裏路地の手形
AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

谷中の路地裏を歩くとき、人はいつも少しだけ時代の外側に踏み出す気がする。石畳の継ぎ目から生える雑草、古い木造家屋の軒先に吊るされた風鈴、どこかの家の台所から流れてくる出汁の匂い。東京の真ん中にありながら、谷中だけは昭和の皮膚をまだ脱ぎ捨てていない。写真家の椎名朔は、その皮膚の質感が好きだった。いや、正確には好きだったのだと、今ならばそう言うしかない。
朔が谷中に部屋を借りたのは、三十二歳の秋のことだった。出版社を辞め、フリーランスの写真家として独立して半年。仕事は細く、貯金は減り続けていたが、谷根千と呼ばれるあの界隈の路地を毎朝歩けることだけが、彼の生活に確かな重みを与えていた。借りたのは谷中霊園の西側、へび道から少し入ったところにある木造アパートの二階だった。大家の老婆——篠田ふみという名の、背の低い白髪の女性——は、契約の日に一度だけこう言った。「夜遅くに、裏の路地には入らないでね」。朔はその言葉を、老人特有の気まぐれな注意として聞き流した。
アパートの裏手には、確かに細い路地があった。地図にも載っていない、人ひとりがやっと通れる幅の通路で、両側を土壁と板塀に挟まれていた。板塀はところどころ腐り、土壁には黒いシミが染み出ていた。朔はその路地を昼間に何度か歩いたことがある。十メートルほど進むと、左に折れ、また二十メートルほどで突き当たりになる。突き当たりの先は、古い石造りの塀に閉ざされていた。塀の上部には苔が生え、触れると指先に湿った粉が残った。何の変哲もない袋小路だった。少なくとも、昼間は。
朔が路地の異変に初めて気づいたのは、十一月の初旬、木枯らしが吹き始めた週のことだった。その夜、締め切りに追われて深夜の二時まで作業をしていた彼は、気分転換にと外へ出た。谷中霊園の方向へ歩こうとしたが、ふと思い立って裏の路地へ向かった。昼間に何度も歩いた道だから、夜でも怖くはないと思っていた。路地に入ると、街灯のない暗がりが広がった。スマートフォンのライトを点けようとしたとき、路地の奥の方に——折れ曲がった先の、見えないはずの場所に——かすかな光があることに気づいた。橙色の、揺れる光。蝋燭か、あるいは提灯のような光だった。
朔は立ち止まった。折れ角の先に民家はなかったはずだ。突き当たりの塀があるだけで、灯りの入る隙間などなかった。それでも光は確かにそこにあり、ゆらゆらと揺れていた。好奇心が恐怖を上回った。写真家として、その光を撮りたいという衝動が体を動かした。角を曲がった瞬間、光は消えた。突き当たりの塀だけが、暗闇の中に白く浮かんでいた。朔はシャッターを切った。後でモニターで確認すると、塀の表面に何かが映っていた。人の手のひら大の、黒いシミ——いや、手形のように見える何かが、塀の中ほどに一つ、くっきりと浮かんでいた。昼間にはなかったものだった。
翌朝、塀を確認しに行った。手形のようなシミは確かにそこにあった。しかし昼の光の下で見ると、それはただの染みに過ぎず、偶然の形が人の手のように見えるだけのものだった、と自分に言い聞かせた。だが帰り際、ふと塀の根元に目を向けると、小さな供え物があることに気づいた。塩を盛った小皿と、枯れかけた榊の枝。誰かが、つい最近ここに来たことを示していた。朔は篠田老婆に聞こうと思ったが、彼女は朝から不在で、その日は会えなかった。
その夜から、朔は夢を見るようになった。夢の中では、常に谷中の路地を歩いていた。見知った道なのに、どこか形が違う。軒が低く、石畳の継ぎ目が深く、空が狭い。そして必ず、誰かがすぐ後ろを歩いている気配がある。振り向こうとするたびに、足が重くなり、首が回らなくなる。後ろの気配は近づいてくる。足音ではない——足音は全くしない。ただ、空気の圧力が背中に迫ってくる感覚だけがある。そして夢はいつも同じ場所で終わった。裏の路地の突き当たり。塀の前。そこで目が覚める。毎朝、首の後ろが冷たく湿っていた。
一週間が経った。朔は睡眠不足と、ぼんやりとした不安の蓄積で、日中も集中力を欠くようになっていた。仕事の撮影でカメラを構えても、ファインダーの隅に余計なものが見えるような気がした。人の輪郭が一つ多い、とか、路地の奥に動くものがある、とか。確認するといつも何もなかった。朔は自分が疲れているのだと思った。谷中を歩く時間を減らし、早寝を心がけた。それでも夢は来た。塀は来た。背中の圧力は来た。
