水が息をしていない夜
AI AI 生成の創作フィクションです(音声・画像も AI 生成)。実在の出来事・人物・団体・場所とは無関係です。

十一月の小樽は、夜になると人気がなくなる。観光客は日暮れ前に散り、石造りの倉庫群は黒く塗り固められた影のように運河の水面に浮かぶ。ガス灯を模したオレンジ色の街灯が並んでいるが、その光はかえって闇の輪郭を際立たせる。水は動かない。風が吹いても、あの運河だけは微動だにしない夜がある。地元の古老はそういう夜を「水が息をしていない」と表現した。
佐久間涼介が小樽に赴任したのは、十月の終わりだった。札幌の出版社から系列の小さな印刷会社に出向を命じられ、倉庫街のほど近くに借りた古い社宅で暮らし始めた。社宅は運河から歩いて三分の場所にあり、二階の窓からは運河沿いの石畳の遊歩道が見えた。秋の観光シーズンが終われば静かになると聞いていたが、実際に静かになった夜の小樽は、静けさの質が違った。音がないのではなく、音が消されているような、そういう沈黙だった。
涼介は写真を撮ることが趣味だった。赴任して最初の週末、彼は一眼レフカメラを持って運河沿いを歩いた。紅葉の残る並木、石畳に反射するガス灯の光、錆びた係留リング。シャッターを切るたびに、自分がこの街を少しずつ理解しているような気分になった。観光写真の定番構図である中央橋からの眺めを撮り終えて、北側に延びる浅草橋方面へ歩いていったとき、運河沿いの石畳の端に、一人の女が立っているのに気づいた。
女は運河に背を向け、涼介の方を見ていた。コートの色は判然としなかったが、黒か濃い紺色のように見えた。髪は肩より少し下まで伸びており、夜風に揺れていた。距離は三十メートルほど。涼介はカメラのファインダーを覗いた。構図の中に女の姿が入った。シャッターを切った。その瞬間、女は振り返り、運河の方へ歩き出した。涼介はカメラを下ろした。女は石畳の縁に立ち、そのまま静止した。水面を見ているのか、あるいは水面の向こうの何かを見ているのか、判断できなかった。涼介は近づくべきかどうか迷ったが、夜の運河沿いで見知らぬ女に声をかける理由もなかった。彼は向きを変え、社宅に戻った。
翌朝、パソコンに写真を取り込んで確認した。運河の写真、倉庫の写真、石畳の写真。女を撮ったカットを開いた。画面の中に、女の姿はなかった。確かにファインダーの中に捉えていた。シャッターを切った感触もあった。しかし画像には石畳と運河だけが写っており、人の姿は一切なかった。涼介は撮影時刻を確認し、前後のカットと見比べた。前のカットには誰もいない石畳。当該のカットにも誰もいない石畳。次のカットにも誰もいない。記憶の中では確かに女がいたのに、カメラはその存在を記録していなかった。
その週は忙しかった。印刷会社の業務は細かく、前任者の引き継ぎも不完全で、涼介は毎晩遅くまで残業した。社宅に戻るのは九時か十時頃で、シャワーを浴びてすぐ眠った。運河の女のことは、仕事の疲労の中に埋もれていった。しかし金曜日の夜、帰宅途中に運河沿いの遊歩道を通ったとき、また女を見た。今度は近かった。十メートルも離れていなかった。やはり黒いコートを着ており、運河の水面を見下ろすように立っていた。涼介は足を止めた。
「すみません」と彼は声をかけた。
女は振り返らなかった。
「大丈夫ですか」
風が吹いた。女の髪が揺れた。コートの裾が揺れた。しかし女の体は揺れなかった。木の幹のように、地面に固定されているように、微動だにしなかった。涼介は一歩近づいた。女の横顔が見えた。目が開いていた。瞬きをしていなかった。運河の水面に視線を固定したまま、瞬きを一度もしていなかった。涼介が「あの」と再び声をかけた瞬間、女は素早く振り返った。素早すぎた。人間が振り返るにしては、首の動きが速すぎた。顔が正面を向いた。
涼介は息を飲んだ。
女の顔は整っていた。三十代前後に見えた。しかし目の焦点が合っていなかった。涼介を見ているようで、涼介の少し後ろの、あるいは涼介を透過した何かを見ているような目だった。唇がかすかに動いた。音は出なかった。涼介は一歩退いた。女はゆっくりと顔を元の向きに戻し、また運河の水面を見下ろす姿勢に戻った。涼介は早足で社宅に戻り、その夜は鍵をかけてから三度確認した。
