山手の足跡
AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

山手の丘に引っ越してきたのは、十一月の終わりのことだった。妻の遺品整理がようやく終わり、私はもう都心のマンションに住み続ける気力を失っていた。不動産屋が紹介してくれた物件は、横浜の山手、外国人居留地の名残をとどめる洋館街の一角にある古い石造りの借家だった。赤煉瓦の塀に蔦が絡まり、鉄製の門扉は錆びで赤く染まっていた。それでも私は即決した。知らない場所で、知らない空気を吸いたかった。悲しみというよりも、疲労だった。自分の輪郭が少しずつ溶けていくような、あの種の疲労。
山手の丘は、横浜港を見下ろす高台に位置している。港の見える丘公園から伸びる遊歩道沿いには、明治から昭和初期に建てられた洋館が点在し、観光客が週末になると散策に訪れる。私が借りた家は、その観光路からやや奥まった場所にあり、観光客が迷い込んでくることはまずなかった。隣家との間には鬱蒼と茂った楠の木が何本も並んでいて、昼間でも木漏れ日がまだら模様を地面に落とした。石畳の小径は苔むしていて、雨の日には足元が滑った。私はそういう場所が好きだった。生の匂いと腐敗の匂いが混ざった、あの土っぽい空気が。
最初の一週間は、ただ荷物を解いて、眠って、また起きた。近所のパン屋で食料を買い、丘の上の公園で海を眺めた。港の向こうに見えるランドマークタワーの白い塔が、夕暮れ時にはオレンジ色に染まった。観光客が去ったあとの山手は静かで、自分が時間の外側に置かれたような気がした。妻のことを考えることもあったが、それは鋭い痛みではなく、水底に沈んだ石のような、重くて動かないものだった。
隣人と初めて顔を合わせたのは、引っ越しから十日ほど経った頃だった。楠の木の根元でしゃがみ込んでいる老婦人を見かけたのだ。白髪を後ろで束ね、藤色のコートを着ていた。何をしているのかと近づくと、彼女は落ち葉を手で丁寧に集めていた。顔を上げたとき、その目が異様に明るく光ったように見えた。冬の朝の弱い光が反射したのだろうと思った。名前を聞くと、ヨシエと名乗った。この丘に長く住んでいると言い、私の借りた家についても知っていた。「あの家は空気がいい」と彼女は言った。「前に住んでいた方も、気に入っていらっしゃいましたよ」。前の住人がどうなったか聞いてみると、彼女はただ微笑んで、「遠くへ行かれました」とだけ答えた。
十二月に入ると、山手の丘は観光客がさらに少なくなり、洋館街は静寂に閉ざされた。石畳の小径を歩くと、自分の足音だけが響いた。私は毎朝早起きして丘を散歩する習慣をつけた。港の見える丘公園の薔薇園は冬枯れていて、棘だけが剥き出しになっていた。その棘の列の向こうに海が広がり、朝の光を受けて鈍く光っていた。散歩から戻ると、家の前の石畳に落ち葉が一枚だけ置かれていることに気がついた。最初はただの風の悪戯だと思った。しかし三日続けて、同じ場所に、同じような大きさの葉が一枚だけ置かれていた。楠の葉ではなかった。形が違った。どこの木の葉かわからなかった。
その夜、私は夢を見た。妻の夢ではなかった。知らない女の夢だった。薄暗い部屋の中央に白いワンピースを着た女が立っていて、こちらに背を向けていた。私が名前を呼ぼうとすると、声が出なかった。女はゆっくりと振り返り始めた。その動作が、あまりにもゆっくりだった。首だけが先に回り、胴体がついてくるまでに、奇妙な間があった。顔が見える寸前で目が覚めた。心臓が速く打っていた。窓の外は完全な暗闇で、風が楠の枝を揺らしていた。その音が、誰かが外の石畳を歩く足音に似ていると思った。