ある夜、朔は夢の中で初めて振り向くことができた。長い間、夢のたびに足が動かず首が回らなかったのに、その夜だけは、するりと体が動いた。後ろには何もいなかった。路地は空だった。ほっとした瞬間、前方——つまり塀の方——から、低い声が聞こえた。声というよりは、音だった。子供が喉の奥で唸るような、湿った音。朔は塀を見た。手形のシミが増えていた。一つではなく、五つ、六つ、七つ。大小さまざまな手形が塀一面に広がっていた。そして塀の中央に、一筋の亀裂が走っていた。亀裂の奥は暗く、そこから空気が漏れ出しているのが分かった。腐葉土と、線香の燃えカスと、もう一つ、朔には名前をつけられない何かの匂いが混じった空気が。
目が覚めると、夜中の三時だった。朔はベッドに起き上がり、しばらくの間、暗い天井を見つめた。窓の外から、音がした。かすかな、乾いた音。石か木が、何かに叩かれているような音。一定のリズムではなく、不規則に、思い出したように繰り返される音。裏の路地の方角だった。朔は立ち上がり、窓に近づいた。カーテンを少し開けると、路地の入口が見えた。街灯の届かない暗がりの中に、何かが立っていた。
人の形をしていた。身長は低く、子供ほどの大きさだった。しかし頭の形が、子供のそれではなかった。頭が大きすぎ、首が細すぎ、肩の位置が妙だった。それは動かなかった。ただそこに立って——いや、立っているという動詞が正確かどうかも分からない——存在していた。朔は息を止めた。カメラを取ろうか、と一瞬思ったが、体が動かなかった。どれくらいの時間が経ったか分からない。やがてそれは、ゆっくりと路地の奥へ向かって動き始めた。足音はなかった。滑るように、あるいは浮くように、暗がりの中へ消えていった。朔は夜明けまで、窓から離れることができなかった。

翌朝、朔はようやく篠田老婆と話すことができた。老婆はアパートの前の小さな庭で、枯れた植木鉢の土をいじっていた。朔が昨夜見たものを話すと、老婆は手を止めた。しばらく黙っていた後、「見てしまいましたか」とだけ言った。その言葉の重さに、朔は背筋が冷えた。見てしまった、という言い方は、見ることが取り返しのつかない何かであることを含意していた。
篠田老婆が語ったことは、こうだった。あの裏の路地は、戦前から存在している。かつてその路地の突き当たりには、小さな祠があった。谷中の土地神ではなく、もっと古い、名前のない何かを祀った祠。戦後の混乱期に祠は壊され、塀が作られた。土地を買った者が、供養もせずに。それ以来、あの塀の向こうから何かが染み出してくる。夜に路地に入った者は、それを見る。見た者は、夢を見る。夢を見続けた者は——老婆はここで言葉を切った。「出ていった人もいるし、出ていけなかった人もいる」と、静かに続けた。出ていけなかった、の意味を朔は尋ねなかった。尋ねる必要がなかった。
朔はその日のうちに引っ越しを決めた。一週間以内には荷物をまとめようと思った。だが、問題が起きた。撮影した写真を整理していると、これまでの全ての写真に、何かが写っていることに気づいたのだ。谷中での仕事の写真だけではない。先月、別の区で撮影した写真にも。一ヶ月前に撮った港区の建物の写真にも。すべての写真の、背景の奥の奥に、小さく、頭の大きい影が写っていた。朔は写真を一枚一枚確認した。引っ越しを決める前の写真にも、決めた後に撮った一枚にも、等しく写っていた。ということは。
ということは、それは路地の外にも来ているのか。あるいは最初から、路地の外にもいたのか。
朔は篠田老婆に再び会いに行ったが、老婆の部屋の前に来ると、鍵がかかっていた。ポストに折りたたんだ紙が一枚挟まっていた。朔宛てではなかった。誰かに宛てた手紙のようだったが、表には何も書かれていなかった。開けると、一行だけ書いてあった。篠田老婆の細い字で。「あの子は一度見た人を、もう忘れません」。
朔は部屋に戻り、荷物を詰め始めた。できるだけ早く出ようと、段ボールに無造作に荷物を押し込んだ。カメラ、レンズ、パソコン、衣類。その作業の途中で、ふと気がついた。自分が谷中に来てから撮ったすべての写真を振り返ると、あの影が最初から写っていた写真が一枚だけ、他と異なっていた。引っ越してきた初日、大家の篠田老婆と契約書を交わした後、部屋の窓から路地を撮った一枚。その写真の中で、影は路地の入口ではなく、もっと近くにいた。路地の入口と、アパートの階段の間。つまり、もうすでにアパートの敷地の中にいた。
