格子の内側
AI AI가 만든 창작 픽션입니다(음성·이미지도 AI 생성). 실제 사건·인물·단체·장소와 무관합니다.

浅見律子が金沢に着いたのは、十月の終わりの午後遅かった。北陸の空は灰色に低く垂れ込め、兼六園の木々はすでに半分ほど葉を落として骨ばった枝を晒していた。彼女は三十四歳の民俗学者で、江戸から明治にかけての遊廓建築に関する論文を仕上げるため、東茶屋街の調査を目的としてこの街を訪れていた。宿は主計町に取った小さな旅館で、浅野川の水音が夜通し聞こえるという。荷物を解きながら、律子は窓の外の川面を眺め、これほど静かな場所であれば作業も捗るだろうと思った。
東茶屋街へは翌朝向かうことにして、その夜は近くの食堂で治部煮を食べ、早めに床についた。眠りにつくまでの短い時間、浅野川の流れる音を聞いていると、不意に三味線の音が遠くから届いた気がした。しかし耳を澄ませても同じ音は繰り返されず、川の水音だけが部屋を満たしていた。律子はそれを旅の疲れが見せた幻聴だと片付け、目を閉じた。
翌朝、霧がかかっていた。浅野川に架かる中の橋を渡ると、石畳の道が細く延びており、その両側に格子造りの茶屋建築が並んでいた。一階の虫籠窓と二階のきんきら格子が朝の鈍い光の中で濡れたように光っていた。観光客の姿はほとんどなく、土産物を並べ始めた店の主が時折格子の向こうに動くのが見えるだけだった。律子はカメラと手帳を取り出し、建物の外観を記録しながら通りをゆっくり歩いた。格子の組み方、軒の反り、柱の傾き、そういった細部に注意を払っていると、時間の経つのを忘れた。
通りの北の端、少し奥まった場所に、他の茶屋建築とは少し趣の異なる家があった。格子の色がほかより濃く、ほとんど黒に近い焦げ茶で、二階の雨戸が昼間だというのに閉まったままだった。表札の類は見当たらず、玄関先に古い陶製の花入れが置かれていたが、中の花はとうに枯れて茶色の繊維になっていた。律子はその建物の前で足を止め、手帳に寸法と特徴を書き留めた。格子の間から内部を覗こうとしたが、暗くて何も見えなかった。ただ、中からかすかに線香の匂いがしたような気がした。
地元の郷土資料館を訪ねたのはその日の午後のことだった。資料館の受付に座っていた老いた男性職員は、律子が東茶屋街の古い茶屋建築について質問すると、快く古い地図や写真を引き出してくれた。律子は北端の黒い格子の家のことを尋ねた。職員はしばらく黙って写真の束を繰り、それから一枚の古い白黒写真を見せた。昭和初期に撮られたものらしく、同じ場所に同じ形の建物が写っていた。「あそこは昔から空き家扱いでしてな」と職員は言った。「持ち主がいるのかいないのか、誰も正確には知らん。ただ、定期的に誰かが線香を上げに来るらしいという話はあります」。律子が「誰が」と聞くと、職員は首を振るだけだった。
その夜、旅館に戻った律子は資料を広げ、ノートパソコンで論文の草稿を書き進めた。浅野川の水音は相変わらず部屋に満ちていたが、深夜になると風が出てきて、窓の桟がかすかに鳴り始めた。午前一時を過ぎたころ、律子は突然手を止めた。三味線の音がした。昨夜と同じように遠く、しかし今夜ははっきりと聞こえた。単調な同じ旋律が繰り返されていた。彼女は窓を開けて川の方を見たが、対岸の暗がりに人の影は見えなかった。音はしばらく続いてから、ふっと消えた。消えた瞬間、川の水音が急に大きく感じられた。
翌日、律子は再び東茶屋街を訪れた。今日は建物の内部も見せてもらおうと思い、現在も営業している茶屋造りの資料館に入った。館内の係員は五十代の女性で、話好きらしく、律子が研究者だと知ると熱心に説明をしてくれた。二階座敷に上がると、格子窓から通りが見渡せた。律子はそこから北端の黒い格子の家を確認した。昨日と変わらず雨戸が閉まっており、ただ玄関先の花入れの前に、今日は白い菊の花が一輪、新しく供えられていた。「あの家のことを知っていますか」と律子が聞くと、係員の女性は窓の外を一瞥してから、「ああ、あそこね」とだけ言って話題を変えた。

