水底の顔
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十月の小樽は、観光案内に書かれているような「ノスタルジックな港町」というより、もっと古いものの匂いがした。石造りの倉庫が運河の両岸に並び、水面に映る街灯の黄色い光が、波紋のたびに引き伸ばされてはまた縮む。その繰り返しを眺めていると、自分が今どの時代に立っているのか、わからなくなることがある。写真家の桐島雅也は、そういう感覚を好んでいた。少なくとも、あの夜が来るまでは。
雅也が小樽に来たのは、出版社から依頼された写真集の撮影のためだった。テーマは「北海道の港町に残る明治・大正の建築遺産」。締め切りまで三週間、運河沿いのゲストハウスを拠点に、朝夕の光を追いながら石蔵や橋を撮り歩く予定だった。ゲストハウスの名は「倉庫荘」といい、実際に明治末期に建てられた石造倉庫を改装したものだ。壁の厚さは五十センチを超え、窓は小さく、夜になると外の物音がほとんど聞こえなかった。宿主の老婆、佐久間トメは七十代後半に見えたが、動作が妙に静かで、雅也が気づいたときにはいつも背後に立っていた。
最初の三日間は順調だった。夜明け前に起き出して運河沿いの遊歩道を歩き、日が昇る前の青みがかった光の中で倉庫群を撮る。昼は浅草橋の近くで昼食をとり、午後は中央橋から北運河へと歩いて、石畳の路地や古い煉瓦の壁を切り取った。夕方、日が傾くと水面がオレンジと金色に染まり、倉庫の影が水に溶けていく。その瞬間のために来たのだと、雅也は思っていた。カメラのファインダーを覗くと、世界が整理されて見えた。枠の中に収まったものだけが現実で、それ以外は存在しないも同然だった。
四日目の夜、雅也は夕食後に散歩に出た。運河沿いの遊歩道に立つガス灯風の街灯が、石畳をぼんやりと照らしていた。十月の夜気は冷たく、吐く息が白く立ち上った。観光客の姿はほとんどなく、遠くで若い男女が写真を撮り合っている声が聞こえるだけだった。雅也は中央橋の上に立ち、運河の水面を眺めた。黒い水が静かに揺れ、対岸の石蔵の壁が水面に歪んで映っていた。そのとき、水の中に人影が映っているのに気づいた。橋の上には自分しかいない。しかし水面には、雅也の反射のほかに、もう一つ、細長い影が揺れていた。
振り返っても、誰もいなかった。街灯の光が届かない橋の袂に、闇が溜まっているだけだった。風が運河を渡り、水面の像が乱れた。もう一度水を見ると、余分な影は消えていた。雅也は自分の見間違いだと思った。光の屈折と波紋が作り出した錯覚だと。カメラを持ってきていなかったことが少し悔やまれた。ああいう偶然の像こそ、写真になるのだと思いながら、宿へ戻った。その夜は深く眠れなかった。理由は分からなかった。ただ、眠りに落ちる直前に、水が流れる音が聞こえた気がした。石造りの壁の向こうから、静かに、一定のリズムで。
五日目の朝、雅也は早朝の撮影から戻ると、宿主の佐久間トメに声をかけた。「昨夜、運河に誰かいましたか。橋の近くに」トメは手を止めずに答えた。「この時期、夜は誰もいませんよ。寒いから」その言葉は正しかった。しかしトメが答えながら雅也を見た目が、妙だった。視線が合ったのに、合っていないような。まるでトメの目が、雅也の少し後ろにある何かを見ているような感覚があった。雅也は振り返った。廊下の突き当たり、小さな窓があり、その向こうは運河に面した石壁だった。窓ガラスには何も映っていなかった。

その日の午後、雅也は北運河の方へ歩いた。観光客が多い中央橋付近とは違い、北の方は整備が行き届かず、石畳が剥がれかけていたり、街灯が壊れて暗い区間があったりした。倉庫の壁には苔が張り付き、鉄扉は錆びて半開きになっているものもあった。雅也はそういう場所を好んだ。整えられた美しさより、時間に侵食された物の方が、写真に深みが出る。廃倉庫の壁の前で三脚を立てていたとき、背後で足音がした。石畳を踏む、規則正しい足音。振り返ると、誰もいなかった。足音は止まっていた。雅也は耳を澄ませたが、聞こえるのは遠くを走る車の音と、運河の水が岸壁に当たる音だけだった。
宿に戻ってカメラのデータを確認していると、廃倉庫の壁を撮った一枚に、気になるものが映っていた。壁の表面、苔と錆の模様の中に、人の横顔のような形があった。偶然の染みが作り出した像だ、と最初は思った。しかし拡大してみると、それは横顔というより、こちらを向こうとしている顔のように見えた。目のあるべき場所に、丸く苔が剥げた跡があり、口のあるべき場所に、縦に走るひびが入っていた。雅也はその写真をフォルダに移して、しばらく画面から目を逸らした。こういうものは見る人間の脳が作り出すのだと、知識としては知っていた。しかし知っていることと、感じることは別だった。
