みつけてくれてありがとう
AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

十月の末、わたしは横浜の山手に引っ越してきた。
仕事の都合で東京から移ることになったのは唐突だったが、不動産屋が見せてくれた物件の写真を一目見た瞬間、なにかに引っ張られるような感覚があった。山手町の細い坂道を上った先にある二階建ての洋館で、白い漆喰の壁には蔦が這い、玄関の扉には真鍮のノッカーがついていた。築八十年を超えているという話だったが、内装は丁寧に手入れされていて、高い天井から吊り下がるシャンデリアの硝子が、曇り空の光を受けてひっそりと光っていた。家賃が相場より三割ほど安いことを不動産屋は「古いですから」と笑って説明したが、わたしはそれ以上追及しなかった。東京の狭いアパートに嫌気が差していたし、なにより、あの写真の家がわたしを呼んでいるような気がしてならなかったのだ。
山手の洋館街は、横浜港が見える丘の上に広がっている。明治から昭和初期にかけて外国人居留地として栄えた歴史を持つその一帯は、今も赤レンガの塀や石畳の小径が残り、秋になれば銀杏の黄葉が坂道を埋め尽くす。近くにはブラフ十八番館だとか、ベーリック・ホールだとか、かつての洋館を保存した施設が点在していて、週末には観光客が散策に訪れる。平日の朝は静かで、坂の下に広がる港の霧笛が、家の窓まで届くことがあった。わたしはその静けさを好んだ。編集の仕事はほとんど在宅で済み、締め切りさえ守れば一日中誰とも会わずに過ごすことができる。それが当時のわたしには、むしろ理想的な暮らしに思えた。
引っ越しの翌日、段ボール箱を片付けながら、わたしは家の隅々を探索した。一階には書斎と食堂と台所があり、二階には寝室と、もう一部屋、鍵のかかった小部屋があった。不動産屋は「物置として使われていた部屋で、鍵は見当たらない」と言っていたので、わたしは特に気にしなかった。ところが夜、ベッドに横になって天井を見上げていると、その部屋の方向から、かすかな音が聞こえた。木が軋む音だった。古い建物だから当然だと思いながら耳を澄ませると、それは不規則な間隔で繰り返されていた。まるで、誰かが部屋の中を歩き回っているような、そんなリズムを持って。わたしはしばらく動けずにいたが、やがて自分に言い聞かせた。風だ。あるいは、温度差で膨張した木材が鳴っているだけだ。そう決めて目を閉じると、音はいつの間にか止んでいた。
近所に住む老婆と知り合ったのは、引っ越してから三日目のことだった。坂道の石畳を掃いていた彼女は、わたしが挨拶をすると、深い皺の刻まれた顔を上げて、まじまじとこちらを見た。名前は菅原といい、四十年以上この町に住んでいるという。「あの家に入ったのね」と彼女は言った。入った、という言葉の選び方が少し奇妙に感じられたが、わたしは愛想よく「ええ、先日から」と答えた。菅原老婆はしばらく黙って、それから「窓に灯りをつけておきなさい」とだけ言って、また箒を動かし始めた。理由を聞こうとしたが、彼女はもう話す気がないようで、わたしは礼を言って立ち去るしかなかった。
その夜から、わたしは窓の灯りをつけたまま眠るようにした。理由はわからなかったが、老婆の言葉が頭から離れなかった。書斎の小さなランプを一晩中つけておくと、その橙色の光が廊下の床に細長い影を落とした。二階の鍵のかかった部屋から音が聞こえることは、その後も続いた。毎晩というわけではなく、三日に一度か、あるいは一週間空くこともあった。規則性がないことが、むしろわたしを落ち着かせた。パターンがあれば恐ろしいが、ランダムな音ならば建物の老朽化で説明がつく。そう思い込もうとしていた。
