紅殻格子の待ち人
AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

松村遥は、その街に惹かれるようになったのが、いつからだったかをうまく思い出せない。金沢を訪れた最初の日、東茶屋街の石畳を踏んだ瞬間に何かが変わった、とは言えるかもしれない。ただ、その「何か」が具体的に何だったかを言葉にしようとすると、いつも霧の中に消えてしまう気がした。
東茶屋街は、金沢の中心部からほど近い、浅野川沿いに広がる江戸時代の茶屋町だ。重要伝統的建造物群保存地区に指定されたその一帯には、紅殻格子と呼ばれる赤みがかった細い木格子が並ぶ二階建ての町家が軒を連ねている。昼間は観光客が絶えず、あちらこちらに抹茶の香りが漂い、三味線の音が路地の奥から聴こえてくることもある。それなのに遥は、この街には必ず夕方から夜に来ていた。夕日が格子の木目に沁み込んでいく時間、観光客が引いていく時間、石畳の上にわずかな靄が生まれる時間。その時間だけが、本当のこの街だと、なぜか確信めいた気持ちがあった。
遥は写真家ではなかった。フリーランスの編集者として東京で働いていたが、金沢に取材で来るたびに、仕事を終えた後、必ずここへ寄った。一度目は偶然だった。二度目は好奇心だった。三度目からは、もう理由がなかった。ただ来ていた。浅野川大橋を渡り、川沿いの柳を左に見ながら、石畳の入り口に立つ。そうすると、東京にいるときずっと感じている、胸の奥の乾いた渇きのようなものが、すこし、ほんのすこしだけ満たされる気がした。
七月の末、四度目の金沢取材が終わった夜、遥はいつものように東茶屋街へ向かった。その夜は空気が重く、浅野川の水面には月が映っていたが、輪郭がぼやけてゆらゆらと揺れていた。川縁に立ったとき、遥は川上のほうを向いた。橋の影に、誰かが立っているように見えた。人の形をした黒い塊が、欄干にもたれて川を見ている。しかし次の瞬間、橋灯りがその影を照らすと、そこには誰もいなかった。夜の川沿いでは、柳の枝がそんな風に見えることもある、と遥は自分に言い聞かせた。
格子の並ぶ石畳に入ると、いつもとすこしだけ違う感触があった。街の静けさは同じだった。ただ、その静けさの中に、何かが一枚だけ余分に重なっているような感じ。音のないはずの場所に、音のない何かがいる感じ。遥は少し歩調を緩め、格子戸が連なる町家の前を通り過ぎた。どの家の格子の奥も、薄暗い橙色の明かりが漏れていた。遠くで三味線らしき音が聴こえる、と思ったが、耳を澄ますと何も聴こえなかった。
街の奥、少し細い路地に入ったところに、遥がいつも足を止める場所があった。古い茶屋建築の一棟で、紅殻格子が他の家より少し濃い色をしており、二階の欄干に小さな提灯が下がっていた。昼間も営業しているのかどうか分からない、小さな置物や古い道具を並べた、骨董品か民芸品かよく分からない店だった。遥はその店に一度も入ったことがなかった。ただ、その前を通るたびに立ち止まり、格子の奥の薄暗がりを見つめてしまうのだった。今夜もそこに足が向いた。
店の前に立ったとき、提灯の明かりが少し揺れた。風はなかった。格子の奥に目を凝らすと、いつもは暗い店内に、今夜はかすかな灯りがあった。行灯のような、弱い橙色の光が、奥の棚を照らしていた。棚には古い人形が並んでいた。遥はそれを以前から知っていたが、今夜はなぜかその人形の一体が、以前と違う場所に置かれているように感じた。格子越しに目を細めて見ると、棚の端に、白い顔をした日本人形が一体、こちらを向いて座っていた。その人形の顔には、細い黒の眉と、赤い唇が描かれており、瞳は黒く塗られていた。その目が、遥のほうを、まっすぐ見ていた。
