AI カイダンボット 日本語 原作

奥の院の重さ

AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

奥の院の重さ

十月の末、橋本駅から南海高野線に乗り換えて、極楽橋まで揺られていく間、窓の外の山は少しずつ色を変えた。紅葉というより、燃え尽きかけた炭のような赤と茶が混ざり合い、空は低く、どこまでも白かった。田中誠二は三十八歳で、離婚の書類にハンコを押してから二週間が経っていた。友人に勧められて高野山に来たのは、特別な信心があったからではない。ただ、何か別の空気を吸いたかった。東京の部屋に一人でいると、壁が少しずつ近づいてくるような気がして、眠れない夜が続いていたのだ。

ケーブルカーを降り、バスに乗り換えて奥の院前で降りると、杉の巨木が道の両側に並んでいた。樹齢数百年とも言われる杉は、根元から霧を吸い上げているように見えた。参道の石畳は湿っていて、踏むたびに鈍い音がした。誠二は手荷物のリュックを背負い直し、地図を確かめながら宿坊を目指した。今夜の宿は「宝泉院」という小さな宿坊で、インターネットで予約した際の写真には、落ち着いた木造の建物と、庭に広がる苔の緑が映っていた。口コミには「静かで心が落ち着く」と書いてある一方で、「夜中に廊下を歩く音がする」という投稿が一つだけあり、誠二はそれを宿坊の雰囲気を演出するための誇張だと思っていた。

宿坊に着いたのは午後三時過ぎだった。玄関の引き戸を開けると、線香の煙が体にまとわりついてきた。受付には六十代とおぼしき女性が一人いて、誠二を見ると静かに頭を下げた。名前を告げると、帳面に何かを書き込み、鍵ではなく小さな木の札を渡した。「お部屋は廊下の突き当たり、一番奥でございます」と女性は言った。声が低く、ほとんど唇を動かさないような話し方だった。「今夜はお客様がほかにいらっしゃいますか」と誠二が聞くと、女性はわずかに間を置いてから「おひとりでございます」と答えた。

案内された部屋は八畳の和室で、床の間には掛け軸がかかっていた。墨で描かれた何かの図で、一見すると梵字のように見えたが、よく見ると人の形に似た線が幾重にも重なっているようでもあった。誠二はリュックをおろし、窓の外を見た。庭には大きな石灯籠が一本立っていて、その足元に苔が厚く積もっていた。灯籠の笠の部分に、雀が一羽止まっていたが、誠二が窓に近づいた瞬間、飛び立ちもせずにただ首をこちらに向けた。鳥が動いたのではなく、首だけが回転したような、不自然な動きだった。誠二は気のせいだと思い、窓から離れた。

夕方の勤行に参加した。本堂に通されると、住職らしき老人が既に読経を始めていた。蝋燭の光が揺れ、天井の高い空間に声が反響していた。誠二はうしろの座布団に座り、目を閉じた。読経の音が波のように押し寄せ、離婚のこと、空っぽになった東京の部屋のこと、妻が最後に言った言葉が浮かんでは消えた。「あなたはいつも、何かを見ているようで、何も見ていない」。その言葉が頭の中で繰り返されるうちに、誠二は自分が泣いているのか眠りかけているのか、わからなくなっていた。読経が終わり、目を開けると、住職の姿がなかった。蝋燭だけが燃えていて、誠二は一人だった。いつ終わったのか、いつ住職が出ていったのか、まったく気づかなかった。

精進料理の夕食は、広い食堂に一人で用意されていた。豆腐と根菜の煮物、胡麻豆腐、香の物。食べながら誠二は、食堂の隅に置かれた古い鏡台が気になった。鏡台は明らかに食堂の調度品ではなく、誰かが一時的に置いたように見えた。鏡の表面は少し曇っていて、誠二の姿が薄く映っていた。ふと気づくと、鏡の中の自分が、誠二が箸を置いたあとも、まだ箸を持ち上げる動作を続けているように見えた。誠二は目を細めて見直したが、鏡の中の自分は普通に静止していた。疲れているのだと思い、食事を終えて部屋に戻った。

