AI カイダンボット 日本語 原作

石倉の浮いた男

AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

石倉の浮いた男

十月の終わり、小樽運河沿いの石畳を初めて踏んだとき、私はまだ自分が何かの縁に立っていることに気づいていなかった。

東京での仕事を辞めてから三ヶ月が経っていた。編集者として十二年間勤めた出版社を、私は自ら去った。理由を問われるたびに「疲れた」と答えたが、本当のことを言えば、もっと奇妙な感覚があった。毎朝、鏡の前に立つたびに、映っている顔が少しずつ自分のものでなくなっていくような、そういう感じだ。誰かに話せば笑われると思って黙っていたが、その感覚は日に日に強くなり、ある朝ついに、鏡を割ってしまった。それが退職のきっかけだった。

小樽を選んだのは偶然に近い。友人が以前、「石造りの倉庫と運河が残っていて、東京の喧騒と全然違う」と言っていたのを思い出したのだ。十一月には雪が降り始めると聞いていたから、その前に行ってみようと思った。宿は運河沿いの古い旅館で、明治時代の石倉を改築したものだと予約サイトに書いてあった。部屋数は五つだけ、オーナーが一人で切り盛りしているという。

到着したのは午後三時過ぎだったが、空はすでに夕暮れの色をしていた。北の空の低さというのはこういうことか、と私は思った。運河の水は鉛色で、対岸の石造り倉庫の壁に反射したガス灯風の街灯の光が、水面に長い筋を引いていた。観光客の姿がちらほらあったが、どこか動きが遅く、まるで展示物の中を歩いているような印象を受けた。

旅館「石倉屋」の玄関は、運河から少し入った路地に面していた。石段が三段あって、重い木の扉を押すと、古い建物特有の、埃と木材と何か甘いものが混じった匂いがした。カウンターの奥から出てきたオーナーは、六十代とおぼしき女性で、名前を木島さんといった。白髪を後ろで束ね、紺色のエプロンをつけていた。笑顔は柔らかかったが、目の奥が少しだけ、笑っていなかった。旅館の帳場でよく見る、値踏みするような目つきとも違う。何かを確かめるような、静かな目だった。

「お一人でいらっしゃったのですね」と木島さんは言った。確認というより、独り言のように。

部屋は二階の角部屋で、窓から運河の一部が見えた。石畳の歩道と、その向こうの黒い水面と、対岸の倉庫の壁。シンプルだが清潔な和室で、床の間に一輪だけ白い菊が飾られていた。私はしばらく窓の外を眺め、それから荷物を解いた。夕食は一階の食堂で七時から、と木島さんに言われていた。

その夜の夕食は、鮭の石狩鍋と数種の小鉢で、素朴だが丁寧な料理だった。食堂には私のほかに客が一人いた。五十代くらいの男性で、窓際のテーブルに座って、ずっと手帳に何かを書いていた。私が席に着いても顔を上げなかった。木島さんが鍋を運んできたとき、私はその男性のことをさりげなく聞いてみた。

「あちらは佐伯さんといって、三日前からお泊まりになっています」と木島さんは小声で教えてくれた。「毎年この時期に来られるんですよ。何か調べているようで」

「何を調べているんですか」

「さあ」木島さんは少し間を置いた。「一度聞いたことがあるんですが、うまく答えてもらえなくて」

食事を終えて部屋に戻る途中、廊下の突き当たりに細い階段があるのに気づいた。三階があるとは思っていなかった。踏み板が古く、上から薄い光が漏れていた。私は足を止めてそちらを見たが、別に理由もないので自分の部屋に入った。

翌朝、運河沿いを散歩した。朝九時でも空気は刺すように冷たく、吐く息が白かった。観光客の姿はなく、地元の人が自転車で通り過ぎるだけだった。石造り倉庫の壁は朝の光を受けて、昨日とはまた違う表情をしていた。黄色みがかった石の表面に、苔や黒ずみが染み込んでいて、その模様が何かの地図のように見えた。

運河の端のほうに、観光客向けの案内板があった。小樽運河の歴史が書かれていて、明治から大正にかけて北海道の物資輸送の要として栄えたこと、戦後は役割を終えて埋め立ての議論があったこと、市民運動によって保存されたことなどが記されていた。その端のほうに、小さな字でこんなことが書いてあった。「運河沿いには、かつて多くの石倉が建てられ、その一部は今も現存する。石倉の中には、建設当時に労働者が事故で亡くなった場所も含まれており、地元では今も語り継がれている」。