六日目の夜、雅也は再び橋に立った。今度はカメラを持っていた。水面の像を撮るためではなく、もし昨夜のような影が現れたなら、それを記録しておくために。運河の水は静かで黒く、ガス灯の光がゆっくりと揺れていた。三十分ほど立っていたが、何も起きなかった。空気が冷えて、指先の感覚がなくなりかけた頃、雅也はカメラを下げて橋を渡ろうとした。そのとき、運河の岸壁の下から、音がした。水を叩くような音ではなく、水の中で何かが動くような、くぐもった音。雅也は欄干から身を乗り出して下を見た。水面は暗く、何も見えなかった。しかし水面のすぐ下、ほんの数十センチの深さのところに、白いものが揺れているような気がした。
次の朝、宿の朝食の席で、雅也は同じく滞在していた客と話した。三十代の男で、名を加藤といい、歴史研究をしているという。加藤は小樽の運河の歴史に詳しく、明治期に掘られた当初は今より幅が広く、荷を積んだ艀が行き来していたこと、戦後に一部が埋め立てられたことを話してくれた。そして何気なく、こう付け加えた。「埋め立ての際に、かなりのものが水の下に残されたそうですよ。荷物だけでなく、ね」雅也はその言葉の意味を直接問わなかった。加藤も、それ以上は言わなかった。二人は黙ってコーヒーを飲んだ。窓の外、運河の水面が光を弾いていた。
七日目、雅也は撮影の合間に、小樽の図書館へ立ち寄った。古い港湾記録や地方新聞の縮刷版を閲覧した。運河の埋め立て工事に関する資料を探しながら、ふと、別の記事が目に入った。昭和三十年代の地方紙で、見出しは「運河沿いにて水死体発見」というものだった。内容は短く、北運河の岸壁付近で身元不明の女性の遺体が発見されたとあった。特徴として「全身が水を含んで膨張しており、顔の判別が困難」と書かれていた。雅也はそのページを写真に撮り、図書館を出た。運河沿いの道を宿まで歩きながら、自分がなぜその記事を撮ったのか、うまく説明できなかった。ただ、撮らずにはいられなかった。

八日目の夕方、光の条件が良く、雅也は中央橋の東側、倉庫が密集した区画で集中的に撮影した。夕日が倉庫の石壁を赤く染め、窓の鉄格子が長い影を落とした。その影の中に立って倉庫の壁を見上げていると、二階の窓に人影が見えた気がした。廃倉庫だ。人が入れるはずがない。しかし確かに、窓ガラスの内側に、人の形をした暗がりがあった。雅也はカメラを構えて窓を撮った。シャッターを切り、液晶で確認すると、窓は空だった。ガラスに映った夕空と、その反射だけがあった。雅也はもう一度窓を見た。肉眼では、また、何かがそこにあるような気がした。しかしカメラには映らなかった。
その夜、雅也は夢を見た。運河の底にいる夢だった。水は黒く冷たく、上を見ると水面が遠く、光がわずかに差し込んでいた。自分の体が重く、動けなかった。そして横を見ると、自分の隣に、女が立っていた。立っているというより、水の中に直立して漂っているという方が正しかった。女の顔は見えなかった。髪が水の中で広がり、顔を覆っていた。しかし女はこちらを向いていた。そのことだけは、はっきりと分かった。雅也は叫ぼうとしたが、水が口に入るだけだった。目が覚めたとき、喉が痛かった。部屋は暗く、石壁の向こうから、水の音がしていた。
九日目の朝、雅也は加藤に昨夜の夢を話した。加藤はしばらく黙ってから、静かな声で言った。「この宿、もとは何の倉庫か、知っていますか」雅也は知らなかった。加藤は続けた。「明治の末から昭和の初めまで、ここは漁具の倉庫でした。でも戦時中の一時期、別の用途で使われていたという話が残っています。詳しくは、記録がないんですが」加藤はそこで言葉を切り、コーヒーカップを置いた。「記録がない、というのが、一番怖いんですよね」雅也はその意味を問わなかった。問えば、答えが来てしまう気がした。答えが来れば、それが現実になる気がした。
十日目の夜、雅也は眠れなかった。深夜二時を過ぎた頃、部屋の中に水の匂いがした。運河の水の匂いだった。腐泥と塩と、もう一つ、うまく言葉にできない何かが混ざった匂い。窓は閉まっていた。ドアも閉まっていた。それでも匂いはそこにあった。雅也はベッドの上に座ったまま、じっとしていた。やがて、部屋の隅が暗くなった気がした。もとから暗いのに、さらに暗くなるという感覚。その暗がりの中に、形があるような気がした。人の形。水の中で見た、あの女の形。雅也は目をつぶった。長い時間、目をつぶっていた。目を開けると、部屋は元の暗さに戻っていた。匂いも、消えていた。
