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運河の底に沈む声

AI AI-generated fiction — text, and any narration or images. Unrelated to any real events, people, organizations, or places.

運河の底に沈む声

十月の小樽は、観光客が引き潮のように消えてゆく季節だった。石造りの倉庫群が運河に影を落とし、水面はオイルのように黒く、夜になると街灯の橙色がにじんで溶けた。宮下拓海がこの街に来たのは、仕事でも観光でもなく、ただ逃げるためだった。東京での失敗、友人との絶縁、恋人の去り際に残した「あなたには何も見えていない」という言葉。それらすべてから距離を置きたくて、彼は新千歳空港から電車に乗り、小樽駅で降りた。宿は運河沿いの古い民宿で、かつては石炭問屋だったという建物を改装したものだった。

民宿「倉見荘」の女将、嵯峨野という六十がらみの女は、チェックインの際に奇妙なことを言った。「運河沿いを夜に歩くなら、水を覗き込まないでください」。拓海が理由を問うと、彼女は薄い唇を引き結んで、「昔からそういう言い伝えがあるんです」とだけ答えた。観光地の演出だろうと拓海は思った。小樽は港町であり、海と運河にまつわる民話が多い。彼はそれ以上深く考えずに、二階の角部屋へと案内された。窓の外には運河が真っ直ぐに伸び、対岸の石造り倉庫が水面に逆さまに映っていた。

その夜、拓海は眠れなかった。東京から持ち込んだ不眠の癖が、ここでも尾を引いていた。時計が深夜一時を過ぎたころ、彼は上着を羽織って外へ出た。十月の小樽の夜気は刃のように冷たく、吐く息が白くなった。運河沿いの遊歩道は誰もおらず、石畳が濡れて光っていた。街灯は等間隔に並んでいたが、そのうちの一本が瞬いていた。拓海はゆっくりと歩いた。水の匂いがした。海の匂いとは違う、閉じ込められた水の匂いだった。

運河の中ほどまで歩いたとき、彼は水面に何かが映っているのに気づいた。街灯の反射とは別の、白いもの。最初は紙か袋が浮いているのだと思った。しかし近づいてみると、それは人の顔だった。水面の下から、こちらを見上げている顔。目は閉じられていて、長い黒髪が水中に広がっていた。若い女の顔のように見えた。拓海は息を飲んで立ち止まった。溺死体か、と思って辺りを見回したが、人影はなかった。もう一度水面を見ると、顔は消えていた。波紋すら残っていなかった。

翌朝、拓海は女将に昨夜のことを話した。嵯峨野はコーヒーを注ぎながら、表情を変えずに聞いていた。「それは見てはいけないものを見たんです」と彼女は言った。「運河には昔から、沈んだものがあります。物だけじゃなく、人の念というか。戦前、この街が炭鉱と港で栄えていた時代に、運河で亡くなった人たちの話が残っています」。拓海は苦笑した。「幽霊だと?」「幽霊とは少し違います」と嵯峨野は言った。「あれは鏡なんです。水面は鏡で、映すものを間違えることがある」。その言葉の意味を、拓海はそのときまだ理解できなかった。

二日目の夜も、拓海は運河へ引き寄せられた。自分でも奇妙だと思いながら、足が勝手に遊歩道へ向かった。今夜は曇り空で、月は見えなかった。運河の水は昨夜より黒く、底が存在しないように見えた。拓海は欄干に手をかけて水面を見た。最初は何も映っていなかった。しかし三十秒ほど見つめていると、また現れた。今度は顔だけではなかった。水の中に、一つの光景が広がっていた。石造りの倉庫が並ぶ街並みが映っていたが、それは今の小樽ではなかった。建物の様式が古く、人々の服装が戦前のものだった。そして水の中の街で、人々が走っていた。何かから逃げるように。

運河の底に沈む声

拓海は水面から目を離せなかった。水中の光景は動いていた。走る人々の中に、先ほどの白い顔の女がいた。彼女は逃げているのではなく、立ち止まってこちらを見ていた。水の向こうから、確かにこちらを見ていた。拓海は気づいた。その女の顔が、どこかで見た顔に似ていることに。恋人の顔ではなかった。もっと古い記憶の中の顔。幼いころ、まだ祖母が生きていたころに見せてもらった、古い白黒写真の中の顔に似ていた。拓海の祖母の、若い頃の顔に。

