観せます屋
AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

十月の終わり、大阪に単身赴任してきた三十四歳の男が、新世界の路地で一枚の名刺を拾った。
男の名は村瀬 功。東京の出版社から大阪支社へ異動になって三週間が経っていた。仕事は広告営業で、夜は誰も待っていない堺筋沿いのマンションへ帰るだけだった。土曜の昼すぎ、気晴らしに歩いていた通天閣の足元の路地に、その名刺は落ちていた。黄ばんだ厚紙に、墨で書いたような文字が並んでいた。「観せます屋 なんでも観せます 通天閣東二番路地」。住所の代わりに、小さな手書きの矢印が端に描かれていた。
新世界はその日も人でごった返していた。串カツの煙が漂い、呼び込みの声が重なり合い、観光客のカメラが光った。通天閣は秋の白い空の中でいつものように立っていた。村瀬はその名刺を財布に入れ、矢印の指す方向へ何気なく歩きだした。好奇心というより、むしろ手持ち無沙汰だったからだ。
東二番路地という場所は地図にない。だが新世界の路地はどれも地図に載っていないような顔をしている。串カツ屋が切れると急に人が減り、将棋クラブの看板の横に細い路地があった。アーケードの外れに出て、そこから一本入ると昼間でも薄暗かった。軒が低く、電線が頭上で絡まり、足元には古い煉瓦が露出していた。十メートルも歩かないうちに、木造の平屋が一軒あった。引き戸に紙が貼ってあり、同じ墨文字で「観せます屋」と書かれていた。
引き戸を開けると鈴が鳴った。中は六畳ほどの板の間で、壁に写真が何枚も画鋲で留めてあった。写真はどれもモノクロで、人の顔や、建物の外観や、風景が写っていた。何の変哲もない、古い記念写真のように見えた。正面に古い木の椅子が一脚置かれていた。その奥の暖簾が揺れ、老人が出てきた。
老人は小柄で、白い作務衣を着ていた。年齢は八十を超えているように見えたが、目だけが異様に若かった。黒目が大きく、水のように澄んでいた。老人は村瀬を見て、「いらっしゃい」と低い声で言った。挨拶でも確認でもなく、まるで予約客を迎えるような口ぶりだった。
「これを拾ったので」と村瀬は名刺を差し出した。老人はそれをちらりと見て、「そうですか」とだけ言い、椅子の前に立った。「座ってください。観せましょう」。村瀬は断る理由を思いつけなかった。椅子に座ると、老人は村瀬の正面に立ち、両手を腹の前で組んだ。「何を観たいですか」と老人は訊いた。「観たいもの、と言いますと」と村瀬が聞き返すと、老人は「あなたが見たいと思っているものを」と繰り返した。
村瀬は少し考えて、「では、この街の昔の姿でも」と答えた。軽い気持ちだった。老人はうなずき、村瀬の目の前の空気をゆっくり両手で撫でた。その瞬間、部屋の中の光が変わった。蛍光灯の白い光が、黄色みを帯びた薄暗い光に変わった。壁の写真が動いているように見えた。違う、写真が大きくなっているのだ。一枚の写真が村瀬の視野を覆い始めた。
写真の中の通天閣は、今よりも細く、古い鉄骨がむき出しで、足元の街並みは木造の家屋が密集していた。戦前か、戦後すぐの新世界だ。人が歩いていた。モノクロの中で人が動き、声がした。遠くで子どもが笑い、近くで誰かが怒鳴った。村瀬は椅子に座ったまま、それを見ていた。夢の中にいるようだったが、頭は妙に醒めていた。椅子の木の感触がある。板の間の軋む音がする。ここは現実だ、と村瀬は思った。
五分ほどで光は元に戻った。老人はまた両手を腹の前に組み、「いかがでしたか」と言った。村瀬は「すごい」と言った。それ以上の言葉が出なかった。老人は微かに笑い、「また来てください」と言った。料金は取らなかった。村瀬が礼を言って外へ出ると、路地はやはり昼間の光に満ちていた。鈴の音が背後で鳴った。
その夜、村瀬はあの体験を合理的に説明しようとした。プロジェクターか何かを使ったトリックだろう、と思った。だが引き戸を開けてから外へ出るまで、部屋の中に機材らしいものは何も見えなかった。天井に穴はなかった。壁の写真は手のひらほどの大きさで、拡大投影できる装置は見当たらなかった。考えれば考えるほど説明がつかず、村瀬は寝る前に布団の中でもう一度あの黄色い光を思い出した。老人の目の、あの異様な若さを。
