顔のない女と祇園の路地
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七月の終わり、祇園祭の後祭が終わって三日が経っていた。
京都の夏は特別な重さを持つ。湿気が石畳に染み込み、昼間の熱が夜になっても地面の奥から這い上がってくる。観光客が帰り、祭の提灯が仕舞われると、祇園の裏通りはまた元の顔に戻る。それは京都が観光案内に載せる顔ではなく、何百年も前から変わらずそこにあり続けてきた、もっと古い、もっと静かな顔だった。
フリーライターの田中誠二は、雑誌の依頼で祇園の「知られざる路地」を取材していた。三十四歳、独身。仕事上の締め切りに追われ続けた結果、感覚が少しずつ鈍くなっていることを自覚していた。編集部からは「地元の人しか知らない路地の風情を撮ってきてほしい」という漠然とした指示だけ渡され、宿は四条河原町のビジネスホテルに一週間分押さえてあった。
最初の三日間は順調だった。花見小路の外れから南へ折れ、人力車も入れないような細い路地を歩き回り、苔むした石灯籠や傾いた格子戸を撮影した。地元の老婆に声をかければ茶を出してもらえることもあった。京都の人は排他的だと聞いていたが、誠二が感じたのはむしろ深い静けさだった。都市の喧騒と隔絶された、時間の流れが違う場所。それが祇園の裏通りだった。
四日目の夜、誠二は少し道に迷った。
花見小路から東へ入り、白川沿いを北に歩いてから、また細い路地に分け入った。石畳が途切れ、砂利混じりの地面になる手前で右に折れると、両側を板塀に挟まれた通路があった。地図アプリには載っていない道だった。幅は大人二人が並んで歩けるかどうかという程度で、頭上には隣家の軒が迫り、夜空をごく細い帯状に切り取っていた。七月の終わりにしては珍しく月が出ていて、その光が板塀の上端だけを白く照らしていた。
誠二はカメラを構えた。路地の奥の方に、提灯の明かりがあった。
祭は終わったはずだった。しかしそれは確かに橙色の光で、丸い提灯の形をしていた。揺れてはいない。ただそこに、ぽつりと灯っていた。
誠二は歩み寄った。路地を進むほど、砂利の音が大きく聞こえた。自分の足音のはずなのに、少し遅れて返ってくるような気がした。エコーだろうと思った。板塀が近いのだから、音が反響するのは当然だ。
提灯の下に、女が立っていた。
着物姿だった。黒地に白い花の模様で、夏の薄物ではなく、どちらかというと秋の柄に見えた。年齢は判断しにくかった。白粉を塗っているのか、顔が月光よりも白く、提灯の橙色の中でも青みがかって見えた。髪は黒く、高く結い上げてあった。芸妓か舞妓かと思ったが、何か違う。輪郭が、少しぼやけているような気がした。
「迷子どすか」
声は低く、しかし静かで、石畳に水が沁みていくような声だった。
誠二は会釈して、取材の名刺を差し出した。女は受け取らなかった。受け取らなかったのではなく、手を出す気配がまったくなかった。ただ誠二の顔を見ていた。その目が、提灯の明かりを反射していた。橙色の点が、瞳の中で揺れもせずに光っていた。
「写真を撮っていいですか」と誠二は言った。
女はゆっくりと首を傾けた。肯定とも否定とも取れる動きだった。
誠二はシャッターを切った。
カメラのモニターに映った女は、提灯の明かりの中に立っていた。しかし顔の部分だけが、なぜかぼやけていた。手ぶれではない。背景の板塀も提灯もくっきり写っているのに、女の顔の輪郭だけが滲んで、まるで長時間露光のように広がっていた。
「おかしいな」と呟いて、もう一枚撮ろうとしたとき、女が言った。
「お客さん、ここは長居するところやおへん」
誠二は顔を上げた。
女はもういなかった。
提灯だけが、路地の奥に残っていた。
誠二は少し笑って、「芸妓さんの仕事中だったかな」と一人ごちた。立ち去り方が早すぎるとは思ったが、それより何より、帰り道を確認することが先だった。路地を引き返し、砂利を踏んで板塀の外に出ると、白川の水音が聞こえた。方向感覚が戻り、誠二はホテルへ向かった。
その夜は眠れなかった。