係員が別の部屋へ移動した隙に、律子は二階の窓から黒い格子の家を改めてじっくり観察した。一階の格子の間に、何か白いものが見えた気がした。目を凝らすと、それは人の手のように見えた。指が五本、格子の内側にそっと添えられているようだった。しかし次の瞬間、それは消えた。律子は瞬きをして、もう一度見た。格子の奥はただ暗いだけだった。彼女は自分の目が疲れているのだと思い、手帳にそのことを記録するのをためらった。しかし、ためらいながらも、結局書いた。「一階格子内側に白い手のようなもの、一瞬。錯覚の可能性高い」と。
三日目の朝、律子は宿の主人に黒い格子の家について聞いてみた。主人は六十代の小柄な女性で、この旅館を三十年以上切り盛りしてきたという。主人は少し表情を固くしてから、「研究の方なんですか」と確かめるように言った。律子がそうだと答えると、主人は小声で話し始めた。その家は地元では「格子屋」と呼ばれており、正式な名前は誰も知らないこと。昭和の初めに、そこで働いていた芸妓が一人、ある冬の夜に姿を消したこと。翌朝、家の中には誰もおらず、しかし三味線だけが床の間に残されており、弦が一本切れていたこと。それ以来、あの家に近づいた者は皆、夜に同じ旋律の三味線を聞くのだと。
律子は研究者としての好奇心と、それとは別の、もっと根源的な何かが自分の中で引き合っているのを感じた。その「何か」には名前をつけたくなかったが、強いてつけるとすれば、恐怖と呼ぶべきものだった。それでも彼女はその日の昼間、もう一度あの家の前に立った。白い菊の花はまだそこにあった。昨日より少し首が傾いていた。格子の奥は暗く、何も見えなかった。律子は深呼吸をして格子に触れた。木は冷たく、湿っており、まるで長い間日の当たらない場所に置かれていたような感触だった。その瞬間、内側から、ごく微かに、何かが格子を押し返す感触がした。
彼女は手を離した。後退りしながら通りに出ると、向かいの茶屋の二階から、誰かがこちらを見下ろしているのが見えた。白い顔が窓枠の影の中にあり、目が合ったと思った瞬間、その顔は引っ込んだ。律子は向かいの建物に駆け寄り、格子から中を覗いたが、現在は閉まっている店らしく、内部は暗いままだった。通りには誰もいなかった。石畳の上に、秋の落ち葉が数枚、風もないのにくるくると回っていた。
その夜から、律子の夢が変わった。それまでは夢を見ることもほとんどなかったが、その夜は鮮明な夢を見た。夢の中で彼女は東茶屋街の石畳を歩いていた。夜で、しかし月が明るく、格子の向こうに灯りが灯っていた。三味線の音が聞こえ、笑い声が聞こえ、下駄の音が石畳を叩いていた。それはかつてこの場所がそうであったような、にぎやかな夜だった。しかし気づくと、律子は一人ではなかった。隣に誰かが歩いていた。白い着物を着た女で、顔は前を向いたまま、律子と並んで歩いていた。夢の中で律子はその女の顔を見ようとしたが、どれだけ首を巡らせても、顔だけが見えなかった。
翌朝、律子は夢の内容を手帳に書き留めた。書きながら気がついたことがあった。夢の中で自分が歩いていたとき、足音は自分のものだけだったということだ。隣の女は音を立てていなかった。石畳の上を、下駄を履いているにもかかわらず、まったく音を立てずに歩いていた。律子はその事実が、目が覚めた後になってから遅れて恐ろしくなった。夢の中では気にならなかったのに、覚醒した頭でそれを認識したとき、背筋を何かが這い上がった。

四日目の夕方、律子は思い切って地元の古書店を訪ねた。東茶屋街から少し離れた場所にある、間口の狭い店で、店主は白髪の老人だった。律子が「格子屋」について書かれた資料はないかと尋ねると、老人はしばらく棚の間を歩き回り、一冊の薄い和綴じの冊子を持ってきた。昭和二十年代に地元の在野研究家が個人でまとめたものらしく、金沢の花街に関する聞き書きが収められていた。律子はその場で該当のページを読んだ。芸妓の名は「小糸」といい、器量よしで三味線の腕も確かだったが、ある客に深く入れ込み、その客が突然姿を消したあと、小糸も同じ夜に消えたと書かれていた。しかし聞き書きにはもう一行、こんな記述があった。「小糸は消えたのではなく、戻ったのだという説もある。どこへ戻ったのかは、格子だけが知っている」。