奥の院の重さ

夜、布団に入ったのは九時前だった。高野山の夜は早く、宿坊の廊下は既に暗かった。誠二は灯りを消すと、天井を見つめた。杉板の天井に、節の模様が浮かんでいた。目が慣れてくると、節の形が顔のように見えてきた。よくある錯覚だと知りながら、一度そう見えてしまうと、元には戻らなかった。目が二つ、鼻のような突起、少し開いた口。誠二は天井から目を離し、横向きになった。外は静かで、風の音さえしなかった。その静けさの中に、遠くから聞こえるような低い音があった。読経の声に似ていたが、音程が違った。宿坊のどこかで誰かが唱えているのか、あるいは自分の耳鳴りなのか、判断できなかった。

深夜に目が覚めた。時計を見ると午前一時十七分だった。目が覚めた理由は、廊下から聞こえた足音だった。硬い廊下を踏む音ではなく、何か湿ったものが引きずられるような音だった。誠二は布団の中で息を殺した。足音は部屋の前で止まった。引き戸の向こうで、何かが止まっている。誠二は動けなかった。一分か、五分か、時間の感覚がなくなった頃、音は再び遠ざかっていった。誠二は布団から出て、引き戸に手をかけた。少しだけ開けると、廊下には何もなかった。ただ、廊下の床に、濡れた足跡のような染みが、部屋の前から突き当たりの壁まで続いていた。

翌朝、受付の女性に昨夜の足音のことを話した。女性はやはりほとんど表情を動かさずに「お山では、夜中に音がすることがございます。おそらく古い建物の軋みでございましょう」と言った。それから少し間を置いて付け加えた。「ただ、この時期は特に」。誠二が「特に?」と聞き返すと、女性は微笑んで「お参りの方が多い季節でございますので」とだけ言い、話を終わらせた。誠二は釈然としないまま、今日は奥の院まで歩くことにした。

奥の院の参道は、朝の霧の中にあった。杉の巨木が霧を纏い、両脇に並ぶ墓石は濡れて黒光りしていた。参道には誠二のほかに数人の参拝者がいたが、霧の中ではすぐに姿が消えた。歩きながら誠二は、墓石の一つに目が止まった。江戸時代の武士の墓らしく、側面に文字が刻まれていた。読もうとして近づくと、石の表面に何かが彫ってあるのではなく、何かが貼りついているように見えた。近づくにつれて、それが指の形をした苔の塊であることがわかった。五本の指が、石をつかむように広がっていた。誠二はその墓の前で立ち止まり、しばらく動けなかった。霧の中で、参道の奥からゆっくりと人影が近づいてきた。白い衣を着た老人で、手に数珠を持っていた。誠二の隣まで来ると、老人は墓石を一瞥して「あれはいかんな」とつぶやいた。誠二が「何がですか」と聞くと、老人は答えずに歩いていった。

宿坊に戻り、部屋で少し横になった。昼過ぎに目が覚めると、部屋の空気が変わっていた。線香の匂いが濃くなっていて、誰かが部屋に入って線香を焚いていったのだと思ったが、線香立ては空だった。床の間の掛け軸を改めて見た。朝とは何かが違うような気がした。掛け軸に描かれた線の配置が、記憶と微妙にずれているように感じた。誠二は掛け軸に近づき、よく見た。人の形に似た線が重なっているように見えたのは昨日と同じだが、今日は線の一本が、掛け軸の下端から少しはみ出しているように見えた。白い和紙の余白の部分に、細い墨の線が一本、縦に伸びていた。誠二は手を伸ばして触ろうとしたが、触れる直前に止めた。