十一月に入り、山手の銀杏が散り始めた頃、わたしは初めて庭に出た。家の裏手に小さな庭があり、石畳の上に錆びた鉄製の椅子と丸テーブルが置かれていた。朝の光の中でそれを見たとき、わたしはふと、誰かがここで朝食を取っているような気配を感じた。椅子は二脚あり、片方の座面に、枯れ葉が積もっていた。もう片方には、枯れ葉がなかった。風が吹けば等しく葉は積もるはずなのに、一方だけが綺麗に払われているように見えた。わたしは近寄って確認したが、特に変わったところはなかった。ただ、椅子の足の下の石畳が、わずかに擦れているように見えた。まるで、頻繁に引かれたり押されたりしているように。
その週の木曜日の夜、わたしは原稿を書きながら、ふと顔を上げた。書斎の窓の外、庭に面した側に、人影が立っていた。一瞬のことで、次に目を凝らしたときにはもう何もなかった。心臓が速く打ち、わたしは椅子から立ち上がって窓に近づいた。外は暗く、庭の輪郭しか見えない。石畳の上の椅子とテーブルが、街灯の薄明かりの中にぼんやりと浮かんでいた。人影はない。わたしは深呼吸して、見間違いだと自分に言った。しかし、その夜は眠れなかった。朝になって庭に出ると、二脚の椅子のうち、片方がわずかに向きを変えているように見えた。昨日まで庭の奥の生垣を向いていたのが、今は家の窓の方を向いていた。

菅原老婆を再び訪ねたのは、その翌日のことだった。彼女は最初、玄関の扉を半分しか開けなかった。わたしが庭の椅子の話をすると、彼女の表情が変わった。「見えるようになったのね」と彼女は言った。「何が」とわたしは聞いた。老婆は長い間黙っていたが、やがて扉を全部開いて、わたしを中に招き入れた。
彼女の家は山手の洋館街の中では小ぶりな部類だったが、それでも天井は高く、壁には古い写真が何枚も飾られていた。お茶を出してもらいながら、わたしは写真を眺めた。そのうちの一枚が目に留まった。白黒の写真で、わたしが借りている洋館の前で、数人の人物が写っていた。写真の中心には、長いワンピースを着た女性が立っていた。顔は少しぼやけているが、頬骨の高い、端正な顔立ちだった。その女性の横に、男性が一人。そして、二人の間に、子どもの手だけが写っていた。体は見えない。手だけが、大人二人の間に浮いているように見えた。わたしは「この写真は」と言いかけたが、菅原老婆が先に口を開いた。
「あの家には、昔から出るのよ」と老婆は言った。「出る、というのは」とわたしは聞いた。「女の子よ」と彼女は続けた。「戦前に、あの家で死んだ子。名前はわからない。でも、ずっとあそこにいる。あなたが引っ越してくる前も、前の住人が出ていった後も、ずっと」わたしは「前の住人は」と聞いた。老婆は少し間を置いてから「一年も経たずに出ていったわ。理由は教えてくれなかったけれど、最後に会ったとき、顔色がひどかった」と答えた。わたしは写真の子どもの手を見た。小さな、白い手だった。指の先が、わずかに曲がっていた。まるで、誰かの手を握ろうとしているように。
その夜、わたしは早めに風呂に入り、灯りをいつもより多くつけて、ベッドに横になった。眠れないだろうと思っていたが、意外にも早く眠りに落ちた。夢を見た。庭の石畳の上に立っていて、夜の空が低く、霧が立ち込めていた。鉄の椅子に、誰かが座っていた。顔は見えなかった。ただ、小さな体が、椅子の上で静かに揺れていた。ゆっくり、ゆっくりと。まるで、ブランコに乗っているように。わたしは近づこうとしたが、足が動かなかった。すると、その人物がこちらを向いた。顔が、なかった。顔があるべき場所に、霧だけがあった。それでもわたしには、その存在が笑っているとわかった。なぜかはわからない。ただ、そう感じた。夢の中で、わたしは声を出そうとしたが、喉から何も出なかった。目が覚めると、部屋はまだ暗く、時計は午前三時を指していた。