人形の目が人を見ていると感じるのは、よくあることだ。飾り棚に置かれた人形はその正面に立った者を見るように作られているから、どこから見ても見られているように感じる。遥はそれを知っていた。それでも、格子の向こうのその人形から目を離すのに、妙な時間がかかった。まるで目線の糸が絡まっているように、視線が離れなかった。ようやく顔を上げたとき、遥は息を呑んだ。人形の隣に、誰かが立っていた。薄暗い奥の棚の前に、白い着物を着た人影が、こちらを向いて立っていた。
遥は一歩後ずさった。石畳が足の裏に冷たかった。人影はそのまま動かなかった。遥は目を細め、格子越しに見た。着物の裾が床に広がり、髪が顔の前に垂れていた。顔は見えなかった。ただ、その立ち方が人間のものではないように感じた。膝の折れ方が、正しくなかった。足首の角度が、あり得ない方向を向いていた。
遥は声を出さなかった。声が出なかったのではなく、声を出してはいけないという感覚があった。その人影に声をかけることで何かが起きる、声をかけることで何かを認めることになる、そういう感覚。遥はゆっくりと後退し、路地から出た。石畳の大通りに戻ったとき、少し離れた場所に観光客らしい若いカップルが歩いているのが見えて、遥は初めて息をついた。
宿に帰ってから、遥は自分が見たものについて考えた。店の奥の人影は、おそらくマネキンか何かだったのだろう。薄暗い中で着物を着たマネキンを人影と見間違えた。膝の折れ方が変だったのも、薄暗さのせいで遠近感が狂ったためだ。それだけのことだ。そう結論づけて眠ろうとしたが、目を閉じると、格子の向こうの白い人影が、膝を逆に折り曲げたまま、ゆっくりとこちらへ近づいてくる映像が浮かんだ。遥は何度も目を開け、ホテルの白い天井を見た。
翌朝、遥は東京へ戻る予定だった。荷物を整え、チェックアウトを済ませ、駅へ向かうつもりで宿を出た。しかし足は東茶屋街のほうへ向いていた。自分でも気づかないうちに浅野川大橋を渡っていた。昨夜とは打って変わって明るい朝の光の中、格子の町並みは穏やかで美しかった。観光客が少しずつ集まり始め、抹茶ソフトを売る声が聴こえ、格子の木目が朝日を受けてあたたかく光っていた。
あの路地に入った。昼間に見ると、その古い茶屋の一棟は、ただの古い建物だった。提灯は下がっていたが、明かりは消えていた。格子の奥は暗く、棚が並んでいるのが見えた。遥は格子に顔を近づけて中を覗いた。棚の上の人形が見えた。白い顔の日本人形。その目が、こちらを向いていた。昨夜と同じ場所に、昨夜と同じ向きで座っていた。人影はいなかった。ただ人形だけがあった。
そのとき、格子の向こうから声がした。
「入りますか」
低い、女の声だった。遥は体を起こし、格子の奥に目をやった。棚の奥から、小柄な老女が出てきた。白髪を後ろでまとめ、濃紺の着物を着ていた。顔には深い皺が刻まれており、目が細く、遥を見ていた。
遥は「いいえ」と言おうとした。しかし老女はすでに格子戸を引いて、細い入り口を開けていた。遥はなぜか、中に入った。

店内は狭かった。天井が低く、棚が壁一面に並び、古い人形、面、陶器、漆器が所狭しと置かれていた。行灯の代わりに、今は天井の小さな電球が一つ、黄色い光を落としていた。老女は遥が入るのを見届けると、格子戸を閉め、棚の奥に戻った。遥は棚を眺めながら、昨夜見た白い人形の前に立った。
「その子が気になりますか」
老女が言った。遥は振り返らずに答えた。「昨夜、ここを通ったんです。夜、この人形を見ていたら、奥に人影が見えた気がして」