背筋が凍った。それは恐怖というより、説明のつかない感覚だった。祖母は北海道の出身だと聞いたことがあった。しかし詳しいことは何も知らなかった。祖母は拓海が十歳のときに亡くなり、家族はあまり過去を語らなかった。水面の女は口を動かしていた。声は聞こえなかったが、唇の形から、拓海は一つの言葉を読み取った気がした。「もどれ」。もどれ、というのが、どこへ帰れという意味なのか、それとも引き返せという警告なのか、彼にはわからなかった。

その夜から、拓海の時間の感覚がおかしくなり始めた。朝食を食べたと思ったら、もう夕方になっていた。散歩に出て気づいたら、見知らぬ路地に立っていた。小樽の地図を持っていたが、自分がどこにいるのかがわからなかった。石造りの倉庫が続く堺町通りを歩いていたはずが、いつの間にか色内大通りに出ていたり、運河の北端にいたはずが南端に立っていたりした。街が自分を動かしているような、奇妙な感覚だった。民宿に戻ると、嵯峨野が心配そうな顔で拓海を見た。「顔色が悪いですよ」と彼女は言った。「もう帰った方がいいかもしれません」。

「帰れない」と拓海は言った。自分でも驚くほど、その言葉は自然に出てきた。「何かが、ここに引き留めているんです」。嵯峨野はしばらく黙っていたが、やがて奥の部屋から古い写真帳を持ってきた。「うちの倉見荘は、戦前からこの場所にあります。先代の先代から記録をとっていて」と彼女は言いながら、写真帳を開いた。昭和初期と思われる白黒写真が並んでいた。運河沿いの街並み、石炭を運ぶ労働者たち、倉庫の前に立つ人々。「この方を、ご存知ですか」と嵯峨野は一枚の写真を指さした。

写真の中に、若い女が立っていた。運河を背景に、まっすぐカメラを見ている女。その顔を見た瞬間、拓海の手が震えた。水面で見た顔と同じだった。そして祖母の若い頃の写真と、ほとんど同じ顔だった。「この女性は、宮下ハナさんといいます」と嵯峨野は静かに言った。「昭和十四年に、運河で亡くなりました。当時、この辺りで働いていた方で、事故か自らの意志かは、今も分かっていません。宮下という苗字の方が来たのは、あなたで初めてです」。

運河の底に沈む声

拓海の耳の中で、何かが鳴った。血の音か、水の音か、区別がつかなかった。宮下ハナ。自分と同じ苗字。祖母の旧姓が何だったかを、彼は知らなかった。父に電話しようとしたが、スマートフォンの電波が入らなかった。民宿の固定電話を借りようとしたが、受話器を取ると、何も聞こえなかった。無音ではなく、水の中にいるような、低くくぐもった音だけが続いていた。嵯峨野は「夜になったら、また運河へ行こうとするでしょう」と言った。「でも今夜だけは、部屋にいてください。今夜は違います」。

拓海は部屋に戻った。窓の外の運河を見ないように、カーテンを閉めた。布団に横になったが、眠れるはずがなかった。深夜になると、窓の外から音がした。水音ではなかった。足音だった。石畳を歩く、規則的な足音。それが一人ではないと気づいたのは、足音の数が増えていったからだった。二人、三人、やがて十人以上になった。足音は窓の外を通り過ぎるのではなく、民宿の前で止まった。拓海はカーテンを少し開けて外を見た。

運河沿いの遊歩道に、人々が立っていた。十数人、いや、もっと多いかもしれなかった。全員が古い服装で、全員がこちらを向いていた。街灯の光の中で、彼らの顔は白く、影のように平たく見えた。先頭に、あの女が立っていた。宮下ハナだと思われる女が。彼女だけが動いていた。ゆっくりと、民宿の入口の方へ歩いていった。拓海は動けなかった。部屋のドアの向こうで、階段を上る音がした。一段、また一段。廊下を歩く音がした。そしてドアの前で、止まった。

ノックはなかった。ただ、ドアの隙間から、水の匂いがした。冷たく、閉じ込められた水の匂いが、部屋に満ちた。拓海は布団の中で目を閉じた。逃げることも叫ぶこともできなかった。恐怖とは違う感覚が、彼の体を満たしていた。懐かしさ、と呼ぶしかない感覚だった。祖母の家の畳の匂いを思い出した。幼いころ、祖母に手を引かれて歩いた記憶。祖母が何も話さなかった理由が、今ならわかる気がした。語れないものがあったのだ。水の底に沈めておかなければならないものが。