理由がわからなかった。疲れているはずだった。しかし目を閉じると、女の顔が浮かんだ。いや、正確には顔が浮かばなかった。白粉の白さと、高く結った黒髪と、提灯の橙色だけが浮かんで、顔の中央部分だけがぽっかりと空白になっていた。夢で見たわけでもない。目を開けていても、その空白が視界の端にちらついた。
翌朝、カメラのデータを確認すると、問題の写真は撮れていなかった。
いや、正確には、ファイルは存在していた。しかしそれを開くと、画面全体が均一な暗灰色で埋まっていた。露出の失敗でも、データの破損でもない。何か別のものだ。誠二は首を振って、もう一度その路地を探しに行くことにした。昼間なら、落ち着いて確認できる。
しかし昼間、その路地は見つからなかった。
前日に入った場所の検討はついていた。白川沿いから東に折れた辺り。しかし何度歩いても、板塀に挟まれた通路が出てこなかった。それに似た路地はあった。しかしどれも少し違った。砂利がなかったり、幅が広すぎたり、突き当たりがあったりした。
誠二は地元の不動産屋に入り、この辺りの古地図を見せてもらえないかと頼んだ。店の主人、六十代の男性は快く応じてくれたが、誠二が示した場所の辺りを見て、首をひねった。
「ここはずっと宅地ですわ。路地なんか、昔から通り抜けできひんはずですけどなあ」
誠二は礼を言って店を出た。
その夜また、同じ場所へ行った。
今度は昨夜よりも慎重に歩いた。白川に沿って北上し、橋を渡り、細い路地に入る。砂利の音がした。そして両側に板塀が迫り、頭上の夜空が細い帯になった。
路地はあった。
そして奥には、提灯の光があった。
誠二は立ち止まった。昨夜と同じ光景だった。まったく同じ。提灯の位置も、その橙色の濃さも、揺れのなさも。違うのは、今夜は月が出ていないことだった。だから路地はさらに暗く、提灯の光だけが浮かんでいた。
女は今夜もそこにいた。
同じ着物、同じ白さ、同じ高い髷。そして今夜は、誠二の方に少し近かった。昨夜は路地の突き当たり近くに立っていたはずが、今夜は路地の中程にいる。誠二がいつの間にか奥まで歩いてしまったのかと思ったが、後ろを振り返ると、路地の入口はまだ十分に近かった。
「また来はったんどすか」
同じ声だった。低く、静かで、沁み込むような声。
「昨夜の写真が撮れていなくて」と誠二は言った。我ながら間抜けな返答だと思ったが、それ以外に言いようがなかった。
女は答えなかった。
誠二はカメラを向けた。今度はしっかりとピントを合わせて、シャッタースピードも上げて、ストロボも焚いた。白い光が路地に弾けて、一瞬、すべてが白く飛んだ。目を細めた。
目が慣れたとき、女の顔を初めてはっきりと見た。
顔がなかった。

白粉で塗り固められた平面があるだけだった。目も、鼻も、口もない。ただ白い、卵のような面が、着物の上の首の上に乗っていた。それは能面でも仮面でもなかった。肌の質感があった。毛穴の細かさも、首筋の筋の走り方も。ただ、顔のパーツが一つもなかった。
誠二は声を出せなかった。
足が動かなかった。
女が一歩、近づいた。砂利の音がしなかった。足音がまったくしなかった。それなのに確実に距離が縮まり、誠二は今、女の白い顔のない顔から一メートルも離れていないところに立っていた。女から香りがした。線香ではない。もっと古い、土の中に長くあったものの匂い。乾いた木の匂い。棺の底の匂いを誠二は知らなかったが、もし知っていたとしたらきっとこれだと思った。
「お客さんは、ここで何を探してはりますか」
女の顔には口がなかった。しかし声は確かに女から発せられていた。どこから出ているのかわからない。あるいは声ではなく、音が空気に直接刻まれているのかもしれなかった。
誠二はカメラを胸に抱えたまま、後退した。一歩、また一歩。砂利が鳴った。自分の足音だけが、異様に大きく聞こえた。
女は追ってこなかった。
ただ立っていた。提灯の光の中に。顔のない顔を誠二に向けて。
路地の入口に出た瞬間、誠二は走った。白川の橋を渡り、車通りに出て、ようやく足を止めた。膝が震えていた。呼吸が整わなかった。タクシーが来たので、反射的に手を上げて乗り込んだ。行き先を告げる声が、自分でも聞き取れないほど掠れていた。
