ねえ、聞いてくれる?
去年の春の終わり、私ね、上野に一人で行ったんだよね。別に理由があったわけじゃなくて、ただなんとなく、人混みの中に混ざりたい日があるじゃない。不忍池のほとりをぐるっと歩いて、ベンチに座って、蓮の葉を眺めてた。
そのとき、隣のベンチに女の人が座ったの。
三十代くらいかな。きれいな人だった。でも、なんか……目が、ぼんやりしてた。私を見てるんだけど、私を見てない、みたいな。で、その人がぽつりと言ったの。「ここで乗ったんですよね」って。
ボート乗り場の方を見ながら。
なんとなく話を聞いてしまったんだよね、私。
彼氏と来たのは二年前の春で、二人でボートに乗ったって。夕方に近い時間で、水面が橙色に染まってて、きれいだったって、小さな声で言ってた。そこまでは普通の話なんだけど……
池の真ん中あたりに出たとき、急に匂いが変わったんだって。
泥の、あの池特有のひんやりした匂いが消えて、代わりに甘い香りが来た。蓮の花じゃない、もっと濃い、閉め切った部屋に花束を放り込んだみたいな、息が詰まるような甘さ。彼氏に「変な匂いしない?」って聞いたら、「え、何も」って。
そのとき、ふと水面を見たって。
夕陽が映って、ボートの影が伸びてた。二人分の影も見えてた。なのに、ボートの後ろに、もう一本。
すっと、細長い影が、水の底から立ってた。
人の形をしてたって。背が高くて、輪郭だけで、顔の造作はわからない。でもその影がね……ゆっくり、上を向いたんだって。水の中から、こっちを、見上げるみたいに。
その人、そこで声が少し震えたの。
「顔がなかったんじゃなくて」って言うんだよね。「顔は、あったと思う。でも見えなかった。見せてもらえなかった、って感じで」
彼氏は気づかなかった。岸に向かってオールを漕ぎ始めて。その人は後ろを向けなかったって。背中に、何かの感触があったから。肩から首の後ろにかけて、細くて冷たい、濡れたものが、そっと触れてた。指、みたいな形をした、何か。
服は濡れてなかった。
でも確かに、触れられてた。
岸に着いて、振り返ったら、何もなかったって。水面はもう夕陽が消えかけてて、平らに、静かだった。
それで、別れたんですよね、て私が言ったら、その人が少し驚いた顔をして。
「なんで知ってるんですか」って。
私、知らなかったんだよ。なんとなく、そう言ってしまっただけで。
でもその人、頷いて。一ヶ月も経たないうちに、理由もわからないまま、ぐずぐずと終わったって。最後の夜、一人で泣いてたときに、また来たって。あの甘い匂いが。窓も、換気扇も、全部閉まってたのに。
その人が立ち上がって、池の方を見ながら言ったんだよね。
「あれ、私たちを見てたんじゃないと思う」って。静かな声で。「あれはずっと、ここにいたんだと思う。私が来る前から。誰かと来るたびに、水の底で、待ってた」
それだけ言って、歩いて行っちゃった。
私ね、しばらくそのベンチから動けなかったんだよね。池を見てたら、水面が夕風でさざ波立って。蓮の葉がゆっくり揺れて。
ボートが一艘、岸に繋がれてた。
その船底に、濡れた手形が、ひとつ、内側についてたの。