翌朝、二階の鍵のかかった部屋の前に立ったとき、わたしはドアノブに手をかけた。当然、回らないと思っていた。しかしノブは、するりと回った。扉が開いた。
部屋の中は、外の光がわずかに差し込むだけで薄暗かった。カーテンのかかった窓が一つ、奥の壁にあった。部屋の真ん中には、小さな木製の椅子が置かれていた。子ども用の椅子だった。その椅子の座面の上に、人形が一体、置かれていた。布製の古い人形で、顔には刺繍で目と口が縫い付けられていた。目は黒い糸で、口は赤い糸で。わたしはその人形をじっと見た。人形の口元が、わずかに歪んでいた。いや、違う。人形の口が、縫い目のパターンとして、そういう形をしているのだ。そう思い直そうとした。しかし、人形の膝の上に、小さな紙切れが置かれていることに気づいた。拾い上げると、古い便箋で、インクで何かが書かれていた。日本語だったが、文字が古く、読みにくかった。何度も目を凝らして、わたしはようやく読み取った。「みつけてくれてありがとう」と書かれていた。
わたしはその紙を持ったまま、廊下に出た。背中が冷たかった。紙は明らかに古いもので、インクも褪せていた。だとすれば、この紙はずっとここにあったはずだ。しかし、不動産屋は「鍵が見当たらない」と言っていた。誰かが鍵を開けてここに置いた? それとも、この紙は最初からここにあり、ドアの鍵は最初から開いていたのか? わたしは引っ越した初日のことを思い出した。あの夜、ドアノブを試したか? 試していなかった。ただ「鍵がかかっている」という不動産屋の言葉を信じて、試しもしなかったのだ。

菅原老婆に電話すると、彼女はすぐに出た。人形の話をすると、しばらく沈黙があった。「その人形には触れないほうがいい」と老婆は言った。「もう触れました」とわたしは答えた。また沈黙。「紙は?」と老婆は聞いた。「持っています」わたしが言うと、「返しなさい」と老婆は言った。「返す? どこへ」「元の場所へ。そのまま、そっと。そして部屋を出なさい」わたしは老婆の声が微かに震えているのに気づいた。四十年以上この町に住んでいる女性が、震えている。わたしは黙って電話を切り、二階へ戻った。
部屋に戻ると、子ども椅子の上の人形が、さっきと違う向きを向いていた。わたしが来た方向を、見ていた。わたしは震える手で紙を椅子の前の床に置いた。人形の視線が、紙の上に落ちているように見えた。部屋を出て、扉を閉めた。ノブは今度はびくともしなかった。まるで最初からかかっていたように。
その夜、わたしは荷物を一つにまとめて、横浜駅近くのビジネスホテルに泊まった。翌朝、山手へ戻ると、家は変わらず静かに坂の上に立っていた。白い漆喰の壁に朝の光が当たり、真鍮のノッカーが鈍く光っていた。わたしは玄関の扉を開けて中に入った。なぜ戻ってきたのか、自分でも説明できなかった。ただ、何かを確認しなければならないという感覚があった。一階を一通り見て回り、異常はなかった。食堂のテーブルの上に、コーヒーカップが一つ置かれているのを見つけた。昨日、わたしはコーヒーを飲んだ。しかし、カップは流し台に置いてきたはずだった。カップの中には、まだ温かい液体が残っていた。わたしは手を触れずに、その場に立ち尽くした。
二階への階段を上りながら、わたしは自分の足音を数えた。十二段。踊り場。七段。廊下。鍵のかかった部屋のドアの前まで来て、わたしは足を止めた。扉の下から、光が漏れていた。カーテンを閉め切った暗い部屋から、光が。わたしはドアノブに手をかけた。冷たかった。金属の冷たさではなく、もっと深い、温度のないものが触れているような冷たさだった。ゆっくりと回すと、扉は開いた。
