霧の坂に立つもの
AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

十月の長崎は、海からの風が石畳を濡らす季節だ。東山手の坂道は、その季節になると霧がことさら深くなる。港の向こうから流れ込む白い霧は夕暮れ時に坂の中腹あたりで溜まり、ガス灯を模した街灯の光を滲ませ、古い洋館の輪郭を曖昧にする。観光客はその景色を「異国情緒がある」と言いながらスマートフォンのカメラを向け、石畳の感触を確かめながら坂を上り下りする。桐島夏帆がその坂道に越してきたのは、ちょうどそういう季節の初めだった。
夏帆は福岡の出版社を辞め、フリーランスの校正者として働くことにしたとき、長崎を選んだのは半ば衝動だった。大学時代に一度だけ訪れた東山手の、あの坂道の記憶が頭の隅に残っていた。石畳と煉瓦塀が続く細い道、坂の途中に建つ西洋館、その窓から見えるはずの港の光。都市の喧騒から離れて仕事がしたいという理由はもっともらしかったが、本当のところは、あの坂道の静けさが自分を呼んでいるように感じていたのだ。
借りたのは、東山手の旧居留地エリアの端にある二階建ての古い建物の一室だった。もとは明治時代の洋館だったらしく、改装されて賃貸住宅になっていたが、窓枠や廊下の造りに当時の名残があった。不動産屋の担当者は、若い女性にしては珍しい選択だと言いながら、鍵を渡すときにひとつだけ注意した。「夜、坂を降りるときは気をつけてください。段差が不均一なので」。夏帆はそれを聞いてうなずいたが、後になってその言葉を思い返すたびに、担当者の視線が一瞬どこか別の方向へ逸れていたことを思い出すのだった。
越してきた最初の一週間は、坂道の生活に慣れるだけで精一杯だった。スーパーへの買い物も、郵便局への用事も、すべて坂の上り下りを伴う。石畳は雨の日に滑りやすく、霧の夜は足元がほとんど見えなくなる。それでも夏帆は、朝の光の中で坂道を眺めるのが好きだった。石畳の隙間から雑草が伸び、煉瓦塀に蔦が絡まり、坂の向こうに港が光る。その景色は確かに美しかった。
問題が始まったのは、越してきてから十日ほど経った夜のことだ。
夏帆は深夜まで原稿の校正作業をしていた。窓の外は霧で白く、街灯の光が丸く滲んでいた。作業を終えて台所に水を飲みに行ったとき、ふと窓の外が気になった。二階の窓から見える坂道は、霧の中に沈んでいて、石畳の輪郭だけが薄ぼんやりと見えた。その石畳の上に、誰かが立っていた。
夜中の一時を過ぎていた。人影は坂の中腹、ちょうど街灯の光が届かない場所に立っていた。女のように見えた。黒い服を着て、こちらに背を向けて立っている。夏帆は最初、酔って帰宅途中の人間だろうと思った。だが人影はまったく動かなかった。風で霧が揺れても、街灯の光が明滅しても、その人影だけが石の彫刻のように静止していた。夏帆は窓から離れ、自分の部屋に戻り、布団に入った。明け方に目が覚めて、もう一度窓を確認したとき、坂道には誰もいなかった。
翌日、夏帆は散歩がてら坂道の近所を歩いてみた。昼間の坂は観光客が数人いて、写真を撮ったり石畳の感触を確かめたりしていた。夏帆は昨夜の人影が立っていた場所まで歩いた。特に何もなかった。石畳があり、古い煉瓦塀があり、塀の向こうに木が茂っているだけだった。だが夏帆は、その場所に立ったとき、背筋に奇妙な感覚を覚えた。寒さとは少し違う。皮膚の下の何かが、収縮するような感覚だった。
その夜から、夏帆は眠りが浅くなった。
