← 怪談小説
AI カイダンボット 日本語 原作

やぐらの声

AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

やぐらの声

八月の終わりに、田中佳奈は鎌倉へ引っ越してきた。

東京の編集プロダクションを辞めて、フリーランスのライターとして食べていくと決めたのが春のことで、それから半年、ようやく落ち着いた仕事の流れができてきた頃に、大学の同期だった友人の坂本が「鎌倉に安い物件がある」と教えてくれた。やぐらの谷戸と呼ばれる一帯の、細い路地をさらに奥へ入ったところにある古い平屋だった。谷戸というのは、丘陵が浸食されてできた谷のことで、鎌倉には大小さまざまな谷戸が刻まれている。そのひとつ、やぐらの谷戸は名の通り、切り立った岩壁に鎌倉時代の横穴墓——やぐら——が穿たれた場所だった。

不動産屋の男は、谷戸の入り口で佳奈を出迎えた。五十代くらいの、首の短い男で、愛想はよかったが、物件の説明をするあいだじゅう、なぜか岩壁の方を見なかった。

「夏は涼しいですよ」と男は言った。「谷の底ですから、風が通らないこともありますが、石が冷えてますから」

佳奈は岩壁を見上げた。三メートルほどの高さに、横穴が三つ並んでいた。入り口はそれぞれ四角く整えられていて、内部は暗くて見えなかった。苔と染みが複雑な模様をつくっていて、まるで何かの顔のようにも見えたが、佳奈はすぐに目をそらした。

家賃は安かった。それが決め手だった。

平屋は二間続きの和室と、狭い台所と、タイル張りの浴室からなっていた。縁側の向こうは小さな庭で、庭の奥が直接、岩壁の根元に続いていた。岩壁からは常に微かな湿り気が漂ってきて、真夏でも庭の石には薄い苔が張り付いていた。佳奈はその湿り気を、はじめのうちは好ましく感じた。東京の乾いたアパートとは違う、古い土地の息吹のようなものとして。

引っ越してから二週間、佳奈は仕事に集中した。締め切りがいくつか重なっていたこともあって、外に出るのは食料を買いに行く時だけで、日中は縁側に机を出してパソコンに向かい、夜は早めに寝た。仕事は順調だった。静かな環境は、思っていた以上に集中力を高めてくれた。谷戸の奥は観光客も入ってこない。聞こえるのは風と、時折、遠くの踏切の音だけだった。

異変に気づいたのは、九月の第二週に入った頃だった。

最初は音だった。夜中の二時か三時頃、庭の方から、土を踏むような音がした。佳奈は目を覚まし、しばらく暗闇の中で息を止めて聞いていた。猫か、あるいは何か小さな動物だろうと思った。鎌倉の谷戸にはタヌキが出ることもあると聞いていた。縁側の雨戸の隙間から外を見ようとしたが、鍵を外す音を立てるのが、理由もなく憚られた。結局そのまま布団に戻り、また眠った。

次の夜も、同じ時間に同じ音がした。

三日目の夜、佳奈は懐中電灯を持って縁側に出た。庭は無人だった。石の上に苔が光っていて、岩壁はただ黒くそびえていた。やぐらの入り口は暗く、何も見えなかった。風はなかった。佳奈が懐中電灯の光を岩壁に向けると、三つの横穴が照らし出された。その瞬間、真ん中の穴の奥で、何かが動いたような気がした。

気がした、というだけだ。佳奈は自分にそう言い聞かせて、家に入り、鍵をかけた。

翌朝、坂本に電話した。坂本は笑って「やぐらの谷戸だからな、タヌキかアナグマだろう」と言い、それから少し間を置いて「まあ、あの辺は昔から人が多く埋まってるから、気になるなら地蔵でも置いとけ」と付け加えた。佳奈は「埋まってる」という言葉が、妙に具体的な重さを持って耳に残るのを感じた。

やぐらは中世の納骨施設だ。岩を刳り抜いた横穴の内部に、骨壺や五輪塔が安置されている。佳奈はその事実を、引っ越す前から知っていた。知っていたが、昼間に眺めるぶんには、むしろ歴史的な風情として受け取れていた。それが夜になると、同じ事実がまったく異なる質感を帯びてくる。

十月に入ると、朝晩が急に冷えてきた。

谷戸の底は、日当たりが悪い。午前中の数時間しか直射日光が差し込まず、それも岩壁の上部をかすめるだけで、庭には届かなかった。縁側に出ても、石が冷たかった。仕事の合間に湯を沸かして温まるのが習慣になった。その頃から、佳奈は夢を見るようになった。

夢の中では、いつも雨が降っていた。谷戸の底で、佳奈はひとり立っていた。岩壁を見上げると、やぐらの入り口がいくつもあった。実際より多く、十も二十もあるように見えた。そして、それぞれの入り口の縁に、誰かが座っていた。顔は見えなかった。ただ、膝を抱えて座っているシルエットだけが、雨の中に浮かんでいた。佳奈が何か言おうとすると、全員が同時に首をかしげた。同じ角度で、同じ方向に。その動きが、あまりにも揃いすぎていて、佳奈はいつもそこで目を覚ました。

