AI カイダンボット 日本語 原作

目なき宿

AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

目なき宿

十月の終わり、柿本真一は南海電鉄の終着駅から一人でケーブルカーに乗った。平日の午後、乗客は自分だけだった。ケーブルカーは急勾配を這い上がり、窓の外の杉林が夕暮れの光を細く遮るたびに、車内が瞬く間に暗くなった。高野山に来るのは生まれて初めてのことで、真一はこの旅を「静養」と呼んでいたが、正確には逃避だった。三年間務めた出版社を辞め、婚約者に去られ、東京のワンルームに一人残されたこの男は、ある夜ふと路線図を眺めていて、地図の端に小さく記された「高野山」という文字を見つけ、ただそこへ行こうと思った。理由はなかった。理由がないことが、唯一の理由だった。

駅を出ると、空気が変わった。低地の湿った温みがそこにはなく、代わりに杉の脂と土の冷気が混ざり合った、奥深い匂いが満ちていた。奥之院へと続く道の両脇には、樹齢数百年の杉が並び、その幹は太すぎて人間の腕では抱えきれない。真一はバスに乗り、「千手院橋」で降りた。宿坊の名は「円寂院」といった。事前に電話で予約を入れたとき、受話器の向こうの男の声がひどく低く、何度か聞き返さなければならなかったことを、今になって思い出した。

円寂院は、宿場町のやや外れ、参道から一本奥に入った石畳の細道を進んだところにあった。門は古い木造で、表札の墨が雨に滲み、院の名前がかろうじて読める程度だった。くぐると、砂利を敷いた前庭があり、中央に水鉢が置かれていた。水鉢の中の水は、十月の末だというのに凍っていた。真一はそれを奇妙に思ったが、標高が高いのだから当然かもしれないと自分に言い聞かせた。玄関で声をかけると、六十がらみの男が出てきた。薄い唇、深く刻まれた皺、そして目——目だけが妙に光っていた。「柿本様でございます」と男は確認するでもなく述べ、真一が頷く前に草履を揃え始めた。

部屋は二階の突き当たりだった。八畳の和室で、床の間には掛け軸が一幅かかっていた。墨で描かれた人物画で、僧侶らしき人物が合掌している絵だったが、その顔には目がなかった。意図的に描かれていないのか、それとも墨が薄れて消えたのか、どちらとも判断がつかなかった。窓の外は杉林で、隣に建物はなく、夕方の光がもう杉の頭上にしか届いていなかった。真一は荷物を置き、持参した文庫本を読もうとしたが、文字が頭に入らなかった。なぜ自分はここに来たのだろう、とまた考えた。そのとき廊下を歩く音がした。ゆっくりと、一定の間隔で、足音が近づき、部屋の前で止まった。しかし誰も来なかった。

夕食は一階の食堂で、精進料理が出た。胡麻豆腐、焼き麩の煮物、香の物、それに白湯。他の宿泊客の姿はなかった。真一が「他にお客さんはいないんですか」と尋ねると、食事を運んできた女性が一瞬動きを止めた。三十代ほどに見えたが、肌が蒼白で、表情の変化が乏しかった。「今夜はお一人でございます」と彼女は言い、すぐに部屋を出た。真一は胡麻豆腐を口に運んだ。旨かった。だが食べ進めるうちに、食堂の隅から視線を感じ始めた。振り返っても誰もいない。ただ欄間の彫刻が——花と葉を模した透かし彫りが——なぜか顔に見えた。眼窩のくぼみ、口のような割れ目。真一は気のせいだと笑い、茶を飲み干した。

目なき宿

消灯は九時と言われていた。真一は八時過ぎに部屋へ戻り、布団に横になった。風は出ていなかった。それなのに、廊下の先のどこかで、何かが揺れる音がした。紙か、布か、とにかく薄いものが規則的に揺れる音。真一は耳を澄ませた。音は止まない。止まないまま、いつのまにか彼は眠っていた。

夢を見た。奥之院の参道を歩いていた。昼間のように見えたが、光は頭上から降りてこず、地面から滲み出ていた。両脇の石塔がそれぞれ違う名前を持ち、苔に埋もれながら真一の歩みに合わせて列をなしていた。参道の突き当たりに人影があった。近づくと僧侶だった。背を向けていた。真一が「すみません」と声をかけると、その人物はゆっくりと振り返った。顔があった——しかしその顔は、掛け軸の絵と同じだった。目がなかった。目のない顔が真一を見た。見ていた。何かを、確かに見ていた。真一は叫ぼうとしたが、声が出なかった。