翌朝、ヨシエ老人に会いに行った。彼女の家は私の借家の隣、石垣の向こうにあった。インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。まるで待っていたかのように。彼女はお茶を出してくれて、古い磁器のカップに注いだ茶の色が、妙に濃かった。私は落ち葉のことを話した。彼女はカップを持ったまま、少しの間黙っていた。それから「この丘では、昔からそういうことがある」と言った。「何かがあなたに挨拶しているのかもしれません」。冗談めかした口調ではなかった。私は笑って「何かとは何ですか」と聞いた。「さあ」と彼女は言い、カップを置いた。「でもここに長く住む方は、みなさん一度は経験なさいます」。

その日の午後、私は山手の図書館へ行き、この地区の歴史を調べた。外国人居留地として整備された明治の記録、関東大震災での被害、戦争中の接収。様々な歴史の層が重なり合っていた。ある古い資料に、山手の丘で明治末期に起きた事件の記録を見つけた。外国人の女性が一人、ある洋館の中で亡くなったという記録だった。名前はアンナという。原因は記されていなかった。ただ「発見時、窓に向かって立っていた」という証言が残っていた。立っていた、という言葉が引っかかった。倒れていた、ではなく。
その夜から、私は家の中の様子が少し変わったように感じ始めた。変わったというよりも、何かがずっとそこにあったのに、今まで気がついていなかったような感覚だった。たとえば、廊下の突き当たりの壁に、光の加減によっては薄い人影のようなものが映ることがあった。たとえば、二階の寝室の窓ガラスが、外から見ると、内側に誰かの息がかかって曇っているように見えることがあった。私は一度、外に出て二階を見上げた。薄曇りの昼間で、窓ガラスは確かに部分的に白く曇っていた。しかし部屋の中には誰もいなかった。
十二月の半ば、私は深夜に目を覚ました。何が自分を起こしたのかわからなかった。部屋は静かで、風もなかった。ただ、何かの匂いがした。花の匂いだった。甘く、重い、冬の季節にはあり得ない匂い。薔薇に似ていたが、薔薇よりも濃く、どこか腐りかけた果物のような甘さが混じっていた。私はベッドから出て、部屋の中を確認した。何もなかった。廊下に出ると、匂いは強くなった。その匂いは二階の廊下の一点から来ていた。突き当たりの、小さな物置部屋の扉の前だった。扉に手をかけると、取っ手が冷たかった。真冬の屋外と同じ温度だった。扉を引くと、鍵がかかっていた。借家の鍵束の中に、その扉に合う鍵はなかった。
翌朝、不動産屋に電話して物置の鍵について聞いた。担当者は少しの間沈黙してから、「あの部屋は開けなくていいです」と言った。「何が入っているんですか」と聞くと、「前の住人の荷物が少し」と答えた。「前の住人は遠くへ行ったんじゃなかったんですか」と私が言うと、担当者の声が微妙に変わった。「ええ、まあ、そういうことです」。それ以上は何も言わなかった。私もそれ以上聞かなかった。しかしその夜から、物置の扉の前を通るとき、私はいつも足を速めるようになった。
クリスマスの前日、ヨシエ老人が手土産を持って訪ねてきた。彼女はケーキの箱を差し出しながら、私の顔をじっと見た。「お顔が少し変わりましたね」と彼女は言った。「痩せましたか?」。私は鏡をあまり見ていなかった。洗面台の鏡の前に立ってみると、確かに頬が少し削れていた。しかしそれよりも、目の下の色が気になった。ただの睡眠不足とは少し違う、青みがかった影だった。ヨシエ老人は居間に上がり、お茶を飲みながら、この丘の話をした。「山手には、残っているものがたくさんあります」と彼女は言った。「時間が残っているんです。建物の中に、石の中に」。「幽霊の話ですか」と私は聞いた。彼女はゆっくりと首を振った。「幽霊というのは、死んだものの話でしょう。私が言っているのは、そういうものではありません」。
