菊の女
AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

祇園の石畳は、夜が深くなるほど濡れているように見えた。雨が降っていなくても、地面はいつも鈍く光っていた。まるで石の内側から何かが滲み出てくるかのように。
田中慎一が京都に赴任したのは、その年の秋の終わりだった。大阪の出版社から系列の京都支局へ異動を命じられ、彼は四条烏丸から歩いて十分ほどの古いマンションに部屋を借りた。築四十年のその建物は、天井が低く、廊下が暗く、エレベーターがなかった。しかし家賃は安く、祇園まで徒歩圏内という立地は、地方文化を取材する彼の仕事に都合がよかった。
最初の一週間は、慎一は祇園の表通りを歩いた。花見小路の石畳、格子戸の並ぶ茶屋、夕暮れに舞妓が急ぎ足で横切る光景。それらはすべて、雑誌の記事として整然と切り取れる風景だった。美しく、様式的で、よく知られた京都だった。
問題は、裏通りに踏み込んだ夜から始まった。
十一月の第二週、慎一は夕刻の取材を終えた後、四条通りへ戻ろうとして、いつもと違う路地へ迷い込んだ。花見小路から一本東に入ったその通りは、観光客向けの地図には載っていなかった。電灯の間隔が広く、石畳の目地に苔が深く入り込んでいた。両側に並ぶ建物は、どれも表に看板を出しておらず、格子戸の内側は暗かった。観光客はおろか、地元の人間も歩いていなかった。
慎一はしばらくその通りを歩いた。路地は思ったより長く、緩やかに右へ曲がりながら続いていた。空気が変わった、と彼は思った。花見小路の賑わいから三十メートルも離れていないはずなのに、音が消えていた。車の音も、人の笑い声も、料亭から漏れる三味線の音も、すべてが綿で耳を塞がれたように遠くなっていた。
路地の突き当たりに、女が立っていた。
着物姿だった。黒い地に細かい柄の入った、地味な着物。帯は白に近い淡い色で、髪は後ろで低く結っていた。舞妓でも芸妓でもない、どちらかといえば年配の女性が普段着として着るような装いだった。女は壁に向かって立っており、慎一の方を向いていなかった。ただそこに、背中を向けて立っていた。
慎一は足を止めた。女は動かなかった。
特に変なことではない、と彼は思った。この辺りの住民かもしれない。煙草を吸いに出てきたのかもしれない。あるいは電話をしているのかもしれない。しかし女の姿勢には、何か落ち着かないものがあった。体が微動だにしないのだ。呼吸による肩の動きさえ、見えなかった。
慎一は「すみません」と声をかけた。路地の奥まで歩くつもりだったのか確認しようとしたのだ。
女は振り向かなかった。
彼は少し待ってから、引き返した。花見小路へ戻ると、急に音が戻ってきた。観光客の話し声、石畳を打つヒールの音、どこかの料亭から漏れる笑い声。慎一は立ち止まって、振り返った。路地の入り口は暗く、奥は見えなかった。
その夜、アパートに戻ってから、慎一は日記をつけた。特に意味はなかった。ただ、何かを書き留めておきたかった。「路地で女を見た。背中を向けていた。振り向かなかった」それだけ書いて、彼は眠った。
次の夜も、彼はその路地の前を通った。意識してそうしたのではなく、気づいたらそこを歩いていた。路地は空だった。女はいなかった。石畳の奥に電灯の光が一つ、遠く灯っているだけだった。慎一は少し安堵し、少し落胆した自分に気づいて、その感情の奇妙さを不思議に思った。
三日後の夜、また女がいた。
今度は場所が違った。路地の入り口から十メートルほど手前、左手の壁際に、同じ着物の女が立っていた。背中を向けて。前と寸分違わぬ姿勢で、同じように微動だにせずに立っていた。
慎一は立ち止まり、じっと見た。女の背中は、近すぎた。電灯の光が当たっており、着物の柄がはっきり見えた。黒地に白い菊の模様が散っていた。帯の結び目は崩れておらず、髪の一本も乱れていなかった。それはそれで当然のことなのだが、外で夜に立っている人間としては、何かが整いすぎていた。人形じみた完璧さがあった。
慎一は静かに近づいた。五メートル、四メートル、三メートル。女の肩が見えた。首の後ろが見えた。白い襟足の下に、首の筋が二本、縦に走っていた。
そこで、女の首がわずかに傾いた。
右へ、ゆっくりと。まるで重さに負けるように。音もなく、滑らかに。それだけだった。振り向きはしなかった。ただ首だけが、人が眠りに落ちる直前のように、少し傾いた。