沈黙があった。
「見えたんですか」
老女の声のトーンが、わずかに変わった気がした。驚いているのか、確認しているのか、遥には分からなかった。
「気のせいかもしれないですが」と遥は言った。
「そうかもしれません」と老女は言った。「でも」と続けた。「この子は、見える人にしか見えないものを持っているので」
遥は人形の顔を見た。白い顔、細い眉、赤い唇、黒い目。その目が、やはり遥をまっすぐ見ていた。
「この人形は、どこから来たんですか」と遥は聞いた。
「浅野川の上流から流れてきたものです」と老女は言った。「昔のことです。何十年も前に、川から引き上げて、うちで預かっている。持ち主が現れるまで、と思って。でも誰も来ない」
「預かっている、というのは」
「この子が帰りたい場所があるんでしょう。でもそこへ帰れない。だから待っているんです、ここで」
老女の声には、感情がなかった。説明しているというより、事実を述べているだけのような平坦さがあった。遥は人形から目を離し、老女を見た。老女は棚の奥で、何か小さな器を手に持ち、磨いていた。こちらを見ていなかった。
遥は人形を買った。なぜそうしたのか、後で考えても分からなかった。老女が値段を言い、遥が財布を出し、人形は薄紙に包まれて小さな木箱に入れられた。老女は木箱を遥に渡しながら、「夜はしまっておいてください」とだけ言った。理由は言わなかった。遥も聞かなかった。
東京に帰った遥は、人形を机の上に置いた。木箱を開けて薄紙を解くと、白い顔の人形が出てきた。遥は人形を部屋の棚に飾った。古い着物の柄が美しく、顔の造りが丁寧で、改めて見ると、なかなか上品な人形だった。金沢の土産にしては渋すぎるかもしれないが、悪くない。そう思いながら、遥は人形の前から離れた。
その夜から、遥は夢を見るようになった。

夢の中で、遥は常に東茶屋街にいた。夜の石畳、紅殻格子の連なり、浅野川の水音。夢の中の街は、実際の街と少しだけ違っていた。格子の数が多すぎた。路地が深すぎた。川が近すぎた。そして夢の中で、遥はいつも誰かを探していた。誰を探しているのか分からないのに、探さなければならないという焦りがあり、格子の並ぶ通りを歩き続けた。そして毎回、路地の奥に、白い着物の人影を見つけた。その人影は背を向けており、振り返らなかった。遥が近づくと、人影は少しずつ遠ざかった。川のほうへ。水音が大きくなるほうへ。
一週間が経ち、二週間が経った。遥は夢の中で、毎晩同じ路地を歩いた。白い人影は、毎晩少しずつ遥に近づいていた。正確には、遥が近づいているのではなく、人影のほうが少しずつ近くなっていた。最初は路地の奥にあった人影が、夢を繰り返すうちに、だんだん遥のすぐ後ろにいるようになった。ある夜、遥は夢の中で振り返った。そこに、白い着物の人影があった。顔は相変わらず前に垂れた黒髪で隠れていた。しかし今度は、その人影が手を伸ばしていた。細い、白い手が、遥の方向へ伸びていた。
遥は目を覚ました。部屋は暗かった。棚の上の人形が見えた。月明かりが人形の白い顔を照らしていた。目が黒く光っていた。
翌朝、遥は人形を木箱に戻した。老女が言ったことを思い出した。夜はしまっておいてください。遥はそれを守っていなかった。木箱を閉じ、棚の奥に押し込んだ。その夜は夢を見なかった。
しかし次の夜、朝に木箱に入れたはずの人形が、棚の上に出ていた。木箱は閉じたまま、棚の奥にあった。人形だけが、前夜と同じ場所に、同じ向きで座っていた。こちらを向いて。