翌週の土曜、村瀬は再び路地へ行った。今度は意識して訪れた。引き戸を開けると鈴が鳴り、老人はすでに暖簾の前に立っていた。まるで来ることを知っていたように。「今日は何を観ますか」と老人はすぐに言った。村瀬は「亡くなった祖父の顔を」と答えた。言ってから、少し後悔した。不謹慎かと思ったのだ。しかし老人は無表情のまま「わかりました」と言い、また空気を撫でた。

光が変わった。今度は色がついていた。老人の部屋ではなく、どこか別の場所が現れた。長野の山あいの古い家の縁側だった。間違いなく祖父の家だった。村瀬が小学生のころに何度か訪れたきりで、祖父が死んでから一度も行っていない。縁側に祖父が座っていた。老いた背中と、白髪と、麦わら帽子。村瀬の胸に何かが押し上げてきた。その情景は三分ほど続き、消えた。
村瀬は帰り際に、「また来てもいいですか」と老人に訊いた。老人は「もちろん」と言ったが、そのとき初めて村瀬は気づいた。老人の手の甲に、黒い斑点が散っていた。シミにしては形が均一すぎる。丸い点が、数えれば十ほどある。気のせいかと思い、もう一度見ようとしたが、老人はすでに暖簾の奥へ引っ込んでいた。
それから村瀬は毎週土曜に観せます屋へ通うようになった。三度目は「海外の風景」を頼んだ。四度目は「もう一度祖父を」。五度目は「子どものころの自分の部屋」。老人は毎回、何も言わずに空気を撫でた。そのたびに部屋の光が変わり、村瀬は椅子の上で過去や遠い場所を見た。料金は一度も請求されなかった。
六度目の訪問の日、村瀬は路地に入ってすぐ、何かが違うと感じた。感じた、というより、身体が先に知った。足が少し重くなった。路地の匂いが変わっていた。いつもの油と埃の混じった匂いの中に、甘ったるい何かが混じっていた。腐った果物に似た匂いだった。しかし路地には何もなかった。電線が絡まり、軒が低く、足元の煉瓦が古い、いつもの路地だった。
引き戸を開けると鈴が鳴ったが、今日は老人がいなかった。板の間に椅子だけが置かれていた。村瀬は「すみません」と声をかけた。しばらくして暖簾が揺れ、老人が出てきた。いつもと違い、作務衣ではなく、黒い着物を着ていた。顔色が悪かった。いや、顔色というより、顔の形が違う気がした。頬骨の出方が、先週と違う。気のせいだ、と村瀬は思った。人の顔の形が一週間で変わるはずがない。
「今日は何を観ますか」と老人は言った。声はいつもと同じだった。村瀬は「今日は特に決めていないんですが」と答えた。老人はしばらく黙り、「では、あなたが見るべきものを観せましょう」と言った。村瀬は少し緊張した。「見るべきもの、とは」と訊いたが、老人はすでに両手を持ち上げ、空気を撫で始めていた。
光が変わった。今回は部屋が暗くなるのではなく、村瀬の視野の端から何かが滲み出てくるような変わり方だった。最初は色の差だった。板の間の端が、少し暗くなった。次に、その暗い部分に人の形が見えた。立っている。一人ではない。三人、四人、もっといる。全員が椅子に座っている村瀬の方を向いていた。
顔がなかった。正確には、顔はあるのだが、特徴がなかった。目も鼻も口も、あるべき位置にあるのに、何も読み取れない。感情も、年齢も、性別も。肌の色は白く、髪は黒く、服は古い。全員が村瀬と同じ椅子に座ろうとするように、少しずつ前に歩いていた。音がなかった。息の音もなかった。
村瀬は椅子から立ち上がろうとした。足が動かなかった。腰が椅子に張り付いているかのように、立てなかった。人影は近づいてきた。最前列の一人が手を伸ばした。手の甲に、黒い丸い斑点が散っていた。老人の手と同じ斑点が。村瀬は悲鳴を上げようとしたが、喉が鳴らなかった。
光が戻った。人影は消えた。老人は腹の前で手を組んでいた。村瀬の背中は汗でシャツが張り付いていた。老人は「いかがでしたか」と、いつもの口調で言った。その顔は、やはり先週と違う気がした。頬が落ちている。目の位置が少し下がっている。しかしその目だけは変わらなかった。黒く、大きく、水のように澄んでいた。
村瀬は「何を観せたんですか」と声を絞り出した。老人は少し間を置いて、「あなたが観てきたものを」と言った。「どういう意味ですか」と村瀬は言った。老人は答えなかった。ただ「また来てください」と言い、暖簾の奥へ消えた。
その夜、村瀬は眠れなかった。六回の訪問を頭の中で並べ直した。一度目、通天閣の昔。二度目、祖父の縁側。三度目、海外の風景。四度目、また祖父。五度目、自分の子ども部屋。六度目、顔のない人影。順番に並べると、何かが変わっていく軌跡のように見えた。最初の二回は、村瀬が自分で頼んだものだ。三度目も四度目も五度目も。しかし六度目だけは、老人が「あなたが見るべきもの」と言って見せた。

