AI カイダンボット 日本語 原作

格子の奥

AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

格子の奥

七月の終わり、中村芹奈は金沢駅のバスターミナルに降り立った。蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、北陸の夏特有のぼんやりとした湿度が、駅のガラス張りの天井の下でさえ感じられた。芹奈は東京の出版社に勤めるフリーランスのライターで、伝統的な花街を題材にした連載記事の取材のために、この街を訪れていた。三泊四日の予定だった。荷物は小さなキャリーバッグひとつ。宿は東茶屋街に近い、古い町屋を改装したゲストハウスを予約してあった。

バスに揺られながら、車窓の外を流れる景色を眺めた。犀川の橋を渡り、香林坊の交差点を過ぎ、やがてバスは橋場町の停留所で止まった。地図アプリを頼りに歩き始めると、浅野川の土手沿いに柳の木が並び、川面に夕方の光がやわらかく砕けていた。五分も歩けば、東茶屋街の入り口に差し掛かった。石畳の細い路地に、格子戸を並べた二階建ての町屋が左右に連なっている。観光客の姿はまだちらほらとあったが、日が傾きはじめた時刻のせいか、人影はまばらで、町全体がどこか息を潜めているように見えた。

格子の奥の薄暗さが、芹奈は好きだった。あの均等に並んだ縦の木の線は、外の世界を切り取るためでなく、内側の世界を守るためにあるのだと、誰かに教わった気がした。ゲストハウス「橘屋」は茶屋街の北端に近い路地の角にあり、古い格子戸の脇に小さな木の看板が下がっているだけだった。インターフォンを押すと、しばらくして六十代とおぼしき女性が顔を出した。白髪を後ろでまとめ、藍染めの割烹着をつけていた。名を聞くと、おかみさんは「大野と申します」と短く言い、奥へ案内した。

部屋は二階の奥、三畳ほどの小さな和室で、窓の外に隣家の瓦屋根と、その向こうに浅野川の水面が細く光っていた。押し入れに布団が畳まれ、文机がひとつ、行灯型の間接照明がひとつ。必要最低限のものしかない部屋だったが、清潔で、古い木の香りが満ちていた。芹奈は荷物を解き、ノートパソコンを文机に置いた。翌日から取材を始める予定だった。その夜は近くの居酒屋で能登の地魚と地酒を一杯だけ飲み、早めに宿へ戻った。眠りにつく前、格子窓から石畳の路地を見下ろすと、街灯の薄い光の中に誰かが立っているような気がした。見間違いだ、と思った。もう一度目を向けると、そこには何もなかった。

翌朝、芹奈は早起きして茶屋街を歩いた。観光客が来る前の朝の時間は、この街の本当の顔を見せてくれる。石畳は夜露で湿り、格子戸の前を地元の老人がゆっくりと歩いている。どこかの家から出汁の香りが漏れ出し、遠くで浅野川を渡る風が柳の枝を揺らしていた。芹奈はICレコーダーとカメラを持ち、路地を歩きながら建物の意匠や石畳のひびを記録した。格子戸の木目の色が、それぞれ微妙に違うことに気がついた。長い年月をかけて、雨と光と人の手が、それぞれの格子に固有の色をつけていた。

取材の三日目、芹奈は茶屋街の南側にある小さな資料館を訪れた。受付には七十代の男性がひとりいて、芹奈が記者だと話すと、快く古い写真や文書を見せてくれた。明治から昭和にかけての茶屋街の写真が、茶色がかったアルバムに収められていた。芸妓たちの集合写真、宴の写真、祭りの写真。芹奈はページをめくりながら、ある一枚で手を止めた。昭和初期と思われる、茶屋の二階の写真だった。欄干に白い着物を着た女が寄りかかり、こちらを向いている。顔は細く、目が異様に大きく、笑っているのか泣いているのか、表情がどちらとも読めなかった。

格子の奥

「この女性は誰ですか」と芹奈が尋ねると、男性は少し間をおいてから「さあ、名前は残っておりません」と言った。「ただ、この写真は何度か寄贈された後に紛失しているはずなのです。どこから出てきたのか」と首を傾げた。芹奈はその写真をスマートフォンで撮影しようとしたが、男性がやんわりと手で制した。「撮影はご遠慮いただいております」と言いながら、その視線は写真に釘付けになっていた。芹奈はアルバムを閉じ、資料館を後にした。外に出ると、昼の日差しは強かったが、背中に冷たいものが走った。

