AI カイダンボット 日本語 原作

恐山の隣

AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

恐山の隣

八月の終わりに、宮田誠一はひとりで恐山の麓へ向かった。

妻の弥生が死んで三年が過ぎていた。腫瘍が見つかったときにはすでに手遅れで、彼女は診断から七ヶ月後に静かに息を引き取った。誠一はその後、東京の狭いマンションで、まるで空洞の中に住むように日々をやり過ごした。仕事はかろうじて続けていたが、帰宅するたびに玄関の電灯をつけるのが怖かった。明かりが灯ると、弥生がいないことを改めて確認しなければならなかったから。

恐山へ行こうと思ったのに、たいした理由はなかった。ただ同僚の一人が、「恐山のイタコに頼むと死んだ人の声が聞ける」と半分からかうように言ったのが、なぜか頭の片隅に刺さったまま抜けなかった。誠一は信心深い人間ではなかった。だがある夜、弥生の声を夢の中でも思い出せなくなっていることに気づき、ひどく焦った。顔は覚えている。笑い方も。だが声だけが、まるで砂が指の間から零れ落ちるように、するすると消えていくのだった。

青森駅からバスに乗り、むつ市へ出た。むつ市内の小さな民宿に一泊してから、翌朝早く宇曽利山湖へ向かうつもりだった。民宿の女将は六十がらみの無口な人で、誠一が「恐山へ行きます」と告げると、ただ一度だけ小さく頷き、それ以上何も言わなかった。その沈黙が妙に重く感じられた。

むつ市の夜は静かだった。街灯の数が少なく、道の端に溜まった闇が濃かった。誠一は夕食後、宿の近くを少し歩いた。コンビニが一軒あり、その明かりだけが白々と周囲を照らしていた。弥生は旅行が好きだったが、東北にはまだ一緒に来たことがなかった。来ようと話していたのに、結局叶わなかった。誠一はコンビニの前に立ったまま、ガラス越しに蛍光灯の光を見つめ、自分がなぜここに来たのかをもう一度考えた。答えは出なかった。それでも、来ることしか思いつかなかったのだ。

翌朝、霧が濃かった。バスの窓から見える山の輪郭が、白い綿の奥にぼんやりと溶けていた。恐山へ続く道は途中から硫黄の匂いがし始め、その匂いが強まるにつれて、誠一の胃の中に得体の知れない緊張が積み重なっていった。硫黄の匂いというのは独特で、腐った卵に似ていながらも、どこか鉱物的な鋭さがある。人間の嗅覚が本能的に「危険」と判断するような匂いだと誠一は思った。それがここでは絶え間なく漂っているのだった。

恐山菩提寺の山門をくぐると、境内は予想より静かだった。八月の終わりとはいえ、大祭の時期をわずかに外れていたためか、参拝者の姿はまばらだった。風車が何百本も立ち並ぶ光景は写真で見て知っていたが、実際に目にすると息が詰まるような圧迫感があった。色褪せた赤や白や黄色の風車が、一斉にくるくると回っている。それぞれの一本一本に、誰かの亡くした人への祈りが込められているのだと思うと、誠一はその場に立ち尽くしてしまった。

宇曽利山湖のほとりに出ると、硫黄の匂いはさらに濃くなった。湖は乳白色に濁り、岸辺には荒涼とした岩場が広がっていた。草木がほとんど生えておらず、茶色く変色した地面が露わになっている。ここが「賽の河原」と呼ばれる場所だった。子供の霊が石を積むという場所。積み上げた石を鬼が崩すという場所。誠一は石積みのそばにしゃがみ込み、乱雑に積まれた小石を見つめた。誰かの手が触れた石。誰かの祈りを込めた石。弥生もどこかに石を積んでいるだろうか、と思い、すぐにその考えを打ち消した。弥生はそういう場所にいるような人ではないと、なぜかそう思えたからだ。

イタコを探したが、その日は口寄せを行う者がいなかった。寺の人に尋ねると、大祭の時期でなければイタコは常駐していないのだと教えられた。誠一は少し拍子抜けしながらも、それでよかったのかもしれないと思った。弥生の声を聞くために来たのではなく、ただどこかに来なければならなかっただけだ。そのことに、ここへ来てようやく気がついた気がした。