慎一は後退りした。石畳で踵がずれ、彼は危うく転びそうになった。路地を出て、花見小路に戻って、彼は立ち止まった。心臓が速く打っていた。深呼吸をした。
考えてみれば、大したことではなかった。女が首を傾けた。それだけだ。具合でも悪いのかもしれない。眠いのかもしれない。しかし慎一の胃の底に、鉛を飲んだような重みがあった。その重みは、理屈で説明できるものではなかった。女の首が傾いた、あの動きの「質」が問題だったのだ。それは生き物の動きとして、何かが根本的に違っていた。関節の向きが、わずかに、人間のそれではなかった。
翌朝、慎一は支局の同僚に話した。京都出身の女性編集者、岸本さくらは、慎一の話を聞いてしばらく黙っていた。
「その路地、どこですか」と彼女は言った。

慎一が大体の場所を説明すると、岸本は「ああ」と言った。それきり何も言わなかった。
「何か知ってますか」と慎一は聞いた。
「私も行かない方がいいと思います」と岸本は言った。理由は言わなかった。それ以上話すのを、彼女は嫌がった。
その夜から、慎一は意図的に遠回りをした。祇園の裏通りを避け、四条通りを使うようにした。それで一週間が過ぎた。女のことは、少しずつ記憶の端に押しやられた。京都の秋は深まり、紅葉の取材が忙しくなった。
しかし十一月の末、慎一は夢を見た。
夢の中で彼は、あの路地にいた。夜だった。電灯の光が石畳を濡らしていた。路地の奥に、女が立っていた。いつもと同じ場所に、いつもと同じ姿勢で。慎一は近づいた。夢の中では、足が止まらなかった。近づきたくないのに、体が勝手に歩いていた。
一メートルまで近づいたとき、女が振り向いた。
慎一は目を覚ました。
夢の続きは覚えていなかった。女の顔も見ていなかった。ただ、振り向く直前に見えた、女の側顔の輪郭だけが、網膜に焼き付いていた。輪郭だけで十分だった。それは人の顔の形をしていたが、目のある場所が、違った。目があるべき場所に、何もなかった。滑らかな皮膚が広がっているだけだった。
慎一はその日、一日中、頭が重かった。
十二月に入った夜、彼はまたその路地の前にいた。自分でも気づかないうちに、そこへ来ていた。路地の入り口に立って、奥を見た。今夜は女がいなかった。石畳が光を反射し、突き当たりの壁が薄暗く見えた。
慎一は路地に入った。
歩きながら、彼は自分が何をしているのか分からなかった。確かめたかったのかもしれない。あるいは、来ずにはいられない何かが、この路地にあったのかもしれない。石畳の目地の苔が、靴底に触れるたびにぬるりとした感触を返した。電灯の光の輪を一つ越えるたびに、背後の音が遠くなった。
路地の半ばまで来たとき、慎一は気づいた。
今夜、路地に電灯が一つ余分に灯っていた。いや、違う。電灯の数は同じだ。しかし光の間隔が、違う。前に来たときより、光と光の間が狭い。つまり、路地が短くなっているのだ。
いや、そんなはずはない。路地の長さは変わらない。
慎一は立ち止まった。
電灯を数えた。六つ。前に来たときは、確か四つだった。路地の長さは同じなのに、光の数が増えている。つまり光の間隔が縮まっている。それは、路地の端と端の距離が変わったのではなく、電灯が増えたということだ。しかし電灯は壁に固定されている。昨日今日で増やせるものではない。
慎一は突き当たりの壁を見た。
壁の前に、女が立っていた。
しかし今夜は、背中を向けていなかった。
こちらを向いていた。
距離は二十メートルほどあった。電灯の光が届かない、薄暗い位置に立っていた。着物は同じ、黒地に白い菊。帯は白。髪は低く結われている。そしてこちらを向いていた。
慎一は動けなかった。足が石畳に根を張ったように動かなかった。
女の顔が、暗くてよく見えなかった。いや、見えなかったのではない。見えているのだが、脳がそれを像として結べなかった。顔があるべき場所に、顔があった。しかしそれが何であるかを、慎一の意識は処理することを拒否した。ただ、その「顔」が、こちらを向いていることだけは、分かった。
女が一歩、前へ出た。

音がしなかった。着物の裾が揺れなかった。石畳を踏む音がしなかった。影も動かなかった。体が前へ出たにもかかわらず、女の全体が、まるで撮影した静止画をわずかにトリミングし直したかのように、突然そこにいた。一歩分、近くなっていた。
慎一の体が動いた。走った。振り返らずに路地を走った。石畳に何度も躓きそうになりながら、花見小路へ飛び出した。
