これはね、谷中で聞いた話なんですが……確かめたわけじゃないんで、そのつもりで聞いてください。
ある秋の終わり、だったそうです。十一月の頭か、その辺り。
田中さんという、どこかの会社に勤めてる方がいましてね。三十代の後半、残業続きで、もうだいぶくたびれていたんだそうです。その夜も終電ひとつ前で会社を出て、最寄り駅まで歩いていた。いつもは大通りを真っ直ぐなんですけど、その日はなんとなく、谷中の路地に入ってしまった。理由は特にない。ただ、ふらっと、と言うんですね。疲れてたんでしょう。気が緩んでたんだと思います。
谷中はご存知ですか。昼間は猫の街だとかお寺の街だとか言われて、観光客も来る。でも夜は違う。路地が細くて、街灯が少なくて、家と家の間がやけに暗い。古い板壁が続いて、その隙間から黒い空が見えたりする。都内にいることを忘れるような、そういう場所です。
田中さんが歩き始めてすぐ、後ろに何か、気配があったと言うんですね。振り返ったけれど、誰もいない。猫でもない。ただ、少し空気が冷たくなった気がした、と。十一月ですから、それだけなら別に不思議でもない。
ただ、においがしたと言うんです。
線香の匂い、ではないと言ってた。もっと湿った、土に近い匂い。お墓の近くを歩くと、たまにああいう匂いがしますね。田中さんはそれを嗅いで、少し足が重くなった気がした、と。
歩き続けていたら、声が聞こえてきた。
最初は遠くの話し声かと思ったそうです。夜でも近所の家から漏れることはある。でも、どの家にも明かりがない。その路地だけ、全部の家が暗かったそうです。窓に灯り一つない。
声は近づいてくる。
それが自分の名前を呼んでいると気づいたのは、もうかなり近くなってからだったと言うんですね。「田中さん」って。一度だけじゃなく、続けて。「田中さん、田中さん」って。
声の質が、気持ち悪かったと言うんです。高くもなく低くもない、性別がよくわからない声で、感情がなかった。怒ってるわけでも、悲しんでるわけでもない。ただ呼んでいる。それが余計に怖かった、と。
振り返ったら、いたんです。
人の形をしたものが、三メートルほど後ろに立っていた。暗がりの中でも、はっきりわかる輪郭がある。男とも女ともつかない。ただ、立っている。動かない。
田中さんはそのとき、足が動かなかったそうです。逃げなきゃと思うのに、膝が言うことを聞かない。声も出ない。ただそれを見ている。
そのとき気づいたと言うんですよ。
そのものが、影ではないと。
街灯の光が当たっているのに、影が落ちていない。地面に、何も映っていない。
田中さんはそこでようやく走り出して、大通りまで一気に駆け抜けた。振り返らなかった。声は途中まで聞こえていたそうですが、大通りに出た瞬間、ぴたっと止んだ。
翌朝、田中さんは気がついたと言うんです。
自分の名前、その夜、誰かに教えたことがあるだろうか、と。
谷中に知り合いはいない。名刺を落としたとか、そういうこともない。仕事の関係者でも、近所の人でもない。それなのに、確かに呼ばれた。
田中さんの名前を知っていた何かが、その路地で待っていた。