その言葉の意味を考えながら眠りについた夜、私はまた夢を見た。今度は夢の中で、自分が二階の廊下に立っていた。物置の扉の前だった。扉は開いていた。部屋の中は暗かったが、窓から月光が差し込んでいて、一人の女が窓に向かって立っているのが見えた。白いワンピース。白い首筋。以前の夢と同じ女だった。私は「誰ですか」と聞いた。今度は声が出た。女はゆっくりと振り返った。顔は見えなかった。顔があるべき場所に、光が強く当たって、白く飛んでいた。ただ、その口元だけが見えた。口は動いていた。言葉を発しているのだが、音がなかった。私は口の動きを読もうとした。「ここ」と言っているように見えた。「ここにいる」。
目が覚めると、午前三時だった。部屋の中に花の匂いがした。今度はさらに濃かった。私は起き上がり、廊下に出た。物置の扉の前に立った。扉の下の隙間から、かすかな光が漏れていた。電気の光ではなかった。青白い、月光に似た光だった。しかし外は曇っていた。私は鍵束を取り出し、合わない鍵を一本ずつ試した。十二本目の鍵が、かちりと回った。扉が開いた。

部屋の中は空だった。荷物などなかった。ただ、窓があった。南向きの小さな窓で、その窓の前に、古い木製の椅子が一脚置いてあった。椅子の背もたれに、何かが引っかかっていた。薄い布地のようなものだった。白い、ワンピースの切れ端のような。私はそれを手に取った。触れた瞬間、指先が凍えるほど冷たかった。布には、かすかに例の花の匂いが染みついていた。窓の外を見ると、石畳の小径が月明かりに照らされていた。誰もいなかった。しかし石畳の上に、水に濡れたような足跡が続いていた。雨は降っていなかった。足跡は家の玄関から外へ向かっていた。つまり、誰かが家の中から出て行った跡だった。
私はその足跡を追って外に出た。コートも着ずに、素足にサンダルで。足跡は石畳の小径を下り、楠の木の並びを抜け、港の見える丘公園の方向へ続いていた。夜中の山手は完全に静まり返っていて、私の息の白さだけが空気に溶けていった。公園の入り口を抜けると、足跡は薔薇園の方へ向かっていた。冬枯れた薔薇の棘の列の間を縫うように、足跡は続いた。そして薔薇園の中央、港を見渡せる場所で、足跡は消えていた。
私はそこに立って、港を見た。夜の横浜港は、岸壁の灯りが水面に長く伸び、橋の光が遠くにあった。風がなく、水面は鏡のように静かだった。私は長い間そこに立っていた。寒さを感じなかった。感じるべき寒さがなかった。ただ、背後に誰かがいるような気がした。強烈に、確信的に。振り返ることができなかった。振り返ったら何かが決定的に変わるような予感があって、私はじっと港を見つめていた。すると港の水面に、私の後ろに立っているものの輪郭が映った。白い。長い。じっとこちらを見ていた。私の隣に立っているわけではなく、私と重なるように、私の背後のわずか一歩のところに立っていた。
私は逃げた。走って丘を下り、家に飛び込み、鍵を閉めた。心臓が口から出そうなほど打っていた。しかし家の中に入ったとき、何かがおかしかった。玄関の照明をつけると、廊下の奥が見えた。廊下の奥に、物置の扉があった。扉は閉まっていた。私が開けたはずの扉が、閉まっていた。そしてその扉の前に、足跡があった。濡れた足跡が、外から玄関を通り、廊下を抜け、物置の扉の前まで続いていた。足跡は扉の前で終わっていた。私が公園へ行っている間に、何かが家の中に戻ってきたのだ。
翌朝、私はヨシエ老人の家を訪ねた。しかし扉を叩いても応答がなかった。隣人に聞くと、ヨシエという名前の老婦人は知らないと言われた。この丘に長く住んでいるが、隣の家には誰も住んでいないと。空き家だと。私は石垣の向こうの家を見た。確かに人の気配がなかった。窓は薄汚れていて、表札もなかった。私がお茶を飲んだあの家が、空き家であるはずがなかった。しかし私の記憶の中の家の内部を思い出そうとすると、奇妙なことに、細部がうまく浮かばなかった。テーブルの形、壁の色、カーテンの柄。何もかもが霞んでいた。ただ、磁器のカップの色だけが鮮明に残っていた。白い地に、青い花模様。薔薇に似た、しかし薔薇ではない花の絵。