目が覚めると、部屋は暗く、布団の中は汗ばんでいた。時刻を見ると、午前二時を過ぎていた。夢の余熱が体の中に残っていた。水を飲もうと廊下に出ようとして、真一は部屋の隅に気づいた。床の間の前、掛け軸の下の畳の上に、何かが置かれていた。眠る前にはなかったものだった。近づいてみると、それは小石だった。白い小石が、一個。特別な形でもなく、ただの川石のような、丸い小石だった。真一は管理人を呼ぼうかと思ったが、深夜に騒ぎ立てるのも気が引けた。小石を手に取ると、ひんやりと冷たかった。体温では温まらないほどに。彼は小石を窓の桟に置き、また横になったが、もう眠れなかった。

翌朝、奥之院へ参拝に行った。一の橋から弘法大師御廟まで約二キロ、参道の両脇には二十万基を超えると言われる石塔が立ち並ぶ。早朝の霧の中、その光景は現実離れしていた。石塔の列は霧の中に溶け込み、どこまでが続くのかわからなかった。真一は足を進めながら、自分が何かに見られているという感覚を拭えなかった。見られているというより——数えられている、という感覚の方が近かった。石塔の一つひとつが、通り過ぎる人間を黙って数えていく。真一は何番目か。そして次に来るときは、どちら側に立っているのか。

参道の中ほどに、他の石塔とは異なる一基があった。背が低く、苔が厚く、名前が完全に読めなかった。真一はなんとなく足を止め、その石塔を眺めた。年代物に違いなかった。長い時間が経ち、誰にも祀られないまま、ここに立っている。そのとき、石塔の後ろから声がした。低く、短い声だった。「おい」とも「あ」とも聞こえた。真一は素早く周囲を見回した。霧の中に、人影は見えなかった。足音も聞こえなかった。他に参拝者の気配もなかった。ただ、声だけがそこにあった。真一は早足で前へ進んだ。

宿に戻ると、昼食の前に大浴場で湯に浸かった。円寂院の浴場は古い造りで、木の湯船に一人が入れるほどの広さしかなかった。真一が入ると、浴場には蒸気が満ちており、鏡が白く曇っていた。湯に肩まで沈みながら、昨夜の小石のことを考えた。誰かが置いていったとすれば、部屋に入ったことになる。鍵はかけていた。それとも自分が眠れぬまま無意識に拾ってきたのだろうか。記憶の中に、その行為はない。じっと考えていると、曇った鏡に何かが映っているような気がした。真一は目を細めた。霧のような白さの中に、人の輪郭のようなものが見えた。立っている人間の、後ろ姿のような。真一は立ち上がり、鏡を手で拭った。何もなかった。ただの湯気だった。しかし拭った手の跡の中に、指紋ではない何かが残った。細い、均等な線の跡が、鏡の表面に引かれていた。まるで内側から爪で引っ掻いたような。

目なき宿

昼食の後、真一は管理人の老人に声をかけた。「昨夜、部屋に誰か入りましたか」と尋ねると、老人はしばらく真一の顔を見つめた。その目——昨日も気になった、あの奇妙に光る目——が、真一の顔のどこかを、顔ではないどこかを、見ているようだった。「当院には、夜中に廊下を歩く者はおりません」と老人は言った。真一は「では、部屋の床の間に石が置かれていたんですが」と続けた。老人の表情が動いた。動いた、というより——止まった。時計が止まるように、何かが凍りついた。「石、でございますか」と老人は繰り返した。「白い、丸い石です」「……お部屋にまだありますか」「窓の桟に置いてあります」老人は一度目を伏せ、また上げた。「承知しました。確認いたします」それだけ言って、老人は廊下の奥へ消えた。

その夜、真一はもう一泊することにした。本来は一泊の予定だったが、帰る理由もなかった。東京には何も待っていなかった。夕食の際、例の女性が湯を注ぎながら、「もう一泊なさるのですね」と言った。確認のような、しかしどこか含みのある言い方だった。「ええ」と真一が答えると、女性はわずかに頷き、「夜、廊下には出ないようになさってください」と言った。真一は「なぜですか」と聞いた。女性は答えなかった。答えないまま、立ち上がり、部屋を出た。廊下に足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。真一は箸を持ったまま、動けなかった。