ホテルに戻り、シャワーを浴び、ベッドに入った。
眠れなかった。
今夜もまた、女の白い面が視界の奥に浮かんだ。しかし今夜は顔がないことがわかっているので、空白を想像しようとする必要がなかった。代わりに、その白い平面が、近づいてくる。近づいてくる。目を開けても閉じても、近づいてくる。
翌朝、誠二はチェックアウトを決めた。
取材は途中だったが、編集部に電話して体調不良を伝えた。嘘ではなかった。手が微妙に震えていたし、食欲がなかった。編集者は気遣う言葉をかけてくれたが、誠二の頭には入らなかった。
荷物をまとめながら、昨夜の写真を確認した。
ストロボを焚いた写真が、一枚だけ残っていた。
路地が白く飛んでいた。板塀が、砂利が、提灯が、白い光の中に浮かんでいた。そして着物姿の女が、路地の中程に立っていた。
顔の部分は、今回は滲んでいなかった。
ただ、何もなかった。
白い楕円が、首の上にあった。それだけだった。
誠二はファイルを削除しようとして、やめた。代わりにスマートフォンのカメラロールに移し、クラウドに自動バックアップされる設定になっていることを確認した。なぜそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。
京都駅で新幹線を待つ間、誠二は在来線のホームから祇園の方角を見た。見えるはずがない。ただ京都の街が、夏の白い空の下に広がっていた。
新幹線に乗り、シートに深く沈んだ。車窓を流れる景色を眺めていると、少しずつ緊張が解けてきた。夏の疲れが出たのだ、と誠二は思った。あるいは何かの見間違い。光の加減、あるいは祭の後の独特の空気感。京都という街には、人を錯覚させる何かがある。それだけのことだ。
車内のトイレに立ったとき、洗面台の鏡を見た。
誠二の顔が、そこにあった。
当然だった。

しかし誠二はしばらく、その顔を見つめた。目があり、鼻があり、口がある。それが当然のことなのに、今この瞬間、それが奇妙に感じられた。なぜ顔というものはここにパーツが揃っているのか。なぜ目がここにあり、口がここにあるのか。その配置が、突然、ひどく恣意的なものに見えた。
誠二は首を振って、トイレを出た。
席に戻り、目を閉じた。
東京に着いたら、まず飯を食って、風呂に入って、早く寝よう。
それだけを考えた。
車窓に映る自分の顔を、誠二はなるべく見ないようにした。
東京の自室に帰ったのは夕方だった。鍵を開け、荷物を床に投げて、冷蔵庫からビールを取り出した。ソファに座り、テレビをつけた。ニュースが流れていた。普通の、東京の夜のニュースだった。
スマートフォンが震えた。
クラウドのバックアップ完了通知だった。例の写真が、クラウドに保存されたという通知だった。誠二はアプリを開き、その写真を確認した。
写真の中の女は、変わらずそこに立っていた。
しかし誠二は今、ある違和感に気づいた。昨夜路地に入ったとき、女は路地の中程にいた。しかし写真の中では、女はずっと奥にいる。路地の突き当たりの近くに。昨夜の最初の位置と同じ場所に。
ということは、あの後も女は動いていたのか。誠二がカメラを構えてストロボを焚いた瞬間、女はまだ突き当たりにいて、それから一歩近づいてきたのか。
誠二はその可能性を考えた。
そして次の瞬間、別の可能性が浮かんだ。
ストロボを焚いた白い光の中で、誠二は女の顔のない顔を見た。一メートルも離れていないところで。しかし写真には、女は遠く離れたところに写っていた。
では、一メートルの距離にいたものは何だったのか。
ビールの缶が、誠二の手の中で汗をかいていた。テレビから笑い声が流れていた。東京の夜は、何も変わらず続いていた。
誠二はスマートフォンを伏せた。
しばらくしてからまた手に取り、写真をもう一度開こうとした。
開く直前に、気づいた。
写真の中の女の、高く結った黒髪の後ろに、もう一人分の白い面が写っていた。提灯の光の届かない暗がりの中に、顔のない白い楕円が、こちらを向いて、浮かんでいた。
誠二がいた場所の方を向いて。