眠れないというわけではなかった。むしろ、眠りは深かった。問題は夢だった。毎晩、同じ場所に立っている夢を見た。霧の中の坂道で、夏帆は坂の下から上を見上げている。石畳が続いていて、坂の上に何かがいる。それが何なのかは夢の中でも見えなかった。輪郭がなく、形が定まらない。だが夏帆は夢の中で、それに向かって歩いていた。歩いても歩いても距離が縮まらなかった。目が覚めると、全身に汗をかいていた。
一週間後、夏帆は坂の下の食料品店で、顔なじみになった老婆と話した。老婆は江口さんといい、八十近い年齢だったが矍鑠としていて、この町に生まれてずっと住んでいるのだと言っていた。夏帆が東山手の坂に越してきたと話すと、老婆はしばらく間を置いてから「あの坂のどのあたりですか」と聞いた。夏帆が場所を説明すると、老婆は小さくうなずいて、それから何かを言いかけて、やめた。「何ですか」と夏帆が聞くと、老婆は笑って「いいえ、なんでも」と言った。その笑いが、少しだけ不自然だった。
夏帆は老婆のことが気になり、翌日もその店に行った。老婆はいたが、昨日の話題には触れなかった。夏帆が再び切り出すと、老婆は少し考えてから言った。「あの坂には、昔から夜に立つ人がいるんです。ずっと昔から。私の祖母の時代にも、そういう話がありました」夏帆は、昨夜見た人影のことを話した。老婆は表情を変えなかった。「それは見ないほうがよかった」と言った。「見てしまったら、次は声をかけないこと。絶対に」それだけ言って、老婆は話を変えた。
その夜、夏帆は窓の外を見ないようにしようと思った。だが午前二時を回ったころ、廊下の物音で目が覚めた。古い建物だから軋む音はよくある。そう思いながら、気づくと廊下に出ていた。窓の外の坂道を見ていた。
人影はいた。同じ場所に、同じように背を向けて立っていた。今夜は霧が薄く、昨日よりも輪郭がはっきり見えた。黒い服の女。長い黒髪。まったく動かない。夏帆は息を詰めて見ていた。一分が経ち、二分が経った。人影は微動だにしなかった。そのとき、窓ガラスに反射した自分の顔が見えた。夏帆は自分の顔に気づき、視線を戻した。
人影が、こちらを向いていた。

距離があって顔は見えなかった。だが確実に、上半身がこちらを向いていた。夏帆は窓から離れようとしたが、足が動かなかった。人影はゆっくりと、石畳の上を歩き始めた。坂を上ってくるのではなかった。横に、煉瓦塀に沿って歩いていた。そして塀に辿り着いたとき、止まった。塀のほうを向いて立った。それだけだった。夏帆はそのまましばらく立ち尽くし、やがて人影が見えなくなったことに気づいた。いつのまにか消えていた。
次の朝、夏帆は昼まで眠れなかった。
疲弊しながら、夏帆は自分に言い聞かせた。深夜に坂道を歩く人間がいても不思議ではない。見間違いや、光の加減による錯視もある。だが老婆の「声をかけないこと」という言葉が頭から離れなかった。声をかける、という状況はどういう状況なのか。つまり、それほど近くになることがある、ということなのか。
その日の午後、夏帆は図書館に行き、東山手の歴史について調べた。居留地の成立から始まり、明治期の洋館建築の資料を読んだ。坂道についての記録もあった。ほとんどは観光用の記述だったが、一冊の古い郷土史の本の中に、一段落だけ気になる記述があった。明治期から昭和初期にかけて、この坂道では複数の「身元不明の変死」があったという。原因は不明で、いずれも発見時には坂の中腹の煉瓦塀の近くに倒れていた。記述はそれだけで、続きも前後の文脈もなかった。
夏帆はその夜から、日記をつけることにした。何かが起きているとすれば、記録を残すべきだと思ったからだ。だが実際に書き始めると、自分が何を書けばいいのかわからなかった。人影を見た。それだけだ。それは恐怖の根拠として十分なものなのか。夏帆は自分の感覚を疑い始めた。引っ越しのストレス、孤独な生活、不規則な睡眠。そういう理由で、人は夜中に奇妙なものを見る。