その写真を撮ったのは、十一月ではない。朔が谷中に越してきた、九月の、最初の日だった。
引っ越しの日、朔は荷物をすべてまとめ、新しいアパートの鍵を手に持って、外へ出た。谷中の路地には、秋の終わりの穏やかな光が落ちていた。石畳に枯れ葉が舞い、どこかの家の軒先で風鈴が鳴った。何も変わらない、美しい谷中の朝だった。朔は振り返らずに歩き始めた。新しいアパートは荒川区の、谷中から十分ほど離れた場所だった。電車に乗り、新しい部屋に荷物を運び込み、窓を開けた。
見知らぬ街の風景が広がっていた。整然とした住宅街、幅広の道路、コンビニエンスストアの看板。谷中とは全く違う、無機質な東京の顔。朔は深く息を吸った。ようやく終わった、と思った。
その夜、朔は新しい部屋で、初めてぐっすりと眠れた。夢を見なかった。塀も来なかった。背中の圧力も来なかった。翌朝、目覚めた朔は清々しい気持ちで窓を開け、コーヒーを淹れ、カメラを手に取った。新しい場所の、新しい光を撮ろうと思った。ファインダーを覗いた。窓の外の風景が、きれいに収まった。朔はシャッターを切り、モニターで確認した。
写っていた。
窓の外の風景の、一番奥の、ほとんど見えないほどの遠景の中に。頭の大きい、首の細い、肩の位置がおかしい小さな影が。

朔はカメラを置いた。コーヒーカップを持ったまま、しばらく動けなかった。やがて、もう一度ファインダーを覗いた。今度は窓の外ではなく、部屋の中の、何もない壁を向けた。シャッターを切った。モニターを見た。
白い壁だけが映っていた。影はなかった。
朔は息を吐いた。安堵した。窓の外はただの遠景の見間違いだった、光の加減か、埃かもしれない、と自分に言い聞かせた。もう一度、窓の外にカメラを向けた。今度はゆっくりとピントを合わせ、丁寧にシャッターを切った。モニターを確認した。
影は、さっきより少し、手前にいた。
朔がその写真を見つめていると、ふいに部屋の中が静かになった気がした。外の車の音も、近所の生活音も、すべてが遠のいていくような、奇妙な静けさ。コーヒーカップの中の液体が、揺れていた。朔は自分の手が震えていることに気づいた。
窓の外を、直接、目で見た。
何もいなかった。
朔はもう一度、カメラのモニターを見た。影はもうそこにはいなかった。写真の中の遠景には、ただ建物と空だけが写っていた。まるで最初から何も写っていなかったかのように。
朔はしばらくの間、カメラを持ったまま立っていた。やがて、ゆっくりとソファに座った。コーヒーを一口飲んだ。冷めていた。窓の外では、谷中から離れた街の平凡な朝が続いていた。

その日の午後、朔は何気なく、引っ越し前に谷中で撮った全写真をもう一度確認した。どの写真にも、影は写っていた。しかし今朝撮った写真には、もう写っていなかった。
おかしい、と思った。
もう一度、窓の外を撮った。写っていなかった。
もう一度。写っていなかった。
もう一度。
朔はその日の夜遅くまで、繰り返し繰り返しシャッターを切り続けた。どの写真にも、影は写らなかった。谷中を離れたことで、何かが切れたのかもしれない。そう思い始めたとき、ふと、今朝の最初の一枚が気になった。影が写っていたあの一枚。そしてその次の一枚では影がもう少し手前にいた、あの二枚。
朔は二枚を並べて見た。一枚目の影の位置と、二枚目の影の位置を比較した。
影は確かに近づいていた。そしてその後の写真には写っていなかった。
近づいた先が、どこなのか。
朔は顔を上げ、部屋の中を見回した。白い壁。段ボール箱。コーヒーカップ。見慣れた荷物たち。何もいなかった。
ただ、部屋の隅の、段ボール箱の影の中が、少しだけ暗すぎる気がした。照明の位置を考えると、そこまで暗くなるはずがなかった。朔はその暗がりを見つめた。暗がりは動かなかった。何も出てこなかった。
しかし朔は、その夜、その段ボール箱に背を向けて眠ることができなかった。そしてその夜もまた、夢を見なかった。夢を見ないことが、もはや安心の証拠ではなく、別の何かの証拠であるような気がしながら、朔は夜明けまで目を開けていた。
窓の外では、谷中から遠く離れた、名前も知らない街の夜が、静かに続いていた。