部屋の中は、昨日と変わらなかった。子ども椅子。人形。床の上の紙。しかし、窓のカーテンが少し開いており、そこから午前の光が差し込んでいた。光の中に、埃が舞っていた。ゆっくりと、まるで誰かが歩いた後のように、埃が空気の中を漂っていた。わたしは部屋に入らず、扉口に立ったまま、人形を見た。人形の目が、刺繍の黒い糸が、わたしを見ていた。口元の赤い糸が、昨日よりも確かに、上向きに縫い直されているように見えた。笑っていた。
わたしは「ここにいるの?」と声に出した。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。返事はなかった。しかし、部屋の中の埃が、わたしの言葉に反応するように、ひとたびざわめいた。それだけだった。わたしは扉を閉めた。廊下に立って、しばらく動けなかった。そのとき、足元に何かが触れた。確かに触れた。見下ろすと、何もなかった。しかし、触れた感触は消えなかった。小さな手が、わたしの足首をそっと握ったような、そんな感触が。
わたしはゆっくりと階段を下り、玄関を出た。坂道を下りながら、振り返った。二階の窓に、人影が見えた。小さな人影が、カーテンの陰から、こちらを見ていた。わたしはそのまま坂を下り続けた。走らなかった。走れなかったのではない。走る必要がないと感じたのだ。あの影は、わたしを追いかけるつもりがなかった。ただ、見送っていた。それが何より恐ろしかった。
不動産屋に電話して解約を申し出ると、担当者は驚いた様子もなく、「わかりました」と言った。手続きはスムーズで、違約金についての話も出なかった。わたしはもう一度だけ荷物を取りに行き、菅原老婆に別れを告げた。老婆は玄関口でわたしを見て、「よかった」とだけ言った。「何がよかったんですか」とわたしは聞いた。老婆はしばらく考えてから、「帰れたから」と言った。わたしは「わたしが?」と確認した。老婆は答えなかった。

東京に戻ってから、わたしはあの家の写真を一枚だけ持ち帰っていたことに気づいた。引っ越しの際に撮った、庭の写真だった。鉄の椅子とテーブルが写っており、その背景に家の白い壁が見えた。写真を確認したのは、東京に戻ってから三日後のことだった。スマートフォンの画面を拡大して、わたしは気づいた。
庭の写真の中で、二脚の鉄の椅子のうち、片方に誰かが座っていた。小さな、白い影が。顔は見えなかった。ただ、その影の手が、テーブルの上に置かれており、指先がこちらに向かって伸びていた。まるで、テーブルの向こう側に座る誰かに向かって、差し出されているように。
わたしはその写真を削除しようとして、できなかった。削除ボタンを押すたびに、画面が元に戻った。三度試みて、諦めた。今もその写真は、スマートフォンの中にある。ときどき、何かの拍子に画面が開いて、その写真が表示されることがある。そのたびに、影の指先の向きが、少しずつ変わっているような気がする。最初はテーブルの向こうを向いていたのに、今は、確実に、こちらを指している。
山手の洋館街では、今日も秋が深まっているだろう。銀杏の葉は散り、石畳は湿り、霧笛が港から丘の上まで届くだろう。白い漆喰の壁の家は、今も坂の上に立っているはずだ。真鍮のノッカーは、誰かが来るのを待ちながら、鈍く光っているだろう。二階の窓には、カーテンがかかっており、その陰に、小さな影があるかもしれない。
あるいは、もうないかもしれない。
なぜなら、先週から、わたしのアパートの廊下の突き当たりに、鍵のかかった扉がある。引っ越してきた二年前には、なかったはずの扉が。管理会社に問い合わせると、「そのような扉はない」と言われた。しかし扉はある。夜になると、その扉の下から、かすかな光が漏れる。そして時折、扉の向こうから、小さな足音が聞こえる。ゆっくりと、規則正しく。まるで、誰かがわたしを待ちながら、部屋の中を歩き回っているように。
わたしはまだ、そのドアノブに触れていない。