人がいた。観光客の男女が、楽しそうに話しながら歩いていた。料亭から笑い声が漏れていた。三味線の音がした。世界が戻ってきた。慎一は電柱に手をついて、息を整えた。
心臓が喉まで上がっていた。手が震えていた。慎一は路地の入り口を見た。暗い路地が、静かに口を開けていた。中には誰もいなかった。
その夜、慎一はアパートに戻り、岸本に電話した。夜の十一時だったが、岸本はすぐ出た。
「見ました」と慎一は言った。「顔を、向けていた」
電話の向こうで、岸本がしばらく黙っていた。
「会社に戻ってこれましたか」と彼女は言った。
「戻れました」
「それなら、大丈夫です」と岸本は言った。声が低かった。「戻れなかった人もいます」
慎一は声が出なかった。
「あそこには、昔から何かがいます」と岸本は続けた。「祇園に古くからいる人たちは、あの路地を避けます。名前もつけません。名前をつけると、呼ばれるから」
「あれは何ですか」と慎一は聞いた。
「分かりません」と岸本は言った。「ただ、待っているんだと思います」
「何を待っているんですか」
岸本はまた黙った。今度の沈黙は長かった。
「見た人を、待っています」と彼女はついに言った。「一度見ると、また見ることになる。そういうものだと聞いています。だから、もうあの路地には行かないでください。絶対に」
慎一は電話を切った後、窓の外を見た。アパートの四階から、京都の夜景が広がっていた。遠くに八坂神社の灯篭の明かりが見えた。その手前に、祇園の屋根が連なっていた。
慎一は眠れなかった。
翌朝、慎一は荷物をまとめ始めた。大阪へ戻ることを上司に申し出るつもりだった。理由は何とでも言える。体調不良でも、家庭の事情でも。
引越しの準備をしながら、彼はふと窓の外を見た。

アパートの向かいに、細い路地があった。自分が住んでいる四ヶ月の間、一度も気にしたことのなかった路地だった。電灯が一つ、薄く灯っていた。
路地の入り口に、女が立っていた。
背中を向けて。
慎一は窓から離れた。息が止まった。壁に背をつけ、窓を見ないようにした。
女がいた。路地の入り口に。自分のアパートの真向かいに。
慎一はゆっくりと考えた。岸本は言った。「一度見ると、また見ることになる」。それは路地の話だと思っていた。しかしそうではなかった。女は場所に縛られていたのではなかった。女は「見た人」に縛られていた。
慎一はもう一度、窓の方を向いた。勇気を出したのではなかった。見ずにはいられなかったのだ。
路地の入り口は空だった。女はいなかった。
慎一は安堵した。見間違いだったのかもしれない。あるいは本当にいたのかもしれない。どちらとも決められなかった。
荷物をまとめ終えた翌日、慎一は大阪へ戻った。新幹線の中で、彼は窓の外を見ていた。車窓に自分の顔が映っていた。
京都が遠ざかるにつれ、慎一の体から力が抜けていった。終わった、と思った。大阪に戻れば、それで終わりだ。
しかし、新幹線が京都駅を離れてしばらく経ったとき、慎一は車窓の自分の顔の向こうに、夜の車窓の景色の中に、何かを見た。
線路沿いの民家の合間に、細い路地があった。
そこに、背中を向けた人影があった。
黒い着物。白い帯。低く結われた髪。
新幹線は一瞬でその場所を通り過ぎた。慎一は自分の目を疑った。速度が速すぎた。見間違いかもしれない。そもそも夜の車窓越しに、路地の人影の着物の柄まで見えるはずがない。
それでも慎一は、白い菊の模様を、確かに見た。
大阪に着いた後、慎一は実家に戻った。何日かは、何もなかった。日常が戻ってきた。友人と飲みに行き、仕事の引き継ぎをし、眠り、目を覚ました。京都のことは、夢のように遠くなっていった。
一週間後の夜、慎一は近所を散歩していた。大阪の住宅街、よく知った道だった。子供の頃から歩いてきた道だった。
角を曲がったところに、細い路地があった。
電灯が一つ、薄く灯っていた。
慎一は立ち止まった。
路地の奥に、電灯の光の届かない暗がりの中に、こちらを向いた何かがあった。顔があるべき場所に、顔があった。それが何であるかを、慎一の意識はもう処理することができなかった。
女は一歩も動いていなかった。
ただ、待っていた。
慎一の背後で、角の向こうの住宅街の灯りが、やわらかく燃えていた。どこかの家から、夕飯の匂いがした。テレビの音がした。生活の音が、すぐそこにあった。
しかし慎一の足は、路地の方を向いていた。