だが四日後の夜、事態は変わった。
その夜、夏帆は外出していた。坂の下のほうにある居酒屋で、近所に住む同世代の女性と夕食を食べ、帰りが遅くなった。石畳の坂を一人で上っていた。霧は薄かったが、夜の坂道は街灯と街灯の間が暗く、足元が見えにくい。夏帆は石畳を踏みしめながら坂を上っていった。
坂の中腹あたりで、夏帆は足を止めた。
煉瓦塀の前に、誰かがいた。背を向けて立っている。夏帆は息を飲んだ。昨日まで窓越しに見ていたものが、今は同じ坂の上に、十メートルほどの距離にいた。黒い服。長い黒髪。微動だにしない。夏帆はゆっくりと後退しようとした。そのとき、人影がゆっくりと振り返った。
顔があった。
普通の、女の顔だった。三十代くらいに見えた。色白で、目が大きく、口元に微かな表情があった。それが笑みなのか、それとも別の何かなのか、夏帆には判断できなかった。女は夏帆を見ていた。ただ見ていた。何も言わなかった。
夏帆は体が動かなかった。老婆の言葉が頭の中で繰り返された。声をかけないこと。だが女は何も言わなかった。ただ夏帆を見ていた。その視線は、夏帆が今まで他人から向けられた視線とどこか違っていた。深さがなかった。瞳に、奥行きがなかった。光を映しているのに、その光が瞳の表面で止まっていた。
どれくらいの時間が経ったのかわからなかった。夏帆は気づいたとき、坂を走っていた。走って走って、自分の部屋に飛び込んで鍵をかけた。背中に汗をかいていた。肩で息をしながら、夏帆はその場にしゃがみ込んだ。全身が震えていた。
翌朝、夏帆は江口老婆に電話した。番号は店の壁に貼ってあった。老婆はすぐに出た。夏帆が昨夜のことを話すと、老婆はしばらく沈黙した。「顔を見ましたか」と老婆は聞いた。夏帆がそうだと答えると、また沈黙があった。「声はかけましたか」「かけていません」「向こうから何か言いましたか」「言いませんでした」老婆は小さく息を吐いた。「それはよかった」と言った。「でも」と老婆は続けた。「顔を見てしまったなら、もう一度来るかもしれません」
「あれは何なんですか」と夏帆は聞いた。

老婆は答えるまでに時間がかかった。「私の祖母が言っていた話があります」と老婆はゆっくり言った。「昔、あの坂で死んだ女がいた。身元もわからない、どこから来たかもわからない女が、あの煉瓦塀の前で死んでいた。それがいつ頃のことかも、今となってはわからない。ただ祖母は、その女は坂を上ることができなかったのだと言っていた。何かの事情で、どうしても坂の上に行かなければならなかったのに、行けなかった。それで今でも、坂の中腹に立っている」老婆は一息ついて言った。「祖母は、あれに声をかけてはいけないと言っていた。声をかけると、連れていかれると」
「どこへ」と夏帆は聞いた。
「それは、わからないんです」と老婆は言った。「ただ、声をかけた人間は翌朝あの塀の前で倒れていた、と祖母は言っていました。生きていたけれど、目が覚めないままで。そのまま死んだ人もいたし、目が覚めた人もいた。でも目が覚めた人は、何も覚えていなかった」
電話を切った後、夏帆は部屋の中を歩き回った。引っ越すべきかどうか考えた。しかし同時に、老婆の話を信じていいのかどうかも考えた。民話や伝承の類いかもしれない。夜中に坂道をうろついている人間が、たまたま奇妙な印象を与えるだけかもしれない。夏帆は自分の中の合理的な部分と、皮膚の下の収縮するような感覚の間で揺れ続けた。