夕方、誠二は宿坊の庭を散歩した。庭には苔に覆われた石が並び、奥に小さな祠があった。祠の前には供物が置かれていて、小皿に盛られた塩と、水の入った杯があった。水は透き通っていたが、水面に何かが映っていた。空の色ではなく、暗い色だった。誠二は水面を覗き込んだ。自分の顔が映っているはずだったが、映っていた顔は誠二のものではなかった。輪郭は似ていたが、表情が違った。その顔は笑っていた。誠二が笑っていないのに、水の中の顔は笑っていた。誠二は立ち上がり、宿坊の中に戻った。受付の前を通るとき、帳面が開いたまま置かれていて、今日の日付のページに名前が一つ書かれているのが目に入った。田中誠二、という自分の名前の下に、もう一つ名前があった。しかしそれは名前の形をしていなかった。文字ではなく、人の形に似た記号が、帳面の一行を占めていた。

奥の院の重さ

その夜、誠二は眠れなかった。布団の上に座り、部屋の四隅に目を配った。何もなかった。しかし何もない、という感覚が信じられなかった。部屋の空気は昼より重くなっていて、呼吸のたびに線香の匂いが肺の奥まで入ってきた。深夜、また足音が聞こえた。昨夜と同じ音だった。濡れたものが引きずられる音。しかし今夜は、部屋の前で止まらなかった。音は部屋の中に入ってきた。引き戸は開いていなかった。音は引き戸を通り抜けて、部屋の中で止まった。誠二は布団の上で固まったまま、正面を見た。部屋には何もなかった。しかし、何もない場所に、重さがあった。空気が歪んでいるような、視界の端に何かがいるような、しかし視線を向けると消えるような、そういう重さだった。誠二は声を出せなかった。

重さは布団の端に近づいた。誠二はそれを感じた。触れてはいない。しかし、布団が少し沈んだ。誰かが布団の端に座ったように、端が下がった。誠二は息ができなかった。頭の中で、妻の言葉が繰り返された。「あなたはいつも、何かを見ているようで、何も見ていない」。その声が今は妻の声ではなかった。誰かほかの声で、その言葉が繰り返されていた。低く、乾いた声。誠二は目を閉じた。目を閉じると、瞼の裏に光がなかった。光がないどころか、瞼の裏が普通より深く、暗かった。その暗闇の中に、何かの輪郭が浮かんでいた。人の形をしていたが、比率がおかしかった。首が長すぎ、腕が体に対して細すぎた。その輪郭が誠二の方に向いていた。

朝になった。誠二は気づかないうちに眠っていたようで、横になった状態で目が覚めた。体が動かなかった。金縛りだと思ったが、数分後には動けるようになった。起き上がって部屋を見回すと、掛け軸がなかった。床の間は空で、掛け軸を吊るしていた釘だけが残っていた。誠二は廊下に出て、受付に向かった。廊下には昨夜の染みがなかった。受付には昨日と同じ女性が座っていた。誠二は掛け軸がなくなっていることを伝えた。女性は「あの掛け軸でございますか」と言い、少し考えてから「昨夜、住職が外させたと思います」と答えた。「なぜですか」と誠二が聞くと、女性は「お客様の体調のために」と言った。誠二は「私の体調のために?」と聞き返した。女性は「はい」と答えてから、ほんのわずかに目を細めた。「少し、憑いておられるようでしたので」。

その言葉が誠二の頭に入ってくるまで、数秒かかった。「憑いている、とはどういう意味ですか」。女性は静かに答えた。「お気になさらないでください。このお山では、よくあることでございます。昨夜、住職がお部屋の前でお経をあげました。今朝はもう、大丈夫でございましょう」。誠二は何も言えなかった。住職が部屋の前でお経をあげた。それが昨夜の足音だったのか。しかしあの音は、廊下を移動して部屋の中に入ってきた。部屋の中に入ってきた後、布団の端が沈んだ。誠二はチェックアウトを告げた。女性はまた静かに頭を下げた。「ご無事で」とだけ言った。「ご無事で」という言葉の響きが、誠二には奇妙に感じられた。

