ねえ、聞いてる?
少しだけ、声を落として話すね。
去年の秋のことなんだけど、わたし、あの公園に行ったの。一人で。友達と待ち合わせしてたんだけど、相手が三十分遅れるって連絡してきて、暇つぶしに池のほとりをぶらぶら歩いてた。十月の終わりで、紅葉が始まりかけてた。あの、赤と黄色が水面に映るやつ。きれいなんだけど、なんか妙に静かで、人が多いのに音が遠い感じがする、あの時間帯。
ボート乗り場の前を通ったとき、ちょうど一艘、戻ってくるところだった。若いカップルが乗ってて、女の子が笑ってた。声は聞こえなかったけど、口が動いてた。彼氏のほうが何か言って、彼女がそれに笑い返す。ほんとうに、なんでもない光景。
なのに、わたし、立ち止まっちゃったの。
なんでかな、ってそのときは思わなかったんだけど。後になって考えたら、女の子の笑い方がちょっとだけ、ずれてたんだよね。彼氏の言葉に反応するのが、半拍遅くて。遅れて笑顔になる、みたいな。乗り場のスタッフがロープを受け取って、ボートが止まって、二人が降りた。普通に歩いて行った。それだけ。
でもね。
二人が去った後、ふとボートを見たの。誰も乗ってない、空のスワンボート。白くて、ちょっと古くて、水に浮かんでる。揺れてたの。風もほとんどない日だったのに、小さく、規則正しく。まるで、誰かがまだ漕いでいるみたいに。
気味が悪くて、目を離した。
それで、そのまま友達と合流して、コーヒー飲んで、帰ったんだけど。
帰り道に、さっきのカップルのこと、なんとなく思い出してたの。あの笑い方のずれのこと。弁財天のお社の前を通ったとき——ちょうど池の真ん中あたりにあるじゃない、あの小さな島——そこを過ぎたあたりから、女の子の様子がおかしかった気がして。後から思うとね。
弁財天って、嫉妬深い神様だって言うじゃない。水の女神で、美しいものを愛でる神様で、でも同時に、美しいものを手放さない神様でもあるって。
確かめようがないんだけど。
ただ、あの冬、同じ話を別のところで聞いたの。お社の前あたりで、連れの顔が「少し変だった」って。笑うタイミングがずれてた、目が遠かった、呼んでも一拍遅れた。それで、しばらくして別れた。理由はありふれてた。些細な言い合いで、気づいたら終わってた。
そういう話、何件か聞いた。全部、弁財天の前を通った後の話。
わたしが思うのはね、何かを「壊す」んじゃないと思うの。壊すっていうより——何かが、乗ってくる、んじゃないかな、って。人に、じゃなくて。二人の間に。静かに。
池の水って、何十年も、何百年もそこにあるじゃない。底に何が沈んでるか、水に何が溶けてるか、誰も全部は知らない。スワンボートのオールが水を掻くたびに、波紋が広がるじゃない。あの、静かな波紋。
何かを、起こしてるとしたら。
ひとつだけ、頭に残ってることがあって。あの日、空のボートが揺れてたこと。波もないのに、誰もいないのに、規則正しく揺れてた。
今でも、ときどき思うの。
あのボートに、わたしには見えなかっただけで、何かが座ってたんじゃないかって。静かに、ゆっくり、オールを持って。水面に薄く映る、人の形をしたものが。