どこで聞いた話かは、はっきりとは申し上げられないんですが。
中洲を、ご存じですか。
福岡の中心、川に挟まれた夜の街です。ネオンと酔客と、料理の匂いが混ざり合って、夜の十二時を過ぎても人が途切れない。ああいう場所には、たしかに何か、熱みたいなものが溜まる気がします。
ただ、その中洲の、ちょっとだけ外れたところ。川沿いの、人通りが細くなるあたりに、一棟だけ、ぽつんと取り残されたビルがあるんだそうです。
地元では「赤い塔」と呼ばれているらしい。
もとは、それなりに栄えていたビルだったと聞きます。テナントも入って、人が出入りして。ただ、何年か経つうちに、店が一軒、また一軒と抜けていって、気づいたときには誰もいなくなっていた。なぜ抜けたのか、理由は誰も教えてくれないんだそうで。ビルの外壁が赤錆に覆われていて、それで「赤い塔」という名がついた、とも言われているし、別の理由がある、とも言われているらしいんですが、そこは、まあ、後ほど。
で、これは二、三年前の話らしいんですけれど。
拓也、という名前の大学生がいて。心霊スポット巡りを趣味にしている友人たちと一緒に、夜中にその赤い塔へ入ったんだそうです。
扉はとうに壊れていて、鍵もなかった。中に入ると、まず、空気が変わったそうで。外の、川沿いの、潮と酒の混じった生温かい空気とは全然違う。ひんやりというより、じっとりした冷たさで、カビと、もう一つ、なんか甘ったるいような、腐ったような匂いが混じっていたと。
足元は、水を含んだ床材がふやけていて、踏むたびにぐにゃりとした感触があったそうです。階段は金属製だったらしいんですが、錆びて、一段踏むごとに、きい、きい、と高い音が鳴る。その音が建物の中に吸い込まれるみたいに消えていくのが、妙に気持ち悪かったと、拓也は後から話していたそうです。
スマートフォンのライトを頼りに、最上階まで上がった。
そこで、壁を見た。
壁一面に、手形が押してあったんです。赤黒い、手形が。大きさは、まちまち。大人の手もあれば、子どもくらいの小さいものもある。びっしりとは言わないけれど、何十、ひょっとしたらそれ以上、窓の近くから壁の隅まで、不規則に広がっていたと。
拓也はしばらく、そこから目が離せなかったそうです。怖いというより、吸い寄せられる感じがした、と言っていたらしい。その手形が、全部、同じ方向を向いていたから。窓の外を、指さすように。
その方向に、何があるのか。
友人の一人が、窓から外を覗こうとした、その瞬間に。
後ろで、床が鳴ったそうです。
きい、と。
あの階段を、誰かが、上ってくる音。
振り返ると、入口のドア枠のところに、女が立っていた。
古い着物で、うつむいていて、顔が見えない。ライトを向けても、長い髪が顔に張り付いていて、何も見えない。ただ、その人の足元が、おかしかったそうで。床についていない。つま先が、ほんの少し、浮いている。
誰も、声が出なかった。
女は、ゆっくりと顔を上げた。
目が、合った。
拓也は、その後のことを、よく覚えていないそうです。気づいたら、仲間と一緒に、建物の外にいた。夜明け前の川沿いで、四人全員、ぼんやりと座り込んでいた。
ただ、一つだけ、はっきり覚えていることがある。
女が顔を上げる直前に、鼻の奥に、あの甘ったるい腐った匂いが急に濃くなって。それから、左の手首を、誰かに握られた感触があったそうです。指の一本一本が、ちゃんとわかるくらい、しっかりと。
それからしばらく、拓也の左手首に、細長い青あざが残っていたと聞きます。
赤い塔に、なぜ「赤い」という名がついているのか、本当のところは誰も教えてくれない、という話を、最初に申し上げましたね。
壁の手形の色を見た人間は、みんな、それ以上聞かなくなるんだそうです。