午後になって、誠一は山門の外に出た。参道沿いにある温泉宿へ向かうつもりだったが、道を少し外れて湖の反対側へ続く細い獣道のような径に気づいた。立入禁止の看板はなかった。誰かが踏み固めた跡があり、草が左右に分かれていた。誠一はなんとなくその道を歩き始めた。硫黄の匂いが薄れ、代わりに湿った土と枯れ葉の匂いが混じってきた。木々の枝が頭上で重なり合い、八月の光が細切れになった。

しばらく歩いたところで、人影を見た。

最初は木の根か倒木だと思った。だが影はゆっくりと動いていた。女だった。黒い着物を着ており、髪を後ろで束ねていた。五十代か六十代に見えたが、背筋が真っ直ぐで、足取りに迷いがなかった。誠一が「すみません」と声をかけると、女は振り返った。顔立ちは整っていたが、表情というものがほとんどなかった。目が、誠一を見ているのか見ていないのか判然としない。

「道に迷いましたか」と女は言った。声は低く、乾いていた。

誠一は迷っていないと答えようとして、実はよくわからなくなっていることに気づいた。「少し散歩しているだけです」と言うと、女は頷き、「ついてきなさい」と言った。断る理由が思いつかなかった。

女は径を外れ、さらに奥へと入っていった。足元には小さな石が散らばっており、踏むたびに乾いた音がした。木々の間から湖が見えた。乳白色の水面が、木の葉の隙間から切れ切れに光を反射していた。女は立ち止まり、湖に向かって何か呟いた。誠一には聞き取れなかった。

「あなたは誰かを探している」と女は誠一の方を向かずに言った。

恐山の隣

誠一は少し驚いたが、ここへ来る人間など大抵そういう理由だろうと思い直した。「妻が死にました。三年前に」と答えた。

「声が聞きたいのですか」

「声が……そうです。声を忘れてしまった気がして」

女はしばらく黙っていた。湖から風が吹いてきて、着物の裾が揺れた。それから女はゆっくりと振り返り、誠一を正面から見た。その目が、今度ははっきりと誠一を捉えていた。瞳の色が妙に薄かった。灰色がかった茶色で、まるで曇天の湖面のような色をしていた。

「聞こえましたか」と女は言った。

誠一には何も聞こえなかった。「いいえ」と答えると、女は微かに首を傾けた。「もう少し待ちなさい」と言い、また湖の方へ向き直った。

風が止んだ。

その瞬間、誠一は奇妙な感覚に襲われた。自分の後ろに誰かが立っているような感覚。振り返ると、誰もいなかった。だが確かに、背後から息遣いのようなものを感じていた。空気が動いている。人の大きさの何かが、すぐそこにある。誠一は喉の奥が締め付けられるような感じを覚えながら、「何がいるんですか」と女に訊いた。

女は振り返らなかった。「あなたを呼んでいる人です」と言った。

誠一は動けなかった。背後の気配は消えなかった。それどころか、少しずつ近づいてくるように思えた。足音はない。匂いもない。ただ空気の密度が変わっていく感覚だけがあった。誠一は弥生のことを思った。弥生だったらどれほど良いか。だがこれは弥生ではないと、体の奥で何かが告げていた。弥生の気配はこんなふうではなかった。弥生はいつも柔らかく、温かく、誠一の横に立つときは少し肩が触れるくらいの距離を保っていた。

背後の気配は、冷たかった。

誠一は意を決して振り返った。

そこには誰もいなかった。だが木々の間の暗がりの中に、何かの輪郭が見えた気がした。人の形をしているが、人よりも少し縦に長い。頭の部分に当たる場所が、わずかに傾いている。それは一秒か二秒のうちに、木の幹の影に溶け込んで消えた。

誠一が女の方へ向き直ると、女はいなかった。

恐山の隣

どこへ消えたのかわからなかった。径を引き返す間、誠一は一度も後ろを振り返らなかった。振り返ったら、また見えてしまう気がしたから。心臓が速く打っていたが、足だけは一定の速度で動いた。参道に出たとき、体中から汗が出ているのに気づいた。八月の終わりとはいえ、恐山の空気は冷たかった。それなのに汗をかいていた。

温泉宿に戻り、夕食を済ませ、風呂に入った。硫黄の温泉は体の芯まで温まるはずだったが、背中の一点だけが冷えたままのように感じた。肩甲骨の間あたり。誰かの手のひらが触れたような場所。誠一は湯の中で何度もその場所を手でこすったが、冷えは取れなかった。