夢は繰り返された。細部が少しずつ変わった。雨が霧になった夜もあった。シルエットの数が増えた夜もあった。ある夜、そのひとつが立ち上がり、岩壁を降り始めた。垂直の岩肌を、まるで重力が逆向きであるかのように、頭を下にして、ゆっくりと。佳奈はその夢から覚めた時、自分が声を出していたことに気づいた。喉が痛かった。

坂本に話すと、坂本は「ストレスじゃないか」と言った。「フリーランスになったばかりで、慣れない土地で、一人暮らしだろ。そういう時期に変な夢を見るのは普通だ」

佳奈もそう思いたかった。

だが、十月の中頃に起きたことは、夢では説明がつかなかった。

やぐらの声

その日、佳奈は昼過ぎまで仕事をして、気晴らしに近くの鶴岡八幡宮まで歩いた。帰り道、谷戸の入り口まで戻ってきた時、前から誰かが歩いてきた。六十代くらいの女性で、白い割烹着を着ていた。谷戸の奥には民家が数軒あり、そのどこかの住人だろうと佳奈は思った。女性は佳奈の顔を見て、足を止めた。

「ここに住んでるの」と女性は言った。質問ではなく、確認するような言い方だった。

「はい、奥の平屋に」

女性はしばらく佳奈の顔を見た。その目が、何かを測っているように見えた。

「夜、外に出ちゃだめよ」と女性は言った。「特に、岩壁の方に近づいちゃだめ」

「どうしてですか」

女性は答えなかった。ただ、佳奈の肩の少し後ろ、岩壁の方角を見て、それから視線を戻した。「呼ばれても、返事しちゃだめよ」と繰り返すように言って、そのまま歩いていった。

佳奈は女性の背中を見送ってから、岩壁を振り返った。昼間のやぐらは、ただの石の穴だった。湿った石の匂いがした。何もいなかった。

その夜、佳奈は眠れなかった。

夜中の一時を過ぎた頃、庭から音がした。今度は土を踏む音ではなく、もっと低い、石がこすれるような音だった。佳奈は布団の中で体を固くして聞いていた。音は続いた。一定のリズムで、近づいてくるわけでも遠ざかるわけでもなく、ただそこにあった。

そして、声が聞こえた。

はじめは何を言っているのかわからなかった。単語ではなく、音の連なりのようなものだった。しかし耳を澄ますにつれて、それが名前を呼んでいることがわかった。「かな」という音が、繰り返されていた。「かな、かな、かな」。低く、抑揚なく、息を吐くように。

佳奈はその声を聞きながら、奇妙なことに気づいた。声は、外から聞こえているのではなかった。あるいは、外から聞こえているのだが、まるで頭の内側で鳴っているように感じられた。耳ではなく、骨が振動しているような感触。

佳奈は立ち上がり、台所に行き、水を飲んだ。それだけのことで、声は聞こえなくなった。

翌朝、庭に出ると、岩壁の根元に足跡のようなものがあった。正確には足跡ではなく、苔が押しつぶされた跡が、不規則に続いていた。人のものとも動物のものとも判断できなかった。佳奈は写真を撮った。それから、縁側の鍵を改めて確認した。

問題は、その夜も翌夜も、声が戻ってきたことだ。

「かな、かな」という繰り返しが、毎夜、同じ時間に始まった。佳奈は最初の夜に台所へ逃げたように、今度は逃げなかった。布団の中で、声を聞いた。そうすることで、声の性質が少しずつわかってきた。声は複数だった。重なり合っていて、個別には聞き取れないのだが、確かに一人ではなかった。そして、声はどこか悲しそうだった、というよりも、悲しみとは違う何か——何かを求めているような、あるいは何かを待っているような——そういう質のものだった。

十月の二十日に、佳奈は坂本を鎌倉に呼んだ。

坂本は昼間に来て、家を見て回り、庭に出て、岩壁を眺め、やぐらの入り口に懐中電灯を向けた。「普通の石穴だな」と坂本は言った。「中に小さい五輪塔が残ってる。教科書で見るやつだ」

二人で夕食を食べ、坂本は終電で帰った。その夜は声がなかった。

次の夜も、声はなかった。

やぐらの声

佳奈はほっとした。坂本が来たことで、何かが変わったのだろうかと思った。あるいは、自分が誰かと話すことで気持ちが落ち着いて、幻聴のようなものが収まったのだろうと。

しかし三日後の夜、声は戻ってきた。今度は以前より大きかった。

そして今度は、名前だけではなかった。

「かな、でてきて」

佳奈は息を止めた。

「かな、もうすぐよ」

声は低く、感情がなかった。それがかえって恐ろしかった。叫んでいるわけでも、懇願しているわけでもなく、ただ事実を告げるように言っていた。「もうすぐ」とは何がもうすぐなのか、佳奈にはわからなかった。わかりたくもなかった。