二日目の夜は、一日目より深く冷えた。布団の中に入っても、足先が温まらなかった。真一は女性の言葉を思い出しながら、本を読もうとした。文庫本のページを繰っているうちに、何かが引っかかった。ページの間に、紙が一枚挟まっていた。自分で挟んだ覚えのない紙だった。折りたたまれたそれを開くと、墨で書かれた文字があった。経文のようにも見えたが、崩し字が激しく、真一には読めなかった。ただ一か所、はっきりと読める部分があった。それは名前だった。「柿本真一」と、そこに書かれていた。

真一は立ち上がり、紙を手に持ったまま廊下に出た。女性の言いつけを忘れていた。あるいは恐怖が理性を追い越していた。廊下は暗かった。非常灯の赤い光だけが等間隔に灯っており、廊下の端が見えなかった。真一が管理人室の方へ向かおうとしたとき、廊下の突き当たりに人が立っていた。老人だった。暗がりの中に立ち、こちらを向いていた。真一は「すみません、これを」と声をかけながら近づいた。老人は動かなかった。五メートル、三メートル、一メートル。真一が手を伸ばそうとした瞬間——老人の顔が、非常灯の赤い光の中で、はっきりと見えた。

目がなかった。

目なき宿

眼窩の部分が、ただ暗かった。穴のように、深く。目玉がないのではなく、目があるべき場所に、闇がそのままはまり込んでいるようだった。老人の口が動いた。声は出なかった。しかし唇の動きを真一は読んだ。あるいは読んだと思った。「戻りなさい」とも「来てはいけない」とも、違う何か。真一は後ずさった。廊下の床板が軋んだ。老人は動かなかった。真一は走った。部屋に飛び込み、鍵をかけ、布団の中に潜り込んだ。紙はまだ手の中にあった。

夜が明けるまで、真一は布団から出なかった。外が白み始めると、鳥の声が聞こえた。杉の梢を渡る風の音が聞こえた。普通の朝の音だった。真一は震える手で荷物をまとめ、チェックアウトの時間より三時間早く、一階へ降りた。玄関には管理人の老人が立っていた。昨夜とは別人のように、穏やかな顔で、目があった。当然のように目があった。「お早いお出発で」と老人は言い、請求書を差し出した。真一は黙って支払い、草履を履いた。「昨夜、廊下で……」と言いかけると、老人は「高野山では、夜中に奇妙なものを見られるお客様がたまにいらっしゃいます」と静かに言った。「標高が高く、空気が薄い。それに加え、長い歴史のある土地ですから」真一は頷いた。それ以上は聞かなかった。聞けなかった。

石畳を踏んで門をくぐるとき、真一は振り返った。円寂院の建物は朝の光の中に静かに立っていた。二階の窓——自分が泊まった部屋の窓——のところに、何かがあった。窓の桟に置いてきた白い小石が、外側から見えていた。しかしその隣に、もう一個、白い石があった。昨夜置いてきたのは一個だけだった。真一はもう一度だけ目を凝らした。二個の石は確かにそこにあった。風が吹き、杉の梢がざわめいた。真一は参道へ向かった。

バスを待つ間、真一はポケットに手を入れた。指先に何かが触れた。冷たい、丸いもの。取り出すと、白い小石だった。窓の桟に置いてきたはずの、あの石だった。真一は長い間、その石を掌の上で見つめた。石は体温を吸わなかった。どれだけ握っても、ひんやりとしたままだった。バスが来た。真一は乗り込み、窓の外を見た。参道の杉が流れていった。奥之院の方角へ目を向けると、朝霧の中に石塔の列が見えた。その列の端の方に、人影があった。立っているだけの、ただの人影だった。バスはカーブを曲がり、人影は見えなくなった。

ケーブルカーで山を降り、電車に乗り、大阪で新幹線に乗り換えた。車内でようやく深く息をついたとき、真一は自分が何かを忘れていると気づいた。紙だった。名前が書かれたあの紙を、部屋に置いてきた。それとも夢だったか。しかし石は確かに手の中にある。真一はスマートフォンを取り出し、円寂院の電話番号を調べようとした。検索をかけた。「円寂院」「高野山」。結果は出た。しかし表示されたのは、廃院の記録だった。昭和四十三年に閉院、建物は現存せず、と書かれていた。真一は画面を見つめた。画面の中の文字は動かなかった。新幹線は東京へ向けて走り続け、窓の外の景色が夕暮れの中に溶けていった。掌の中の石だけが、まだ冷たかった。

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