翌日、涼介は職場の同僚である藤堂という中年男性に、運河で見た女の話をした。藤堂は小樽の生まれで、この街のことを何でも知っているような顔をして暮らしていた。
「運河沿いで夜に女を見た?」と藤堂は言った。「どの辺で。」
涼介が場所を説明すると、藤堂は少しの間黙った。その沈黙は、否定するための言葉を探しているのではなく、何かを思い出しているような沈黙だった。
「昔から言われてるんだ」と藤堂はやがて言った。「運河に入った女の話。ずいぶん前のことらしい。運河の整備工事をする前、まだ水が汚くて暗かった頃に、何度か起きたんだそうだ。水に入って、そのまま出てこなかった。理由は分からない。」
「それが今でも出るということですか」
「出るというか」と藤堂は言い、コーヒーカップを持ち上げた。「見た人が何人かいる、という話は聞いたことがある。見ても関わらない方がいい、とだけ言っておく。」
涼介はその言葉の意味を深く追わなかった。昼間のオフィスで聞く怪談は、夜の運河沿いほどの重みを持たなかった。しかしその夜、社宅の二階の窓から遊歩道を見下ろしたとき、石畳の上に黒いコートの影が見えた。女は遊歩道の真ん中に立ち、社宅の方を向いていた。涼介の窓の方を、まっすぐに見上げていた。
涼介は窓のカーテンを閉めた。
次の夜も、女は遊歩道にいた。今度は社宅の入口の正面だった。涼介は帰宅途中に気づき、入口に向かう石畳の道の途中で立ち止まった。女は入口の前に立ち、涼介の方を向いていた。距離は二十メートルほど。涼介は別の道を迂回して社宅の裏口から入った。部屋に入り、一階の窓から外を確認した。女はまだそこにいた。三十分後に再び確認した。いなかった。どこへ消えたのか、涼介には分からなかった。
涼介は写真の件が気になって、もう一度確認した。女を撮ったカットを、今度は画像編集ソフトで拡大した。石畳の表面、ガス灯の光、運河の水面。何も異常はなかった。ただ、水面の部分を最大まで拡大したとき、涼介は手を止めた。水面に、人影のようなものが映り込んでいた。石畳の上に誰もいないにもかかわらず、水面には人影があった。輪郭は曖昧で、光の歪みかもしれなかった。しかし涼介の目には、女のように見えた。コートを着た、髪の長い女の影が、水の中から上を見上げているように。
その夜から、涼介は眠れなくなった。
社宅の二階は静かだった。街の音も聞こえず、運河の水音も聞こえなかった。しかし深夜の二時か三時頃になると、石畳を踏む足音が聞こえた。規則的な、ゆっくりとした足音だった。涼介は初日、近所の人間だと思った。二日目も同じ時刻に同じ足音を聞いた。三日目に、意を決して窓のカーテンを少し開けた。
遊歩道に人はいなかった。

足音は続いていた。石畳を踏む、乾いた硬い音だった。しかし遊歩道には誰もいなかった。ガス灯の光の下に、石畳が濡れて光っているだけだった。涼介は窓に顔を近づけた。足音が近づいてきた。社宅の真下まで来て、止まった。涼介は窓から下を見ようとした。そのとき、入口のインターフォンが鳴った。
深夜の三時に、インターフォンが鳴った。
涼介はカーテンを閉め、インターフォンのモニターを確認した。白黒の粗い映像に、玄関前が映っていた。誰もいなかった。空の石畳だけが映っていた。インターフォンはもう鳴らなかった。涼介はその夜、朝まで眠れなかった。
翌朝、涼介は藤堂に電話した。昨夜起きたことを話した。藤堂はしばらく黙っていたが、「一度、うちに来ないか」と言った。藤堂の自宅は運河から少し離れた住宅街にあり、その夜涼介は訪ねた。藤堂の妻は席を外し、二人は居間でビールを飲みながら話した。
「正直に言う」と藤堂は言った。「お前さんが借りた社宅、前に借りていた人間が二人いた。二人とも、一ヶ月も経たずに出て行った。理由は聞いていない。会社も深く追わなかった。ただ、二人目が出て行く前に、俺に言ったんだ。夜中に誰かがドアを叩く、と。」
「ドアを。」
「叩く、というより、引っかく、という表現だったな。爪で引っかくような音が、夜中にドアの外からする、と。俺はそのとき、笑って流した。今は笑えない。」
涼介はビールを飲んだ。喉が渇いていた。
「水に入った女の話、もう少し聞かせてもらえますか」と彼は言った。