私はその一文を二度読んだ。「語り継がれている」という表現が、少し引っかかった。

旅館に戻ると、昨夜の佐伯という男性がロビーにいた。彼は私を見るなり、初めて会ったとは思えないほど自然に話しかけてきた。

「昨夜は失礼しました。原稿を書いていると、周りが見えなくなってしまって」

「何か書かれているんですか」

石倉の浮いた男

「郷土史です。趣味みたいなものですが」彼は少し笑った。「この運河沿いのことを調べています。石倉の建設史とか、当時の労働環境とか」

「さっき、運河の案内板で労働者の事故のことを読みました」

佐伯さんは私をじっと見た。「読みましたか」それだけ言って、また手帳に目を落とした。続きを話してくれる様子がなかったので、私は自分の部屋に上がった。

その日の午後から、小雨が降り始めた。観光する気分でもなく、私は部屋で本を読んでいたが、どうにも集中できなかった。ふと窓の外を見ると、運河の対岸に人が立っているのに気づいた。倉庫の壁に背をつけるようにして、こちらを向いている。雨の中に傘もなく、ただ立っている。コートの色が暗くて、壁の石の色と溶け合いそうだった。

私はしばらく見ていたが、その人物は動かなかった。十分ほどして再び窓を見ると、もういなかった。雨がまだ降っていた。

夕食の席で、木島さんに聞いてみた。「昼間、対岸に誰か立っていましたが、あちらに何かあるんですか」

木島さんは配膳の手を止めた。「どのあたりに立っていましたか」

「一番古い倉庫の前、ちょうど」

「ああ」木島さんは短く言い、また動き始めた。「観光の方ではないかと思います」

その答えは、答えになっていなかった。私はそれ以上聞かなかった。

夜、眠れなかった。床に就いたのは十一時過ぎだったが、何度も目が覚めた。三度目に目を覚ましたとき、時計は午前二時を指していた。部屋の中は静かだったが、どこかから音が聞こえる気がした。規則的な、何かを引きずるような音。廊下だろうか。私は耳をそばだてた。音はたしかにあった。廊下の突き当たり、あの細い階段の方向から聞こえてくるような気がした。

私は起き上がり、部屋の扉を少し開けた。廊下は暗く、非常灯の赤い光だけがぼんやりと照らしていた。音はまだ続いていた。引きずる音ではなく、よく聞けば、足音に近かった。重い、不均一な足音。一歩一歩の間隔が、人間のそれよりわずかに長かった。

私は廊下に出ず、扉を閉めた。鍵をかけて、布団の中に入った。足音はしばらく続いてから、止んだ。

翌朝、何事もなかったように朝食が出た。佐伯さんは今日もいた。私は昨夜のことを話した。佐伯さんはコーヒーカップを置いて、少し考えてから言った。

「この建物、もともと何だったか知っていますか」

「石倉の改築だと聞きました」

「そうです。明治三十七年に建てられた石倉です。建設中に、一人の男が亡くなっています。石材の運搬中に壁が崩れて、下敷きになった。その場所が、今の三階に当たるそうです」

私は廊下の突き当たりの細い階段を思い出した。「三階は今も使っているんですか」

「木島さんに聞いたことがありますが、物置だと言っていました」

その夜から、私は三階のことが頭を離れなかった。

石倉の浮いた男

三日目の夜、私は意を決して階段を上った。午後九時で、まだ木島さんも起きているはずだった。明かりは持たず、携帯電話のライトだけを使った。階段は急で、踏み板が軋んだ。十二段上ると、低い天井の空間に出た。

物置というより、放棄された空間という印象だった。古い木箱がいくつか積まれ、ビニールシートをかぶった家具らしきものが壁際にあった。空気が違った。冷たいというより、密度が濃い感じ。息を吸うと、何かが肺に詰まるような錯覚があった。

ライトで部屋を照らすと、奥の壁に何かが貼られているのが見えた。近づいてみると、それは古い写真だった。紙が黄ばんで端が反り返っている。白黒で、何人かの男たちが石積みの前に立っている写真だ。服装から見て、明治か大正の時代のものだろう。男たちはみな、カメラを向いていた。

その中の一人に、目が止まった。

一番右端に立っている男が、他の男たちと少しだけ異なる立ち方をしていた。体の向きが、わずかにこちらを向いていない。顔は正面を向いているが、体の向きが横を向いている。そして、その男の足元が。

私はライトを足元に当てた。男の足が、地面についていなかった。他の男たちの足は石畳の上にはっきり立っているのに、その男だけが、数センチだけ、宙に浮いているように見えた。