十一日目、雅也は撮りためた写真を整理した。三百枚を超える写真を一枚ずつ確認していくと、気づかなかったものが見えてきた。運河の水面を映した写真に、波紋とは違う模様が水中に浮かんでいるものがいくつかあった。白い、曖昧な形。廃倉庫の壁を撮った写真には、苔の模様の中に、複数の顔のような形が浮かんでいた。最初に気づいた一枚だけでなく、別の角度から撮った写真にも、別の壁を撮った写真にも。そして、中央橋から夕暮れの運河を撮った一枚に、橋の欄干の外側、水面との間の空間に、何かが写っていた。白くぼやけた、細長い形。人の上半身のような。水から出て、欄干に手をかけているような。
雅也はその写真を見て、長い間、動けなかった。手が震えていた。写真を拡大すると、像はより曖昧になり、それが何であるかを断言することはできなかった。光の反射かもしれない。霧が出ていたかもしれない。しかし雅也には分かった。あの夜、橋の上に立っていたとき、欄干に手をかけた何かが、水の中から自分を見上げていたのだと。そしてそのとき、自分がカメラを下げて橋を渡ろうとしたのは、何かに促されたからではなかったか。水面を見すぎた。運河の底を、あまりに長く覗き込んでいた。深いところから、何かが雅也を引き寄せようとしていたのではないか。

雅也は宿を出ることを決めた。撮影は終わっていなかったが、もう十分だと思った。荷物をまとめながら、宿主のトメに翌朝のチェックアウトを告げた。トメは静かに頷き、それから雅也の顔ではなく、少し後ろを見るような目で言った。「お気をつけて。夜の運河は、見るものじゃありません」雅也は礼を言い、部屋に戻った。トメがそれを最初から知っていたなら、なぜ最初に言わなかったのか。しかし雅也にはもう、その問いを追う気力がなかった。
翌朝、早い時間に宿を出た。まだ夜明け前で、空は濃紺だった。駅へ向かうため、運河沿いの遊歩道を通る必要があった。避ければ遠回りになる。雅也は早足で歩いた。中央橋の手前まで来たとき、橋の上に人影が見えた。女だった。欄干に背を向け、運河の方を向いて立っていた。黒い髪が風もないのに揺れていた。雅也は立ち止まった。女は動かなかった。雅也は橋を渡らずに、遠回りの道を行くことにした。駅まで余分に十分かかった。電車の中で、雅也はカメラのバッグを膝に抱えたまま、窓の外を見続けた。窓に、自分の顔が映っていた。
札幌に戻り、アパートで写真の整理を再開した。小樽で撮ったすべての写真を、もう一度確認した。最後の夜明け前、宿を出るときに何枚か撮っていた。習慣で、無意識にシャッターを切っていたらしかった。運河沿いの遊歩道、まだ暗い石畳、ガス灯の光。その中の一枚に、中央橋が映っていた。橋の上は、空だった。女の姿はなかった。しかし橋の下、岸壁と水面の間、街灯の光が届かない暗がりに、白い形があった。欄干に手をかけているような、水から上がろうとしているような。雅也は写真を閉じた。小樽で撮ったすべてのファイルを、フォルダごとゴミ箱に入れた。削除を実行した。
それから二週間が経った。出版社からの催促の電話に、雅也は撮影が失敗に終わったと伝えた。担当者は驚き、もう一度行けないかと言ったが、雅也は断った。その後、雅也は仕事をしていない。カメラを開かない。ファインダーを覗くと、世界が枠の中に収まる。枠の中だけが現実になる。それが怖かった。もし枠の中に、映ってはいけないものが映ったなら。あるいはもっと悪いことに、映るべきものが、映っていなかったなら。
ある夜、雅也はアパートの洗面台で顔を洗った。顔を上げて鏡を見た。自分の顔が映っていた。濡れた顔、疲れた目。それだけだった。雅也は息をついた。鏡を見続けた。水道の水が排水口に吸い込まれていく音が聞こえた。その音が、一定のリズムで、静かに、小樽の運河の水の音に似ていた。雅也は蛇口を閉めた。水音が止まった。鏡の中の自分が、まだそこにいた。雅也はゆっくりと視線を外した。外したとき、鏡の端に何かが映った気がした。白い、細長い、濡れた何かが。しかし振り返っても、洗面台の周りには何もなかった。何も。ただ、床が少し濡れていた。雅也が顔を洗う前から、そこにあったのかどうか、思い出せなかった。