その夜、宿に戻った芹奈は文机に向かい、その日の取材メモを打ち込んでいた。窓の外に虫の声が聞こえ、遠くで川の水音がした。午前零時を過ぎた頃、廊下に物音がした。板張りの廊下が軋む音だった。古い建物だから、夜になると木が収縮する。そういう音だ、と思った。だが音は一定のリズムで続いた。ゆっくりと、一歩ずつ近づいてくるような間隔で。芹奈は耳を澄ませた。音は部屋の前で止まった。ふすまの向こうに誰かが立っている気配がした。息をのんだまま、芹奈はふすまを見つめた。紙の向こうに、影はなかった。やがて音はまた遠ざかり、聞こえなくなった。

翌朝、おかみさんの大野に昨夜の音のことを話すと、「古い家ですから、夜は鳴りますよ」と笑った。その笑い方が、どこかぎこちなかった。芹奈は気にしないようにしながら、「この宿はいつからあるんですか」と聞いた。大野はしばらく黙ってから「もともとは茶屋でした。明治の終わりごろから」と言い、それ以上は話さなかった。朝食の膳が運ばれてきたとき、芹奈は膳の上に小さな紙片があることに気がついた。折り畳まれた白い紙で、名前も何も書いていなかった。開くと、中に毛筆で一行だけ書かれていた。「二階の奥の部屋には上がらないでください」

誰が入れたのか分からなかった。ゲストハウスには芹奈ともうひとり、中年の男性客がいるはずだったが、会ったことはなかった。大野に紙片を見せると、おかみさんは顔色を変えた。「これは私が書いたものではありません」と言い、そのまま紙を持って奥へ行ってしまった。芹奈は朝食を済ませ、今日の取材に出た。だが午後になっても、あの紙片の一行が頭から離れなかった。「二階の奥の部屋」とはどこを指すのか。自分が泊まっている部屋は二階の奥だった。それとも、さらに奥に何かあるのか。

茶屋街を歩きながら、芹奈は宿の建物の外観を思い返した。自分の部屋の隣に、もうひとつ部屋があるはずだ。廊下の突き当たりに、いつも閉まったふすまがある。取材三日目の今まで、一度も開いているのを見たことがなかった。宿に戻ると、大野はいなかった。一階の帳場も、台所も、人の気配がなかった。芹奈は二階に上がり、廊下の突き当たりのふすまの前に立った。古い木の匂いと、もうひとつ、甘ったるい腐臭に似た何かが鼻をかすめた。芹奈はふすまに手をかけた。

格子の奥

部屋は六畳ほどで、窓が雨戸で塞がれ、昼間だというのに暗かった。スマートフォンのライトをつけると、部屋の中央に文机が置かれ、その上に硯と筆と、一束の手紙が積まれていた。手紙は古い和紙に毛筆で書かれており、一番上の封は開いていた。芹奈は手紙を手に取り、読んだ。崩し字で読みにくかったが、それが誰かに宛てた恋文であることは分かった。宛名は「とよ殿」とあった。差出人の名前は「橘屋のいね」とあった。芹奈は震える手で手紙を机に戻した。「橘屋」というのは、この宿の名前だった。

手紙の束の下に、一枚の写真があった。白黒の写真で、茶屋の二階の欄干に寄りかかった女が写っていた。白い着物を着て、異様に大きな目でこちらを見ている。昨日、資料館のアルバムで見た、あの写真だった。だが、確かにあの写真は撮影できなかった。資料館の男性に止められた。それなのになぜ、この部屋に同じ写真があるのか。芹奈はライトを手紙の束に向けた。一番下の手紙の日付は昭和十二年だった。だが一番上の手紙には、日付がなかった。その代わり、インクがまだ乾いていないように見えた。

芹奈はゆっくりと顔を上げた。部屋の隅に、何かがあった。雨戸の隙間から差し込む細い光の中に、着物の裾が見えた。白い着物の、裾だけが。芹奈はそちらを向けなかった。向けてはいけない、と体が知っていた。後ずさりながら廊下に出て、ふすまを閉めた。手が震え、足がうまく動かなかった。階段を駆け下り、玄関から外に飛び出した。石畳の上に出ると、夕暮れの空が赤く、浅野川の水音だけが聞こえた。