佳奈は電気をつけた。声は消えた。

電気をつけたまま夜を過ごした。朝になって、佳奈は引っ越すことを決めた。

だが、荷物をまとめながら、佳奈は奇妙な感覚に気づいた。この家に越してきてから、自分が一度も体調を崩していないことに。東京にいた頃は季節の変わり目に必ず風邪をひいていたのに、ここでは全く体が弱らなかった。仕事の調子も、実は引っ越してからずっと良かった。締め切りを破ったことは一度もなく、依頼も増えていた。

それは関係ない、と佳奈は思った。

不動産屋に電話して、退去の意向を伝えた。男は驚いた様子もなく「わかりました」と言い、それから少し間を置いて「前の住人の方も、同じ季節に出て行かれましたよ」と言った。

「前の人も?」

「ええ。秋になると、出て行かれる方が多くて」

「それは……なぜですか」

男はまた間を置いた。電話の向こうで、何かが動く気配があった。「さあ」と男は言った。「住んでみないとわからないことも、ありますからね」

引っ越しの日取りを決めて、電話を切った。

その夜、佳奈は最後にもう一度、縁側に出ることにした。荷物の大半は段ボールに詰めていたが、引っ越しは二日後だった。どういう気持ちからそうしたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、去る前に、何かを確かめたいような気がした。

外は曇っていて、月が見えなかった。岩壁は暗く、やぐらの入り口は三つとも黒い口を開けていた。佳奈は懐中電灯を持たずに縁側に立った。庭の石は濡れていた。雨は降っていないのに、岩壁から染み出す水分で常に湿っているのだった。

しばらく立っていると、やぐらの真ん中の入り口の奥で、何かが光った。

光というより、明るさの変化だった。暗闇の中で、何かがわずかに白くなった。人の顔ほどの大きさで、そこに浮かんでいた。

佳奈は動けなかった。

やぐらの声

白いものはゆっくりと動いた。入り口の縁まで近づいてきた。そこで佳奈は、それが顔であることを理解した。目も鼻もはっきりしなかったが、顔の輪郭があった。そして、その顔が、こちらを見ていた。

「かな」と声がした。

今度は頭の中からではなく、確かに外から、岩壁の方から聞こえた。

佳奈は返事をしなかった。女性に言われたことを思い出したからではなく、声が出なかったのだ。

「かな、おいで」

白い顔は動かなかった。ただそこにあった。

佳奈は一歩、後退りした。縁側の木が軋んだ。その音で何かが解けたように、佳奈は体を回して家の中に戻り、縁側の鍵をかけ、雨戸を閉め、部屋の電気をすべてつけた。

白い顔のことを、佳奈はその後も何度も思い返した。引っ越した後も、新しいアパートの天井を見ながら、あれが何だったのかを考えた。動物の目が光ったのかもしれない。岩の染みが顔に見えたのかもしれない。声は幻聴だったかもしれない。

そのどれもが、十分にありえる説明だった。

しかし佳奈が眠れない夜に繰り返し思い出すのは、白い顔のことではなかった。

引っ越しの朝、段ボールを車に運んでいる時に、ふと庭を見た。岩壁の根元に、小さな石が一つ置いてあった。引っ越してきた日にはなかったはずのものだった。丸くて白い、握りこぶしほどの石で、表面に何かが刻まれていた。よく見ると、それは文字ではなく、人の顔だった。素朴な、単純な線で描かれた顔。目と鼻と口だけの、表情のない顔。

佳奈はその石を、持って行かなかった。

新しい家に落ち着いて三週間が経った頃、佳奈は鎌倉の知人から連絡をもらった。やぐらの谷戸の平屋に、また新しい住人が入ったという話だった。若い女性で、ライターの仕事をしているらしいと、知人は何気なく言った。

佳奈はその言葉を聞いて、電話口でしばらく何も言えなかった。

ライターの女性が、今夜もあの縁側に立っているかもしれない。あの岩壁を眺めているかもしれない。そして夜中に、自分の名前を呼ぶ声を聞くかもしれない。

佳奈はその女性に、何も告げることができなかった。告げるべき言葉が見つからなかった。あの家から出て行ったことで、自分は何かから逃れたのだろうか。あるいは、ただ、次の誰かに何かを渡しただけなのだろうか。

あの石は、今も岩壁の根元にあるのだろうか。

それとも、もうすでに、別の誰かの手に渡っているのだろうか。

佳奈は電話を切った後、自分の手のひらを見た。

気づいていなかったが、ライターという言葉を聞いた瞬間から、右手の人差し指が、机の表面を叩き続けていた。一定のリズムで。抑揚なく。まるで、誰かの名前を刻むように。

シェア
Kaidan 怪談小説 読み物として味わう創作怪談。
見る