……聞いた話なんですがね。
確かめたわけじゃありませんよ。ただ、去年の冬あたりから、札幌の地下鉄界隈でちらほら囁かれてる話でして。
由美さん、というお名前だったとか。二十代の後半で、中央区のほうに一人暮らしをしてたOLだと。まあ、どこにでもいるような、ごく普通の人だったそうです。
残業が続いていた時期だったらしくてね。十二月の話です。札幌の十二月って、もう本当に冷えますよね。息を吸うたびに肺の中まで凍るような、あの冷たさ。
その夜も仕事が長引いて、南北線の終電ひとつ前の電車に、ようやく乗り込んだそうです。
車内はほとんど誰もいなかったと。端のほうに酔っ払いが一人、ぐったりしてたくらいで。暖房の効いた車内が、かえって静かに感じられるほどだったと言いますね。
由美さんは窓際の席に座って、ぼんやりと外を見ていた。地下鉄ですから、窓の外はトンネルの壁で、暗いんですよ。だから窓ガラスが鏡みたいになる。自分の顔が、ぼんやりと映るわけです。
疲れた顔だなあ、と思いながら眺めていたら……。
自分の、少し後ろに。
影が、あった。
形はそれなりに人の形をしていたそうです。ただ、座っている由美さんの背後に立っているのに、座席の背もたれより、少しだけ、背が低かった。
慌てて振り返ったら、誰もいない。通路は空っぽで、酔っ払いはまだ遠くの端で眠ってる。
見間違い、疲れ目、そう思いたかったんでしょうね。だって他にどう思えます? 深夜の地下鉄で、そんなもの見たって。
電車を降りて、狸小路を歩いて帰ったそうです。積もった雪が街灯に光ってて、踏むたびにきゅっきゅっと鳴る、あの感じ。人通りはほとんどない。
そしたら、前から男の人が歩いてきた。
コートを着て、うつむきがちに歩いてくる。別に不思議な人じゃなかったそうですよ。ただ、すれ違う、その一瞬。
顔を、ちらっと見てしまったんですね。
……目が、なかったそうです。
目があるべき場所が、のっぺりと、塞がれていた。鼻も口も、ちゃんとあるのに。目だけが、皮膚で埋まってた。
でも次の瞬間には、普通の顔をしたサラリーマンがすれ違っていくだけで。由美さんは立ち止まって、遠ざかる背中を見送るしかなかったと。
家に帰ってシャワーを浴びて、気を落ち着かせようとしたらしいんですがね。
浴室の鏡に、自分の顔が映るじゃないですか。湯気で少し曇った、あの鏡に。
……由美さんが言うには。
自分の目が、笑っていたそうです。
口は真一文字で、怖い顔をしてるのに。目だけが、糸のように細く、にやあっと笑っていた。
慌てて目をこすって、もう一度見たら、普通の疲れた自分の顔だったと。
それからしばらく経って、由美さんは職場に来なくなったそうです。連絡もつかなくなった。共通の知り合いが心配して部屋まで行ったら、鍵は開いてたんですって。荷物もそのまま。
ただ、玄関に、雪の跡が残っていたと。
誰かが、外から上がってきたような。それとも、中から出ていったような。
……三月の末、雪が溶けてきた頃の話だそうで。