたんです。
泣き声じゃないんですよ。泣き声だったらまだよかった。
鼻歌、だったそうです。
音程のない、かすれた、女の人の鼻歌。どんな曲かもわからない。ただ、ずっと同じところを繰り返している。
健二くんは動けなくなった。
明かりを向けると、階段の上に、女が立っていた。
白い着物。髪が長くて、顔が、下を向いている。
ゆっくりと、こちらを向いた。
目が、なかったそうです。
目があるべき場所に、ただ、皮膚があった。
それでも口だけが動いて、鼻歌を続けていた。同じ旋律を、同じ場所で、繰り返しながら。
健二くんは叫び声も出なかったと言っていた。気がついたら外に出ていて、雨の中を走っていた。靴が片方脱げていたけれど、気にならなかった。
後から調べると、そのあたりにはかつて、女の人たちが働かされていた建物がいくつかあったらしい。今はほとんど取り壊されているんですが、一棟だけ残っているところがある、という話を聞いたことがある、という人が何人かいるそうで。
確かめた人はいないんですけどね。
ただ、健二くんが一つ気になっていたことがあって。あの鼻歌、外に出てからも、しばらく頭から離れなかったと。家に帰って、風呂に入って、布団に入っても、同じ旋律が頭の中でぐるぐると回っていた。
三日ほど経って、ようやく消えた。
消えたと思っていたんですが、先日また彼に会ったら、「最近また聞こえる気がする」と言っていたそうです。
雨の夜だけ、と。