……聞いた話なんですがね。
確かめようがないんで、本当かどうかは、わたしにはわかりません。ただ、これを教えてくれた人が、やけに落ち着いた声で話すもんですから、それがかえって気持ち悪くて。
渋谷の話です。
駅から歩いて十分ほど、観光客がよく行くあのあたりから、ちょっとだけ路地に入ったところに、なんとも妙な建物があるんだそうで。外観はどうってことない、古びた雑居ビルみたいなものらしいんですよ。看板もない、表札もない。ただ扉だけがある。
界隈では、その建物のことを「肉の館」と呼んでるんだそうです。なんでそんな名前がついたのか、誰も知らない。知ってる人は、もう話せなくなってるから、とも言うんですけど。
さて。佐藤さんという、二十代の画家の卵がいましてね。
渋谷に安いアパートを借りて、絵を描きながら暮らしていた。絵の題材を探すのが好きで、夜の街をよくひとりで歩き回っていたそうです。そういう人なんですよ、見てはいけないものを見たくなる、そういう性分の。
その夜は十一月の終わりで、冷え込みが厳しかったと言います。
路地に入ったとたん、音が消えたと。渋谷の夜というのは、どこにいてもざわめきが聞こえているものでしょう。それが、すっと消えた。足音だけが、自分の足音だけが、妙にはっきり聞こえてきて、佐藤さんは立ち止まったそうです。
扉の前に着いたとき、においがした、と。
生臭い、というより、温かい、と言ったほうが近いかもしれない。冬の夜に、なにか温かくてやわらかいものが、扉の向こうで息をしているような、そういうにおい。
それでも彼は、扉を開けた。
中は廊下になっていたそうです。電球がひとつ、薄く灯っていて。壁が、おかしかった。壁紙でも、コンクリートでもない。なんというか、やわらかそうで、薄く光って、ゆっくりと、動いていた。触れてはいないのに、脈打つ感覚が、空気を通して伝わってきたと言うんです。掌に、じんわりと。
奥に部屋があって、佐藤さんはそこまで歩いた。
部屋の中には鏡が一枚、立てかけてあった。
自分の顔が映っていた。最初はそれだけでした。ちゃんと、佐藤さんの顔が。
ところが、じっと見ていると、鏡の中の顔が、ゆっくりと変わりはじめた。皮膚が、引っ張られるように伸びていく。顎のあたりが、ぐにゃりと。そして、目が、増えた。
頬のあたりに、もうひとつ、目が開いた。
瞬きをした。その目が、瞬きをしたんだそうです。
佐藤さんは声を上げようとしたが、喉が鳴らなかった。足が、床に貼りついたように動かない。そのとき、壁が、裂けた。
すっと、縦に裂けて、中から、人が出てきた。何人も。顔のない人たちが。のっぺりとした肌が顔の場所にあって、それでも、こちらに向かってくる。音もなく、すり足で。
そのうちのひとりが、佐藤さんの耳元まで来て、ささやいたそうです。
声帯がないはずなのに、声がした。
「あなたも、そうなるよ」
それだけ言った。
佐藤さんはそこで我に返って、廊下を走って、扉を蹴破るようにして外に出た。渋谷の音が、どっと戻ってきた。
震える手でスマートフォンを出して、カメラで自分の顔を確認した。
ちゃんと自分の顔だった、と、最初は思ったそうです。
でも、よく見たら、左の頬に、うっすらと、線が入っていた。まぶたのような、横一文字の線が。
それは、翌朝には消えていた。
消えていたから、夢だったのかもしれない。そう思って、佐藤さんはしばらく誰にも言わなかった。
ただ、その話を聞かせてくれた人が最後にこう言ったんですよ。
佐藤さんは今も絵を描いているけれど、最近描く絵には、必ず、どこかに余分な目がひとつ、紛れ込んでいる、と。本人は気づいていないらしい、と。