これはですね、福岡に住む知人から聞いた話で、確かめようもないんですが、妙に細かいところが引っかかって、今日お話ししようと思いまして。
天神、ご存知ですよね。昼間はあれだけ人が溢れている。地下街に、百貨店に、ビジネスマンも学生も。ところが夜中の二時、三時となると、あの賑わいが嘘だったみたいに静まり返る。そういう時間帯の天神を、知人の知り合い、仮に田中さんとしておきましょう、その田中さんが一人で歩いていたそうです。
春の終わり頃だったと聞いています。会社の同僚と飲んで、気づいたら終電を逃していた。タクシーを拾おうにも財布が心細くて、まあ歩けない距離でもないし、と歩いて帰ることにした。酔いが回っていたせいもあって、大通りより細い路地の方が何となく気持ちよく感じたそうで、ふらふらと裏道に入っていったというんですね。
街灯がぽつり、ぽつりとしか立っていない路地で、田中さんの革靴の音だけが反響していた。その音がうるさく感じるくらい、静かだったと。
最初に気づいたのは匂いだったと言うんです。花、それも少し腐りかけたような花の匂い。春先の夜に、そういう匂いがする場所があるとは思わなくて、立ち止まって鼻をひくひくさせていたら、声が聞こえた。
……たすけて。
後ろから、でもない。前からでもない。路地の壁の、内側から聞こえるような気がしたと。
酔っているんだろう、と田中さんは思った。そのまま歩いた。歩いたんですが、今度ははっきり聞こえた。
……ここにいるよ。たすけて。ここにいる。
女の声でした。若い声。でも、何かが変だった。声に、息がないんです。言葉はあるのに、吸って吐く、その気配がない。田中さんはそれを後から思い返して、ずっと気持ち悪かったと言ったそうです。
声につられるように、路地を奥へ進んでいったと。自分でもなぜそうしたのかわからない、とは本人の弁で。
行き止まりに近いところに、祠がありました。古い、小さな祠。石が苔むして、扉の合わせ目から線香の煙が漏れていた。夜中の三時近くに、誰かが線香を供えたばかりの祠。
その前に、女がしゃがんでいた。
白い着物でした。白、というより、黄ばんだ白。泣いていた。肩を震わせて、声を殺して泣いていた。顔は見えない。うつむいているから。田中さんは思わず声をかけようとした、その瞬間に、女がゆっくりと顔を上げた。
目が、腫れていた。
泣いて腫れた目ではなくて、まぶたそのものが、何か別のもので盛り上がっているような、そういう腫れ方だったそうです。でも田中さんが一番怖かったのはそこじゃない。
女の手が、祠の扉に押し当てられていた。内側から。
扉の隙間から、指が五本、外に出ていた。白くて細い指が、ぴったりと扉に張り付くように。まるで中に閉じ込められているみたいに。
でも女は確かに、外に座っていた。
田中さんは声も出なかったと言います。足が動かなかった。女がにっこりと微笑んで、また言ったそうです。
……出して。
そこから先の記憶がはっきりしないと田中さんは言っていて、気づいたら大通りを走っていたと。
後から知人が調べたところによると、その路地には昔から古い祠があって、詳しいことはわからないんですが、戦前、その場所に小さな家があって、火事で何人か亡くなったという話が残っているらしい。確かめたわけじゃないから、本当のところはわかりません。
ただ、田中さんは今でも天神に行くたびに、花の匂いがすると言うんですね。腐りかけの花の匂い。人混みの中でも、ふとそれが鼻をかすめる。
そしてその匂いがした時だけ、手のひらが、じわりと濡れる感触がするんだそうです。何かに、ぎゅっと握られているような。