もう一つのことに村瀬は気づいた。六回の訪問で、老人の顔は少しずつ変わっていた。最初は八十代の老人の顔だった。しかし回を重ねるごとに、頬が落ち、輪郭が変わり、六回目には別人のように見えた。老いが進んでいるのではない。形が変わっているのだ。まるで別の何かになっていくように。
翌々週、村瀬は路地に入れなかった。入り口の将棋クラブの前まで来て、路地の奥を見た。軒の影、電線の絡まり、古い煉瓦。いつもの路地だった。だが足が動かなかった。前回の訪問のとき足が椅子に張り付いたあの感覚が、今は路地の入り口に立つ足に蘇っていた。甘ったるい腐った匂いが、路地の奥から漂っていた。村瀬は十分間そこに立ち、そのまま引き返した。
三週間後、村瀬は意を決して路地に入った。昼間の、人通りのある時間を選んだ。アーケードの喧騒は路地に入るとすぐ消えた。足元の煉瓦、絡まる電線、低い軒。全部同じだった。しかし引き戸の前に立って、村瀬は止まった。引き戸の紙が変わっていた。「観せます屋」の文字の下に、手書きの文が付け加えられていた。「七度目の方、どうぞ」。
村瀬の訪問回数を知っている者は、老人以外にいない。村瀬は引き戸に手をかけた。冷たかった。十月の終わりに戻ってきたかのように、気温が下がっていた。鈴が鳴り、板の間が見えた。椅子がある。壁の写真がある。しかし老人の姿がなかった。暖簾も消えていた。奥は壁だった。壁に、一枚の写真が画鋲で留めてあった。
村瀬はその写真に近づいた。モノクロだった。縦長の写真で、板の間が写っていた。椅子が写っていた。その椅子に、男が座っていた。スーツを着た、三十代らしい男。顔は正面を向いている。目が大きく開いている。口が半開きになっている。男の表情は、何かを見ている。いや、正確には、何かに見られている、という顔だった。
それは村瀬自身だった。
写真の端に、鉛筆で小さな文字が書かれていた。「七度目は観せません」。
村瀬は写真から目を離した。板の間の四隅を見た。天井を見た。壁を見た。誰もいなかった。村瀬は引き戸を開けて路地へ出た。鈴が鳴った。
路地に出ると、甘ったるい匂いはなかった。電線が頭上で絡まり、軒が低く、煉瓦が古い、いつもの路地だった。アーケードの方へ歩くと、串カツの煙が来て、呼び込みの声が戻ってきた。観光客が写真を撮り、子どもが走り、通天閣が秋の空に立っていた。
その日の夜、村瀬は写真のことを考え続けた。いつ撮られたのか。誰が撮ったのか。自分が気づかないうちに撮られた写真が、自分が入る前に壁に貼られていた。それは不可能だ。しかし写真は確かに村瀬だった。スーツも、靴も、今日着てきたものと同じだった。
もっと奇妙なことがあった。写真の中の村瀬は、何かを見ていた。椅子に座り、正面を向き、目を大きく開けて、何かを見ていた。しかし写真が撮られたとき、村瀬は椅子に座っていない。板の間に入ったとき、老人はいなかった。椅子には近づかなかった。壁の写真を見て、それが自分だと気づいて、路地に出た。椅子には一度も座っていない。

村瀬は翌朝、出勤前に路地へ行った。引き戸は鍵がかかっていた。紙の文字も消えていた。「観せます屋」の文字だけが残っていた。
その週末、村瀬は路地の入り口に立ち、奥を見た。観せます屋の引き戸が見えた。閉まっている。村瀬は入らなかった。ただ見た。
路地の奥で、引き戸が少し動いた気がした。動いていない。風もなかった。村瀬は目を細めた。
引き戸の向こうに、誰かが立っていた。
引き戸は閉まっている。しかし確かに、木の引き戸の向こう側に、人の形が見えた。輪郭だけだ。特徴がない。背丈も、体型も、年齢も性別も読めない。ただそれは村瀬の方を向いていた。
村瀬は動かなかった。
その形も動かなかった。
新世界の喧騒は路地の入り口のすぐ後ろで続いていた。呼び込みの声、串カツの煙、観光客の笑い声、通天閣。しかし村瀬には何も聞こえなかった。聞こえているのに、聞こえなかった。
引き戸の向こうの形が、少しだけ大きくなった。
近づいているのか。引き戸が開いたのか。村瀬にはわからなかった。ただその形の目があるべき場所に、何か光るものがあった。黒く、大きく、水のように澄んだ、あの目が。
村瀬は路地から出た。アーケードの人混みに戻り、歩き続けた。振り返らなかった。
その夜、マンションの鏡の前で着替えていた村瀬は、自分の手の甲を見た。