しばらく茶屋街の入り口近くにある川べりのベンチに座っていた。観光客はほとんど帰り、柳の木が夕風に揺れていた。芹奈は深呼吸を繰り返しながら、自分の見たものを整理しようとした。古い手紙、古い写真、着物の裾。古い建物に古いものが残っているのは当然だ。誰かの遺品が、使われていない部屋に放置されていただけかもしれない。そう考えようとした。だが、インクが乾いていないように見えた一番上の手紙のことが、頭から消えなかった。

宿に戻ると、大野がいた。芹奈が部屋に入ったことを話すと、おかみさんの顔が青ざめた。「あの部屋には、もう長いこと誰も入っておりません」と言い、声が微かに震えていた。芹奈が写真のことを話すと、大野は目を伏せた。「橘屋のいね、というのは誰ですか」と芹奈が聞いた。大野は長い沈黙の後、「この宿の先代が、そういう名前でした」と言った。「昭和の初めに亡くなっています。どういう亡くなり方をしたかは、聞いていません」芹奈は「写真が資料館と同じものでした」と言った。大野はそれには答えなかった。ただ「明日は早めにお発ちになった方がよいかもしれません」と言い、奥へ消えた。

その夜、芹奈は眠れなかった。布団の上に横たわったまま、天井を見つめていた。廊下の音はしなかった。宿全体が、息を止めているように静かだった。静かすぎた。深夜二時を過ぎた頃、芹奈はスマートフォンで昼間に撮った写真を見返した。宿の外観、石畳、格子戸。あの閉まったふすまの前で撮った一枚。廊下の暗い写真で、ふすまが写っている。芹奈は画面を拡大した。ふすまの紙の部分に、何かが透けて見えた。人の輪郭のような、薄い影。大きな目のような、二つの暗い点。

格子の奥

芹奈は写真を消そうとしたが、手が動かなかった。拡大した画面の中で、その影はやはり欄干に寄りかかる女の姿に見えた。白い着物を着て、こちらを向いている。芹奈は画面を伏せ、布団を頭から被った。心臓が速く打っていた。そのとき、廊下の板が一度だけ軋んだ。一歩分だけ。部屋の前で止まった。ふすまの向こうに、今度は影があった。薄い紙越しに、人の形をした暗い輪郭が、じっとそこに立っていた。芹奈は声が出なかった。影は動かなかった。一分が、十分のように長かった。やがて影は薄くなり、消えた。芹奈はその夜、夜明けまで眠れなかった。

翌朝、芹奈は早朝のうちに荷物をまとめ、宿を出た。大野は帳場にいたが、目を合わせなかった。精算を済ませ、芹奈が玄関を出るとき、大野が背中に向かって小さく言った。「写真は、持って行かないでください」芹奈は振り返った。「写真なんて持っていません」と言いながら、スマートフォンのことが頭をよぎった。大野はそれ以上何も言わなかった。

金沢駅に向かう途中、芹奈はもう一度だけ東茶屋街の路地を通り抜けた。朝の空気は澄んでいて、石畳に朝露が光り、格子戸が朝日を受けて飴色に輝いていた。美しい街だった。何も起きていないような顔をして、静かにそこにあった。芹奈は足を止めず、まっすぐ歩いた。橘屋の前を通り過ぎるとき、二階の窓を見上げないようにした。だが、見上げた。窓は閉まっていた。格子の奥は暗かった。

新幹線の中で、芹奈は眠った。夢を見た。茶屋の二階の座敷で、誰かが文机に向かって手紙を書いていた。筆を走らせる音だけが聞こえ、書いている人物の顔は見えなかった。夢の中で芹奈は、その手紙が自分宛てだと知っていた。目が覚めると、車窓に北陸の山々が遠ざかっていた。芹奈はスマートフォンを取り出し、昨夜撮ったふすまの写真を開いた。拡大した。影はもうなかった。写真は暗いだけで、何も写っていなかった。

東京の自宅に戻り、数日が経った。茶屋街の記事を書き終え、編集部に送った。普段の生活が戻ってきた。だが、ひとつだけ気になることがあった。文机の引き出しを開けるたびに、甘ったるい古い紙の匂いがした。最初は気のせいだと思った。引き出しの中を確認したが、何もなかった。だが匂いは消えなかった。ある夜、匂いに気がついて引き出しを開けると、底に一枚の和紙が入っていた。見覚えがなかった。白い古い和紙で、毛筆で一行だけ書かれていた。崩し字で読みにくかったが、芹奈にはそれが読めた。宛名は、芹奈自身の名前だった。

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