古い写真の印画の歪みかもしれない、と思った。思おうとした。

しかしそのとき、後ろで音がした。

廊下の突き当たりから、重い足音が上がってきた。一歩、一歩。間隔が、やはり長かった。

私は振り返り、階段口に向かった。ライトを下に向けながら急いで降りた。廊下に出ると、足音は止んでいた。私は自分の部屋に入り、鍵をかけ、窓を確認し、布団に入って夜明けまで目を開けていた。

翌朝、佐伯さんが朝食に来なかった。木島さんに聞くと、「昨夜遅くにチェックアウトされました」と言った。「急に思い立ったようで」。そういうことがあるものか、と思ったが、何も言わなかった。

私はその日の午後、チェックアウトを延ばすかどうか迷った。予約は五泊だったが、まだ四泊目を残していた。東京に帰っても何も変わらないという気持ちがあった。それに、三階の写真のことが気になって仕方がなかった。昼間、もう一度見に行けばはっきりするかもしれない。

昼間に三階に上ると、昨夜と全く同じ場所に写真はあった。男たちの集合写真。一番右端の男。日の光の下で見ても、その男の足はやはり宙に浮いているように見えた。私は写真を壁から外そうとしたが、何かで直接貼り付けられているのか、びくともしなかった。

代わりに、写真の裏側を覗こうとして、額縁の端をずらすと、壁との隙間に小さな紙が挟まっているのに気づいた。取り出すと、鉛筆で書かれた短い文だった。古い仮名遣いで書かれていて、読むのに少し時間がかかった。

「此処ニ居ル者ハ去ルコトカナワズ。壁ヲ積ミシ者ノ骨、未ダ此処ニ在リ。汝ガ顔ヲ見シモノハ汝ノ顔ヲ覚エタリ」

私は紙をそっと戻した。手が震えていた。

その夜、夕食の席で木島さんを観察した。何気ない会話の中で、私はさりげなく聞いた。「三階に古い写真がありますが、誰が飾ったんですか」

石倉の浮いた男

木島さんの手が、一瞬止まった。「どなたかが残していったものです。昔から、あそこにあります」

「誰が」

「さあ」木島さんは微笑んだ。「この建物の前の持ち主だったかもしれません」

「写真の中に、足が浮いている人がいますね」

木島さんは私を見た。先日と同じ、何かを確かめるような目だった。「そうですか」とだけ言った。

私は自分の部屋に戻り、荷物をまとめ始めた。翌朝、早めにチェックアウトしようと思った。理由を考えれば考えるほど、ここにいることへの不安が積み重なっていった。写真の男の足。夜の足音。佐伯さんの突然の退去。木島さんの目。

荷物をまとめていると、窓の外が気になった。運河の対岸に目をやると、また人が立っていた。今度は昼間見たときとは違う場所で、ちょうど私の部屋の窓と正対する位置だった。暗くてよく見えなかったが、こちらを向いていることはわかった。

私は窓のカーテンを引いた。

朝、五時に目が覚めた。窓の外がまだ暗かった。私は荷物を持って一階に降り、フロントに封筒を置いた。料金の残りを入れた封筒に「急用のため」と書いた短いメモを添えた。木島さんはまだ起きていなかった。私は石段を降りて、路地を抜けて運河沿いの石畳に出た。

夜明け前の小樽運河は、静かだった。ガス灯風の街灯がまだ点いていて、黒い水面を照らしていた。観光客も地元の人も誰もいない。石畳を歩く自分の足音だけが、倉庫の石壁に反響した。

対岸の倉庫の前を通り過ぎようとしたとき、私は足を止めた。昨夜、人が立っていた場所に、誰かの足跡のようなものが見えた。正確には、石畳の上の薄い霜が、人の足型に溶けているように見えた。両足分、はっきりと。しかし足跡は、その場所で途切れていた。どこから来て、どこへ行ったかが分からなかった。

私は足跡を眺めた。それから、その足跡と自分の足の大きさを比べてしまった。ほぼ同じ大きさだった。

駅まで歩きながら、私はあの紙の文句を頭の中で繰り返していた。「汝ガ顔ヲ見シモノハ汝ノ顔ヲ覚エタリ」。

札幌行きの始発電車が来るまで、私はホームのベンチに座っていた。小樽駅のホームからは海が見えた。鉛色の海が、夜明けの光の中で少しずつ白くなっていった。

東京に帰ってから、私は再び鏡の前に立った。洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。三日ぶりに見る自分の顔は、以前より少しだけ、何かが変わっているように見えた。顔の輪郭ではない。目の奥の何かだ。何かを確かめるような、静かな目。

私はその表情に、どこかで会ったような気がした。

しばらく考えて、思い出した。

木島さんの目だ、と気づいたとき、鏡の中の私はすでに、微笑んでいた。

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