夜明け前に、拓海は目を覚ました。部屋は静かで、水の匂いは消えていた。ドアは閉じたままだった。窓の外の運河は静かで、遊歩道には誰もいなかった。まるで何もなかったかのように、小樽の朝が始まろうとしていた。カラスが一羽、倉庫の屋根で鳴いた。拓海は窓を開けた。冷たい朝の空気が入ってきた。運河の水面に、空が映っていた。灰色の空と、その端が少しだけ明るくなっていた。水面には何も映っていなかった。何も。

朝食の席で、嵯峨野は何も聞かなかった。拓海も何も話さなかった。ただ、彼は箸を置いて「昨夜、部屋の前に誰か来ましたか」と聞いた。嵯峨野は少し間を置いてから「さあ」と言った。その「さあ」の言い方が、知らないという意味ではないことは、拓海にもわかった。食事を終えて、拓海は荷物をまとめた。チェックアウトの際に、嵯峨野は小さな封筒を手渡した。「これを。うちに預けてあったものです。いつかこの苗字の方が来たら渡すようにと、先代から言われていました」。封筒の中には、折りたたまれた古い便箋が一枚入っていた。

運河の底に沈む声

便箋には、震える文字で短い言葉が書かれていた。文語体の古い日本語で、拓海には読みにくかったが、ゆっくり解読すると、こう書いてあった。「水に映るものを、恐れるな。水は覚えている。忘れることが罪ならば、覚えていることが罰なのかもしれない。ただ、知りなさい。あなたが今立っている場所の下に、何が沈んでいるかを」。署名はなかった。筆跡は、祖母のものに似ていると、拓海は思った。しかし確かめる術はなかった。

拓海は運河沿いを歩いて駅へ向かった。石畳の遊歩道を歩きながら、欄干に手をかけて水面を見た。今は何も映っていなかった。ただの水だった。しかし彼はもう知っていた。水面が鏡であることを。そして鏡は、映すべきものを選ぶことがあるということを。小樽駅のホームに立ったとき、彼は初めて父に電話した。電波はつながった。「父さん、祖母の旧姓って、何だったっけ」と彼は聞いた。電話の向こうで、父が少し黙った。「なんで急に」と父は言った。「いいから、教えて」。また沈黙があった。そして父は言った。「宮下だよ。お祖母ちゃんの旧姓は宮下だ。北海道の小樽の出身で、若い頃に何かあって東京に出てきたって聞いてるけど、詳しいことは誰も知らない」。

電車が来た。拓海は乗り込んで窓際の席に座った。電車が動き出すと、窓の外に運河が見えた。石造りの倉庫が続き、水が光を反射していた。観光案内のパンフレットには「ロマンチックな景観」と書いてある、あの運河が。拓海は窓ガラスに額を当てて、遠ざかる水面を見た。そこには何も映っていなかった。しかし彼はもう、その「何も映っていない」という状態が、本当に何もないということではないと知っていた。水は覚えている。水は忘れない。沈んだものは沈んだまま、底にある。人が忘れても、水だけが覚えている。そして時々、水は映す。映すべき人が来たときだけ、底に沈んだものを、水面に浮かび上がらせる。

電車が加速した。小樽の街が窓の外で小さくなっていった。石造りの倉庫群、運河、そして水面に映る空。拓海は目を閉じた。まぶたの裏に、あの女の顔が浮かんだ。宮下ハナの顔。祖母の若い頃の顔に似た、水の底の顔。彼女の口が動いた。「もどれ」。今度はその言葉の意味が、少しだけわかった気がした。もどれというのは、帰れという意味ではなかった。思い出せ、という意味だったのかもしれない。忘れられたものの場所へ、意識を戻せ、という意味だったのかもしれない。しかし拓海には、それが救済なのか呪いなのか、まだわからなかった。たぶん、一生わからないだろうと、彼は思った。

新千歳空港行きの電車の中で、拓海は便箋をもう一度読んだ。「水は覚えている」。彼はその便箋を折りたたんで、胸ポケットにしまった。東京に帰っても、この街の水の匂いは消えないだろうと思った。石炭と塩と、閉じ込められた時間の匂い。小樽運河の水は今も流れている。いや、運河の水は流れない。溜まっている。ただ、溜まって、覚えている。底に沈んだすべてのものを。その夜、東京に戻った拓海のアパートの窓から、遠く、川が見えた。川の水面に、街灯の光がにじんでいた。拓海はカーテンを閉めようとして、止まった。水面に、何かが映り始めていた。

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