藤堂は少しの間考えてから、語り始めた。運河の整備が行われる前、昭和の終わり頃の話だという。当時の運河の水は現在よりずっと暗く、倉庫群も今ほど整備されておらず、夜は完全な闇だった。その頃、運河沿いで複数の女性が水に入った。自ら入ったのか、あるいは別の理由があったのかは判然としない。水は浅い部分と深い部分があり、深い部分では底が見えなかった。引き上げられた者もいたが、引き上げられなかった者もいた。地元ではあまり語られない話だが、知っている古老はまだ生きている。
「その女たちが、今も出るということですか」と涼介は言った。
「分からない」と藤堂は言った。「ただ、見た人間の話に共通点がある。最初は遠くで見る。次に近くで見る。そして女が家の方を向き始める。そこまで来たら、その場所を離れた方がいい。」
涼介は黙っていた。
「お前さんは今、どの段階だ」と藤堂は静かに言った。
涼介は答えなかった。答えられなかった。
その夜、涼介は社宅に戻った。荷物をまとめて出て行くべきだと分かっていた。しかし仕事があった。契約があった。現実的な理由がいくつもあり、それらが足を引き止めた。部屋に入り、鍵をかけ、チェーンをかけた。カーテンを全部閉めた。電気をすべて点けた。
午前一時頃、足音が来た。今夜は速かった。遊歩道を近づいてくる足音が、社宅の前で止まった。インターフォンは鳴らなかった。代わりに、ドアの外から音がした。
引っかく音だった。
爪が木の表面を引っかくような、細く長い音だった。涼介は動けなかった。椅子に座ったまま、ドアを見ていた。音は続いた。一定のリズムで、上から下へ、また上へ。涼介はスマートフォンを握りしめた。どこかに電話をかけようとしたが、指が動かなかった。
音が止まった。
静寂が来た。涼介は息をした。長い間、息を止めていたことに気づいた。膝が震えていた。ドアは開いていなかった。チェーンは外れていなかった。部屋の中には涼介一人しかいなかった。
朝になった。涼介はそのまま椅子で眠り込んでいた。白い光が薄いカーテン越しに差し込んでいた。体が痛かった。ドアに近づき、チェーンを外し、少し開けた。廊下には何もなかった。しかしドアの外側の木の表面を確認したとき、涼介は膝から力が抜けた。
引っかき傷があった。

縦に、何本も、ドアの高さの上半分から下半分に向かって走る細い傷。爪の跡にしか見えない細さと深さで、木の塗装を削って、白い木の地肌を露出させていた。涼介はそれを長い間見ていた。
その日、涼介は会社に連絡して午前中の休みを取り、運河沿いを歩いた。昼間の運河は観光客が少なく、十一月の風が冷たかった。石畳は乾いており、倉庫の石壁は灰色だった。水面は今日も動かなかった。涼介は女が立っていた場所に立った。運河の水を見下ろした。
水面に自分の顔が映った。
しかし映り込んだ顔は、少し違った。顔の輪郭は涼介自身のものだったが、表情がなかった。目が開いたまま、焦点が合っていない顔。瞬きをしない顔。涼介は一歩退いた。水面の映り込みも動いた。しかし動き方が、わずかにずれていた。涼介が退いてから、一拍おいて、水面の顔が退いた。
涼介は急いでその場を離れた。
その夜、涼介は荷物をまとめた。最低限の衣類と仕事の書類をバッグに詰め、カメラも入れた。藤堂に電話して事情を話し、しばらく泊めてもらえないか頼んだ。藤堂は即座に了承した。涼介は社宅を出た。夜の九時頃だった。
遊歩道に出た瞬間、女が見えた。
今度は遊歩道の中ほどではなかった。社宅の出口のすぐ前、二メートルも離れていない場所に、女は立っていた。黒いコートを着て、涼介の方を向いていた。あの焦点の合わない目で、涼介を見ていた。いや、涼介を透過して、涼介の後ろにある何かを見ていた。
涼介は声も出なかった。バッグを握りしめ、女の横を通り抜けようとした。
女の横を通った瞬間、冷気があった。十一月の夜の寒さとは別の、水底のような冷たさだった。濡れた石と腐った草の匂いがした。涼介は足を止めなかった。走らなかった。走ったら何かが変わる気がして、早足で遊歩道を歩いた。
振り返らなかった。
藤堂の家に着き、温かい部屋に入り、熱いお茶をもらった。涼介は一時間ほど何も話せなかった。藤堂は何も聞かなかった。やがて涼介は、女の横を通ったときの冷気と匂いの話をした。藤堂は黙って聞いていた。