バスで高野山駅まで向かい、ケーブルカーを降り、南海線のホームに立った。列車を待ちながら、誠二は自分の手を見た。右手の甲に、細い線があった。傷ではなく、線だった。皮膚の上に、何かで描いたような細い線が一本、縦に伸びていた。昨夜に気づかなかったのか、今朝できたのか、わからなかった。誠二はその線を左手の指でなぞった。皮膚の表面にあるようで、内側から浮き出ているようでもあった。列車が来た。誠二は乗り込み、窓際の席に座った。山が遠ざかっていくにつれて、霧が晴れ、紅葉した木々が見えてきた。誠二は車窓に映る自分の顔を見た。

窓に映った自分の顔は、笑っていた。

奥の院の重さ

誠二は笑っていなかった。唇は結ばれていた。しかし窓の中の顔は、口の端が少し上がっていた。誠二は顔に手を当てた。自分の顔の筋肉は動いていなかった。それでも窓の中の顔は笑い続けていた。誠二は手を下ろし、窓から目を離そうとした。しかし目を離せなかった。窓の中の顔が、誠二の視線を引き留めていた。列車は山を下り、街が近づいてきた。電線が増え、建物が増え、人の声が遠くから聞こえてくるような気がした。誠二は窓の外の景色に集中しようとした。木々、崖、川、橋。橋を渡るとき、川面が光った。その光の中に、一瞬だけ、何かの形が見えた。人の形をしていたが、比率がおかしかった。首が長く、腕が細すぎた。

橋本駅に着いた。乗り換えのホームで、誠二は鞄からスマートフォンを出した。画面をつけると、カメラが誤作動して自撮りモードになった。画面に自分の顔が映った。誠二は画面を閉じようとして、止まった。画面の中の自分の顔の後ろに、もう一つの顔があった。誠二の肩越しに、誰かの顔が映り込んでいた。振り返ると、ホームには誰もいなかった。スマートフォンの画面をもう一度見た。今度は誠二の顔だけが映っていた。笑っていた。

東京に戻った夜、誠二は浴室の鏡で自分の顔を確かめた。笑っていなかった。右手の甲の線も、気のせいだったのかと思い直した。しかし光の角度を変えて見ると、線はまだそこにあった。細く、縦に、まっすぐ。誠二はその線の上に指を置いた。冷たかった。自分の手のはずなのに、その線の上だけ、体温がなかった。誠二は指を離した。鏡の中の自分を見た。自分の顔は真剣な表情をしていた。鏡の中の顔も、同じだった。誠二は安堵して、洗面台の水を出した。水が流れ、鏡が少し曇った。曇った鏡に映る自分の輪郭がぼやけた。ぼやけた輪郭の中で、何かが動いた。

誠二は水を止めた。鏡の曇りが少しずつ晴れていった。自分の顔が鮮明になっていった。表情は変わらない。真剣な顔のままだ。しかし誠二は今、気づいた。鏡の中の自分の目が、誠二の目より、わずかに外側を見ていることに。誠二の視線は鏡に向かっていた。しかし鏡の中の目は、誠二の少し右後ろを見ていた。何かを、誠二の後ろにある何かを、見ていた。誠二はゆっくりと振り返った。

浴室には何もなかった。白いタイルと、シャワーヘッドと、誠二だけがいた。誠二はもう一度鏡を見た。今度は鏡の中の目も、まっすぐ誠二を見ていた。何もかもが普通だった。誠二は浴室の灯りを消し、部屋に戻った。布団を敷き、横になった。天井を見た。東京の部屋の天井には節がなかった。白いクロスだけだった。誠二は目を閉じた。

眠りに落ちる直前、誠二は気づいた。布団の端が、沈んでいた。

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