私はそれから荷物をまとめた。二日かけて段ボールに詰め、不動産屋に電話して解約を申し出た。担当者は引き止めなかった。「そうですか」と、ただそれだけ言った。引っ越しの前日の夜、私は最後の夜をあの家で過ごした。荷物はほとんど出てしまい、部屋は空っぽだった。布団の上に横になり、天井を見ていた。匂いはしなかった。物置の扉も閉まったままだった。静かな夜だった。私はいつの間にか眠っていた。

夢は見なかった。しかし夜中に一度だけ目が覚めた。部屋が冷えていた。窓の外に、何かいる気配がした。私は起き上がり、窓に近づいた。ガラスに顔を近づけて外を見ると、石畳の小径に人影があった。白い服の女が、こちらに背を向けて立っていた。動かなかった。私はガラスの内側から彼女を見た。彼女の白い後ろ姿が、夜の闇の中に浮いていた。私が窓に近づいたせいで、ガラスが息で曇り始めた。白い霧がガラスを覆っていった。それが完全にガラスを覆う寸前、女がゆっくりと振り返り始めた。
私はカーテンを引いた。
翌朝、引っ越し業者が来た。私は荷物を積み込みながら、一度だけ家を振り返った。石造りの外壁、蔦の枯れた茎、鉄の門扉。二階の窓が見えた。誰もいないはずの部屋の窓ガラスが、内側から白く曇っていた。ちょうど、誰かの息がかかったように。私は門扉を閉め、トラックに乗り込んだ。丘を下りながら、後ろを見なかった。港の方向から風が吹き上げてきて、枯れた楠の葉が数枚、トラックの窓に貼りついた。形のおかしな葉だった。楠の葉ではなかった。それがどの木の葉なのか、私にはわからなかった。
横浜を離れて三ヶ月が経った。今は別の町に住んでいる。山もなく、洋館もなく、海も見えない、平坦な町だ。夜は静かで、花の匂いもしない。しかし時々、ふとした瞬間に、あの物置の扉のことを思う。私が開けた夜、部屋の中は空だったはずだった。椅子が一脚あっただけだった。しかし今になって思い出すと、確かにあの部屋には何かがいた。気配ではなく、質量として。空気の重さとして。私が部屋に踏み込んだとき、何かが私を通り抜けて外へ出た。私はそれに気づかなかった。あるいは気づいていたが、認めたくなかった。
今の家の洗面台の鏡を見ると、自分の顔が映る。目の下の青い影は薄くなった。頬の肉も戻ってきた。しかし鏡の中の自分の顔を見るとき、時々、わずかに違和感を覚える。うまく言葉にできない違和感だ。自分の顔のはずなのに、何かが少しだけずれているような。まばたきのタイミングが、わずかにこちらより遅いような。私はそのたびに鏡から目を逸らし、洗面台を離れる。そして台所でコーヒーを淹れ、窓の外の平坦な景色を見る。そうすれば気のせいだったと思えるから。気のせいでなかったとしても、そう思えるから。
ただ、一つだけ気になることがある。あの借家を出るとき、私は物置の鍵を扉に刺したままにしてきた。不動産屋に返すのを忘れたのだ。後から気がついたが、取りに戻る気にはなれなかった。鍵は今も扉に刺さったまま、あの物置の扉を開けているか、閉めているかのどちらかだ。しかし先日、何気なくポケットに手を入れると、指先に金属の感触があった。取り出してみると、古い鍵が一本あった。私の鍵束にはないはずの鍵だった。どこで拾ったのか、どこから来たのか、まったく記憶がなかった。鍵の形は見覚えがあるような気がした。しかしそれがどこの鍵であるかを考えるのを、私はやめた。やめて、引き出しの奥にしまった。
その夜、久しぶりに花の匂いがした。