夜中に目が覚めた。

部屋は暗く、宿の建物の中は静まり返っていた。誠一は天井を見つめながら、夢を見ていたことに気づいた。夢の内容はほとんど覚えていなかったが、弥生が出てきた気がした。弥生は何かを言っていた。だが声は聞こえなかった。口が動いているのに、音が出ていなかった。そしてその夢の中で、弥生の後ろに誰かが立っていた。人よりも縦に長い、頭の傾いた何かが。

誠一は起き上がり、枕元の電灯をつけた。

部屋の隅に、着物の女が立っていた。

昼間に出会った、あの女だった。黒い着物。束ねた髪。表情のない顔。女は部屋の入口近くに立っており、誠一を見ていた。いや、正確には誠一を見ていなかった。誠一の少し横、誠一の隣に何もない空間を見ていた。

誠一は声が出なかった。体が動かなかった。

女はゆっくりと口を開いた。「聞こえますか」と言った。

誠一にはやはり何も聞こえなかった。ただ女が視線を向けている空間が、わずかに歪んで見えた。空気が揺らいでいるのではない。空間そのものが、薄い膜のようなものを介して、こちら側とあちら側に隔てられているような感じがした。

「聞こえない」と誠一は言った。声がかすれた。

女は頷いた。「でも、あなたの隣にいます」と言った。

誠一は女が視線を向けている空間を見た。何もなかった。暗い壁と、宿の調度品があるだけだった。だがその「何もなさ」が、今夜だけは少し違う質感を持っているように感じた。弥生の好きだった匂いを思い出した気がした。ほんの一瞬だけ。桜の石鹸の匂い。それは硫黄の匂いにすぐに塗り替えられ、消えた。

女はまた何かを言った。今度は誠一には聞こえなかった。女が話しかけているのは誠一ではなく、誠一の隣の空間だった。女はしばらくその空間に向かって話し続け、それから誠一の方を見た。

「声は聞こえませんでしたか」と女は訊いた。

「聞こえなかった」

「そうですか」と女は言い、それ以上何も言わなかった。

恐山の隣

誠一が次に瞬きをしたとき、女はいなかった。部屋の入口は閉まったままだった。窓も閉まっていた。ただ部屋の空気が、少し変わっている気がした。硫黄の匂いが薄れ、代わりに何か甘いものの残滓のような気配があった。気のせいかもしれなかった。だが誠一はその夜、それ以上眠れなかった。

朝になると、霧はさらに濃くなっていた。

誠一は荷物をまとめ、宿を出た。帰りのバスまで時間があったので、もう一度山門の前に立った。昨日よりも参拝者が少なく、境内はほぼ無人だった。風車が回っている。色褪せた祈りが、静かに空を切っている。

誠一はそこで、昨夜の女のことを宿の主人に話してみた。黒い着物の、表情のない女。山道で会い、夜に部屋に現れた。主人は少し間を置いてから、「それは誰でしょうか」と言った。「この辺りで黒い着物の女の話は聞いたことがありますが、生きている人のことかどうかは、わかりません」と続けた。その答えが、誠一の中でずっと後まで引っかかることになった。

バスに乗り、むつ市へ戻る途中、誠一は窓の外を流れる山の景色を眺めた。霧の中に木々の影が浮かんでは消えた。誠一は弥生の声をまだ思い出せなかった。だが声が聞こえなくなっていることへの焦りが、昨日とは少し違う温度になっていた気がした。声が聞こえないことは、弥生がいないことではない。そのことを誰かに教えてもらったような気がした。誰に教えてもらったのかは、わからなかった。

東京に戻って一週間後、誠一はアルバムを引っ張り出した。弥生の写真が何枚もあった。結婚した年の写真。旅行先で撮った写真。病気になる前の、笑っている写真。誠一はその一枚一枚をゆっくりと見ていった。

そして弥生の笑っている写真の一枚に目が止まった。

誠一の記憶にない写真だった。背景は山の中で、霧がかかっていた。弥生は誠一の方を向いて微笑んでいた。だが写真の端、弥生の少し後ろに、黒い着物を着た女の姿が小さく写っていた。表情はわからない。だが立ち姿が、あの女だと誠一には思えた。

問題は、この写真が、誠一と弥生が一度も東北を訪れたことのない時期に撮られたものだということだった。

撮影日付の印字が、弥生が死ぬ二年前の夏を示していた。

誠一はしばらくの間、その写真を見つめ続けた。窓の外に東京の夜景が広がり、マンションの電灯が室内を均等に照らしていた。弥生の笑顔は変わらなかった。霧の中の黒い影も、変わらなかった。

誠一は写真を閉じなかった。

閉じることができなかった。

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