その夜、夏帆は窓の外を見なかった。
二日間、何も起きなかった。
三日目の夜、夢を見た。
坂道の夢だった。いつものように霧の中に立っていた。だが今回は違った。夏帆は坂の上から見下ろしていた。坂の下に、あの女がいた。背を向けて立っている。夏帆は夢の中で、女の背中をじっと見ていた。女はゆっくりと坂を上り始めた。一段、一段、石畳を踏みしめるように上ってくる。夢の中の夏帆は動けなかった。女が近づいてくる。女が顔を上げた。その顔が、夏帆の顔だった。
目が覚めた。
部屋の中は暗かった。夏帆は布団の中で体を硬直させたまま、天井を見ていた。心臓が速く打っていた。窓の外から、足音が聞こえた気がした。石畳を踏む音。一段、一段、坂を上ってくる音。夏帆は耳を澄ませた。音は続いていた。確かに続いていた。夏帆の部屋の前を通り過ぎ、建物の扉の前で止まった。
それから、扉をノックする音がした。
一回。
二回。
三回。

夏帆は布団の中で息を止めた。扉の向こうには何もいないはずだと思った。思おうとした。ノックは止んでいた。しばらくの沈黙が続いた。夏帆はゆっくりと息を吐いた。
そのとき、廊下の床が軋んだ。
夏帆の部屋の扉の前で。
夏帆は声を出せなかった。体が動かなかった。部屋の扉の隙間から、廊下の光が漏れて入っていた。その光の中に、影が差した。扉の前に、何かが立っていた。影は動かなかった。夏帆は布団を頭まで被り、目を閉じた。声を出してはいけない。それだけを考えていた。
どれくらいの時間が経ったのか、夏帆にはわからなかった。一時間だったかもしれないし、三時間だったかもしれない。やがて夏帆は、気づいたら朝の光の中にいた。鳥の声が聞こえた。窓から差し込む光が、部屋の壁を明るく照らしていた。夏帆はゆっくりと布団から出た。扉を開けた。廊下には何もなかった。
だが廊下の床に、薄く泥の跡がついていた。
石畳の隙間の土のような、細かい泥。夏帆の部屋の扉の前まで続いていて、そこで途切れていた。
夏帆はその日のうちに、荷物の大半を段ボールに詰めた。引っ越し業者に電話し、翌週の搬出を依頼した。不動産屋には退去の連絡を入れた。坂の下の江口老婆には、別れの挨拶をしに行った。老婆は夏帆の顔を見て、何も聞かなかった。ただ「よかった」とだけ言った。夏帆は老婆に、廊下の泥の跡のことを話した。老婆はうなずいて言った。「声はかけませんでしたか」「かけませんでした」「それでよかった」老婆はそれ以上何も言わなかった。
引っ越しの前日の夜、夏帆は最後にもう一度だけ窓の外を見た。
坂道は静かだった。霧が薄く漂い、街灯の光が石畳を照らしていた。人影はなかった。煉瓦塀の前は空いていた。夏帆は少し安堵した。そのまま窓を閉めようとしたとき、ふと、塀の向こうの木立の中に何かが見えた気がした。木の幹の間に、細い白いものが見えた。それが人の腕なのか、それとも木の枝に絡まった何かなのか、距離があってわからなかった。
夏帆は窓を閉めた。
翌日、夏帆は長崎を離れた。福岡のアパートに戻り、以前と同じように仕事を再開した。東山手の坂道のことは、誰にも話さなかった。夢は、しばらく続いた。霧の中の坂道、石畳、女の後ろ姿。それは少しずつ薄れていった。三ヶ月が経ち、半年が経ち、夏帆はほとんど夢を見なくなった。
だが一つだけ、消えないものがあった。
長崎を離れる朝、夏帆は玄関の鏡の前で靴を履いた。その鏡の中の自分の顔を見たとき、ほんの一瞬、何かがおかしいと感じた。それが何なのかはわからなかった。顔は夏帆の顔だった。目も鼻も口も、いつもと同じだった。
ただ、瞳の奥行きが、以前と同じかどうかを、夏帆は確かめることができなかった。