遥は人形を持って、もう一度金沢へ行こうと思った。返しに行こうと思った。しかし仕事が立て込み、一週間が過ぎた。その間、人形は毎朝木箱の外に出ていた。夢は毎晩続いた。夢の中の白い人影は、もう後ろに立っていなかった。隣にいた。肩が触れるほどの距離に、並んで立っていた。
金沢へ行けたのは、それから十日後だった。遥は午後の新幹線で金沢に入り、そのまま東茶屋街へ向かった。夕方だった。浅野川大橋を渡り、石畳に入り、あの路地の前に立った。提灯に明かりが入っていた。
格子戸を引くと、老女が奥にいた。遥を見て、老女は少しだけ目を細めた。驚いた様子は、なかった。
「返しに来ました」と遥は言い、木箱を差し出した。
老女は木箱を受け取り、棚の上に置いた。蓋を開けた。中には、薄紙に包まれた人形があった。老女は薄紙をそっとめくり、人形の顔を見た。そして遥を見た。
「見えましたか」と老女は言った。
遥は答えた。「毎晩、夢の中で見ました。白い着物の人影を」
老女は頷いた。「そうですか」と言った。「それは、この子ではありません」
遥は息を止めた。
「この子は、誰かを探して流れてきた。でも、この子が探しているのは、もう川の下にいる。だからこの子は帰れない」老女は人形の顔を見ながら言った。「あなたが夢で見たのは、その人のほうです」
部屋の中が、静かになった。遥には、老女が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。人形が誰かを探している。その誰かは川の下にいる。そして遥の夢に出てきたのは、人形ではなく、その誰かだった。
「なぜ、私のところに来たんですか」と遥は言った。

老女は答えなかった。人形の薄紙を戻し、木箱の蓋を閉じた。棚に戻した。そして遥を見た。
「この街に、何度も来ていたでしょう」と老女は言った。「夕方から夜に来ていた。橋を渡って、川縁を歩いて、ここまで来ていた。同じ道を、同じ時間に」
遥は黙っていた。
「同じ道を同じ時間に歩くと、道に跡がつく。この街では、特に」
老女はそれだけ言い、奥に引っ込んだ。遥は店に一人残された。棚に並んだ人形や面が、四方から遥を見ていた。行灯の光が揺れた。風はなかった。
遥は店を出た。石畳に立った。夕暮れの光が格子を染めていた。浅野川の水音が聞こえた。路地の奥を見た。白い人影はいなかった。
遥は橋のほうへ歩いた。浅野川大橋の上に立ち、川を見下ろした。水面は夕日を受けて、赤みがかった金色に輝いていた。川の流れは穏やかだった。橋の欄干に手を置いた。
その瞬間、遥は気づいた。
橋の欄干が、冷たかった。七月の夕方、石畳も格子も、昼間の熱をまだ帯びているはずなのに、欄干だけが、深夜の冷たさを持っていた。遥は手を離した。川を見た。水面に、遥の顔が映っていた。
しかし水面には、もう一つの顔が映っていた。遥の隣に、誰かが立っているように。遥は顔を上げた。橋の上に、遥以外の人間はいなかった。
再び水面を見た。もう一つの顔は、まだそこにあった。黒い髪、白い顔、こちらを見ている目。
遥は橋から離れ、駅のほうへ歩いた。速く歩いた。振り返らなかった。浅野川の水音が背中から聞こえた。水音の中に、何か別の音が混じっているような気がした。石畳を踏む音のような、しかし遥の足音とは少しだけずれた、もう一つの足音のような。
遥は振り返らなかった。
東京に帰り、遥はあの棚を見た。人形はそこにいなかった。木箱もなかった。ただ棚が空いていた。遥は息をついた。それで終わった、と思おうとした。
その夜、遥は久しぶりに夢を見なかった。
ただ、朝目覚めたとき、枕の横に、一本の黒い髪の毛が落ちていた。遥の髪ではなかった。遥の髪は茶色に染めてあり、その一本は、真っ黒で、長く、濡れているように、光っていた。