その夜、律子は旅館に戻らなかった。正確に言えば、戻るつもりだったが、夕暮れ時に東茶屋街を通り抜けようとして、気づいたら黒い格子の家の前に立っていた。どうやってそこに来たのか、はっきりとは思い出せなかった。ただ、家の扉が、ほんの少し開いていた。今まで一度も開いているのを見たことがなかった扉が、数センチだけ内側に引かれていた。隙間から、線香の匂いがした。そして、かすかに、三味線の音がした。今夜の音は遠くなかった。すぐそこから聞こえていた。
律子は扉を押した。軋む音もなく、扉は滑らかに開いた。中は暗かったが、奥に淡い光があった。土間があり、その先に畳敷きの部屋があり、部屋の中央に古い三味線が置かれていた。誰もいなかった。しかし三味線の音は続いていた。律子は一歩、また一歩と土間に踏み込んだ。三味線に近づくにつれ、音が大きくなった。彼女は三味線の前にしゃがみ込んだ。弦は一本、切れていた。切れた弦の端が、まるで今しがた切れたばかりのように、まだかすかに震えていた。
その瞬間、律子は部屋の隅に誰かがいることに気づいた。振り向いたとき、彼女は声を上げなかった。声が出なかったのではなく、声を上げるべき何かがそこにあるのかどうか、一瞬わからなかったからだ。隅に座っているのは白い着物の女だった。顔はこちらを向いていた。目があった。律子が震える唇で「小糸さんですか」と問うと、女はゆっくりと首を振った。否定しているのではなく、問い自体を意味のないものとして払いのけるような、そういう首の振り方だった。女の視線は律子を通り抜けて、どこか遠いところを見ていた。
律子が再び動けるようになったとき、気づくと彼女は表の石畳に立っていた。扉は閉まっており、線香の匂いはしなかった。三味線の音も聞こえなかった。空は完全に暗く、浅野川の方向から水音が聞こえていた。律子は手帳を取り出した。手が震えていたが、記録しなければならないと思った。しかし手帳を開いたとき、その日の分のページに、すでに文字が書かれていた。律子自身の筆跡で。「戻ってきた。ただ、どこへ戻ったのかは、まだわからない」。
彼女はいつそれを書いたのか、まったく記憶になかった。
翌朝、律子は金沢を発った。新幹線の車内で、彼女は論文の草稿を読み返した。データも写真も揃っており、論文は書けるはずだった。しかし読んでいるうちに、奇妙なことに気づいた。四日間の調査で撮った写真のうち、黒い格子の家を撮ったものだけが、一枚残らず真っ暗に潰れていた。データは残っているのに、画像は黒一色だった。それだけではなかった。格子の家の前で撮った自撮り写真が、一枚だけあった。律子には自撮りをした記憶がなかった。しかし画面の中で彼女は格子の前に立っており、笑っていた。そして彼女の隣に、白い着物の女の、肩から下だけが写り込んでいた。
顔は画角の外にあった。

列車は加速しながら北陸の曇天の下を走り続け、車窓から金沢の灰色の街並みが遠ざかっていった。律子はイヤフォンを耳に差し込み、音楽を流そうとした。しかし再生ボタンを押しても音楽は流れず、代わりに、単調に繰り返される三味線の音だけが聞こえた。切れた弦の音が混じった、不完全な旋律が。律子はイヤフォンを引き抜き、スマートフォンを確認した。音楽アプリは起動していなかった。再生中のファイルも、何もなかった。
彼女は窓の外を見た。自分の顔が薄く映り込んでいた。その顔の輪郭のすぐ隣に、もう一つの輪郭が透けて見えた気がした。律子は目を細めた。車内の照明の反射だと思った。思おうとした。しかし列車がトンネルに入り、窓が完全な鏡になった瞬間、はっきりと見えた。隣の席は空席だった。ずっと空席だった。なのに窓の中には、確かに、肩を並べて座る二人の女が映っていた。
トンネルを抜けると、窓はまた窓に戻った。律子の顔だけが映っていた。
それから三ヶ月後、律子の論文は完成した。査読を通り、学術誌に掲載された。論文の末尾には謝辞があり、金沢の資料館職員や旅館の主人への感謝が記されていた。しかし謝辞の最後に、一行だけ、編集者も査読者も気に留めなかった一文があった。「また、本調査において多大な示唆を与えてくださった小糸さんに、深く感謝申し上げます」。
律子はその一行を書いた覚えがなかった。しかし画面に映るその文字は、紛れもなく彼女自身の筆跡だった。