ねえ、ちょっと聞いてくれる?
三宮の話なんだけどね。北野坂と東門街の間、あのあたりのこと。去年の秋、わたし自身が近くにいたから、なんか他人事に思えなくて。
一緒にいたのはMさんって人で、神戸に十二年住んでる人なの。地元の喫茶店で顔なじみになって、たまにご飯行く仲だった。その人がある夜、仕事帰りに北野坂の方に用があって、一人で歩いたんだって。
十月の終わりの、肌寒い夜。九時を少し過ぎたくらい。わたしはその日、同じ三宮にいたんだけど、Mさんとは別行動で。翌朝、Mさんから連絡が来たの。「昨日、変なことがあって」って。
北野坂を少し上がって、右に折れたところから、おかしくなったって言うんだよね。
何度か曲がったはずなのに、気づいたら同じ電柱の前に戻ってきてる。柱の根元に貼られた古いシール、角が一枚だけ三角形に破れてるやつ、それが目に入った瞬間に「あ、ここさっき通った」ってわかったんだって。でも道は確かに続いてるし、引き返した記憶もない。
笑いながらスマホの地図を開いたら……GPSの青い点が、ぐるぐると、迷子みたいに動いてるの。十分以上歩いてるはずなのに、地図の上ではほとんど同じ場所に立ち止まってるみたいに見えて。
少し焦り始めた頃、ふっと足が止まったって。
路地の奥に、女の人が立ってたんだって。
街灯の光が届かない深さにいるのに、白い服の輪郭だけが、妙に浮いてはっきり見えた。背が高くて、こっちに背中を向けたまま、動かない。立ってるっていうより、置かれてるみたいな立ち方だったって。
Mさん、声をかけようとしたの。「すみません、この辺の道って……」って口を開きかけたとき。
女の人が、振り返ったんだって。
……そこで、Mさんの話し方が変わるの。それまでは割と淡々と話してたのに、そこだけ声が少し、低くなる。
顔を見たかどうかは、言えないって。見たかもしれないし、見ていないかもしれない。ただ、その瞬間に感じたのは、顔じゃなかったって。
においだったって言うの。
生乾きの布の匂い。雨に濡れたまま何日も干せていない衣類の、あの重くて籠もった匂い。秋の夜の冷えた空気の中に、ふっとそれが混ざってきて……鼻の奥にずっと残るような、じとっとした匂い。
次の瞬間には、東門街の入り口に立ってたって。
どうやってそこまで来たか、まったく覚えていない。あの路地がどこにあったのかも、翌日もう一度探しに行ったけど、見つけられなかったって。
……わたしはその話を朝のカフェで聞いたんだけど、コーヒーを持つ手が少し冷えてきて。Mさんの話し方より、Mさんが話さないことの方が、ずっと気になった。
顔のことを聞いたの。一度だけ。
そしたらMさん、カップを置いて、少しだけ視線を下げて、「んー」って笑ったの。笑ったんだけど、笑顔のまま、それ以上何も言わなかった。
それから三ヶ月くらい経って、Mさんは神戸を離れたんだよね。急に、って感じで。理由は仕事だって言ってたけど。
引越しの前日、最後に会ったとき、Mさんのコートの袖から、ほんの一瞬、あの匂いがしたような気がした。
生乾きの、重たい匂い。
気のせいだと思いたいんだけど、今でもたまに思い出す。あの秋の朝のカフェで、Mさんが視線を落としたときの、その少し間のあいた笑顔のことを。