「匂いがしたか」と藤堂は言った。
「水の匂いでした。古い水の。」
藤堂はしばらく何も言わなかった。居間の時計が音を立てた。外では風が鳴っていた。
「運河の水の匂いだな」と藤堂はやがて静かに言った。「昔の運河の、整備前の水の匂い。今の運河はあんな匂いはしない。」
涼介は黙っていた。
「お前さん、あの水面で自分の顔を見たと言ったな」と藤堂は続けた。「それは良くない。本当に良くない。」
「なぜですか。」
藤堂は答えなかった。代わりに立ち上がり、押し入れから何かを取り出してきた。古い写真の束だった。白黒の、端が黄ばんだ写真。藤堂はその中の一枚を涼介に渡した。
写真には運河が写っていた。整備前の古い運河で、石畳も倉庫の壁も現在とは少し違った。水面が映っていた。そして写真の隅に、人影が写っていた。女の人影だった。黒い服を着た、髪の長い女が、水面を見下ろすように立っていた。写真の日付は昭和六十一年と記されていた。
涼介は写真を見た。女の顔は写真の角度では判然としなかった。しかし輪郭と、コートの形と、髪の長さが、涼介が見ていた女と一致していた。
「これは誰ですか」と涼介は聞いた。

「分からない」と藤堂は言った。「この写真を撮った人間も、もうとっくに死んでいる。ただ、この写真の中の女と、水面の映り込みだけが同じだという話が残っている。」
「水面の映り込みだけが?」
「写真を撮ると、地上には写らない。水面にだけ映る。お前さんが最初に撮った写真、水面に何かあったと言ったな。」
涼介は頷いた。
藤堂は写真を受け取り直した。「水の中にいるから、水面にしか出られない。地上には影しか出られない。でも最後は地上に出ようとする。お前さんが水面で見た自分の顔、動きがずれていたと言ったな。」
涼介は頷いた。
「ずれていたのは、お前さんの顔じゃなかったからだ。」
部屋が静かになった。外の風が止んだ。涼介は藤堂の言葉の意味を考えた。考えながら、考えたくなかった。
その夜は藤堂の家に泊まった。翌日から、涼介は社宅には戻らず、会社に事情を話して別の住居を手配してもらった。上司は渋ったが、涼介が強く求めたため、最終的には運河から離れた場所にある別の物件を用意してくれた。
引越しの日、涼介は業者と一緒に社宅を訪れた。昼間だった。部屋に入ると、窓際の壁に何かがあった。壁紙に、細い引っかき傷が何本も走っていた。ドアの傷と同じ、爪が木を引っかいたような傷だった。しかし壁紙は内側から引っかかれていた。部屋の外からではなく、部屋の内側から。
涼介は業者に何も言わなかった。荷物を出し、鍵を返し、振り返らずに社宅を後にした。
新しい住居は運河から二キロほど離れた場所で、周囲には普通の住宅が並んでいた。涼介は引越し後、しばらくの間は運河の方向には近づかなかった。夜も早く眠り、深夜に目を覚ますことも減った。足音は聞こえなかった。インターフォンも鳴らなかった。引っかく音もしなかった。
しかし一ヶ月が過ぎた頃、涼介は新しい部屋の洗面台の鏡を見て、動きを止めた。
鏡の中の自分が、瞬きをしていなかった。
涼介は目を細めた。鏡の中の自分も目を細めた。涼介は右手を上げた。鏡の中の自分も右手を上げた。しかし目は開いたままだった。焦点が、わずかにずれているような気がした。涼介は自分の目を凝視した。鏡の中の自分の目が、涼介を見ていた。
いや。
鏡の中の自分の目が、涼介の少し後ろの、あるいは涼介を透過した何かを見ていた。
涼介は鏡から目を逸らした。深呼吸をした。もう一度鏡を見た。今度は普通に見えた。瞬きもしていた。焦点も合っていた。普通の自分の顔だった。
涼介はしばらくの間、洗面台の前に立っていた。水道の蛇口から、細い水が流れていた。排水口に吸い込まれていく水の音が、静かな部屋の中でよく聞こえた。涼介はその音を聞きながら、運河の水面で見た自分の顔のことを思った。動きがずれていた顔。瞬きをしなかった目。
蛇口を閉めた。水の音が消えた。
部屋が静かになった。
涼介はもう一度だけ鏡を見た。今度は自分の顔の後ろに、鏡が映す部屋の奥が見えた。薄暗い廊下。閉まったドア。そして。
涼介は鏡に顔を近づけた。
廊下の奥に、何かが立っていた。
