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裏木戸の通り

AI AI-generated fiction — text, and any narration or images. Unrelated to any real events, people, organizations, or places.

裏木戸の通り

夏の盛りを少し過ぎた京都は、観光客の熱気が薄れ始める頃に、奇妙な静けさを取り戻す。八月の末、写真家の村瀬浩二は仕事の依頼を受けて祇園の路地に踏み込んだ。依頼は単純なものだった。古い町並みを撮影し、来年発行される京都案内の冊子に使う写真を数十枚納めること。期限は一週間。宿は花見小路から歩いて五分ほどの小さな旅館で、建物は築百年以上の古民家を改装したものだった。旅館の女将は六十がらみの小柄な女性で、村瀬が玄関に立つと、まるで長年待っていた客を迎えるように、静かに深く頭を下げた。

部屋は二階の奥にあった。窓を開けると、隣家の瓦屋根と、その向こうに細く切り取られた夏の夕空が見えた。鴨川の水音がどこかから届くような気がしたが、ここから川まではかなりの距離がある。音の正体は判然としないまま、村瀬は荷をほどき、明日の撮影ルートを手帳に書き込んだ。石畳の小道、白壁の塀、格子戸の並ぶ通り。雑誌で見るような絵になる場所ばかりだが、彼が狙いたいのは観光写真集には載らないような、少し翳った路地の表情だった。光が届きにくい場所、人の視線が届きにくい場所。そういう隙間にこそ、京都の本当の顔が潜んでいると、村瀬は長年の経験から信じていた。

翌朝、早起きして旅館を出た。夏の京都は朝の六時でも空気が重く、湿気が肌にまとわりつく。花見小路を南へ下り、そこから東へ折れると、すぐに観光ルートからは外れた路地に入り込んだ。細い道が直角に曲がり、また曲がり、気づけば自分がどの方角を向いているかわからなくなる。石畳は苔むしており、両側の家々は無言で向かい合っている。格子窓の奥は暗く、どの家も人が住んでいるのかどうか見当もつかない。村瀬はカメラを構え、シャッターを切りながら奥へ進んだ。

その日の収穫は悪くなかった。特に一枚、L字に折れる路地の角を朝の斜光が横切る瞬間を捉えた写真は、自分でも満足できる出来だった。旅館に戻ってノートパソコンで現像作業をしていると、女将が夕食を持ってきた。京都らしい薄味の煮物と白いご飯。箸をつけながら、村瀬は今日歩いた路地のことを女将に話した。あの辺りは何と呼ぶのかと聞くと、女将はしばらく間を置いてから、「裏木戸の通りですね」と言った。昔から地元の人間がそう呼ぶだけで、地図には載っていない名前だと付け加えた。それから何かを言いかけて、口を閉じた。村瀬は気にしなかった。

三日目の夕方から、何かが変わり始めた。

その日も裏木戸の通りを歩いた。夕刻の光を使いたかったからだ。西日が路地に差し込む角度は午後五時を過ぎた頃が最も鋭く、影が長く伸びて石畳の凸凹を際立たせる。村瀬は三脚を立て、露出を計りながらゆっくりと構図を決めた。夢中になっているうちに日が傾き、気づけば路地は急速に暗くなっていた。三脚を畳んで立ち上がった瞬間、路地の奥に人の気配を感じた。振り返ると、十メートルほど先に女が立っていた。着物姿で、こちらに背を向けている。白地に細かい柄の入った夏着物で、帯は黒に近い紺色だった。祇園の夕方に着物の女がいること自体は珍しくない。村瀬はもう一度カメラを構え、そのシルエットを撮ろうとした。しかし女はすでにそこにいなかった。曲がったのかとも思ったが、路地は一本道で、曲がり角まではまだ距離があった。

気のせいだと思った。疲れているのだろうと思った。旅館に戻り、撮った写真をすべてチェックした。女が立っていた場面を撮ったはずのコマには、人影が写っていなかった。ただ、石畳と古い塀と暮れかけた空だけがあった。シャッターを切った記憶は確かにあるのに、女の姿は一切ない。ピントが合っていないのかと思って拡大したが、背景の石畳の目地まではっきり写っており、ピントの問題ではない。単純に、そこに何もいなかったのだ。村瀬は長い間その一枚を見つめ、それからパソコンを閉じた。

四日目の夜、眠れなかった。

旅館の夜は静かだった。観光客が多い時期は賑やかなのかもしれないが、今は村瀬の他に宿泊客はいないようだった。廊下の板が時折ひとりでに鳴る。古い木造建築ではよくあることだ。しかし午前二時を過ぎた頃、音の質が変わった。板が鳴るのではなく、廊下を何かが歩いている音だった。足音ではない。何かを引きずるような、連続した低い摩擦音。村瀬は布団の中で息を詰め、耳を澄ませた。音は部屋の前で止まった。襖の向こうに何かがいる。彼はそう確信した。長い沈黙の後、音は遠ざかり、また廊下の軋みだけが残った。朝になって女将に話すと、女将は「古い家ですから」と言って微笑んだ。その笑みが、村瀬にはどこか上滑りするように見えた。

裏木戸の通り

五日目、村瀬は昼間から裏木戸の通りを歩いた。夜の出来事を引きずっていたせいか、路地の見え方がわずかに変わっていた。同じ石畳、同じ塀、同じ格子窓。しかし何かが微妙にずれている。格子の間隔が昨日と違うように感じる。白壁の汚れの位置が変わったような気がする。記憶の誤りだと自分に言い聞かせながら歩き続け、ふと気づいた。路地の突き当たりに、昨日はなかった木戸がある。古びた板張りの戸で、蝶番は錆びており、長い間開けられた形跡がない。それでも木戸の隙間から、かすかに何かの気配が漏れていた。風ではない。音でもない。ただ、そこに向こう側があるという確信だけが、むせるような夏の湿気の中に溶けていた。

村瀬はカメラを下ろし、木戸に近づいた。隙間に目を当てると、向こう側に小さな中庭が見えた。石敷きの庭に、苔むした手水鉢がひとつ。その傍らに灯籠が立ち、灯は入っていない。庭の奥には縁側のある古い建物があり、縁側の暗がりに誰かが座っていた。こちらに正面を向いて、微動だにしない。距離があって顔はわからないが、白い着物を着た女だと思った。三日前に路地で見た女と同じ着物かもしれない、と思った瞬間、女がこちらを向いた。向いた、というより、最初からこちらを向いていたことに気づいた、というのが正確かもしれない。村瀬は木戸から離れ、早足で路地を引き返した。

旅館に戻ってすぐ、依頼主に電話を入れた。撮影は順調で、必要なカットはほぼ揃っていると告げた。残り二日を待たず、明日には引き上げると伝えると、依頼主は少し驚いた様子だったが、了承した。荷物をまとめながら、村瀬は自分がひどく疲れていることに気づいた。目の下に隈ができており、鏡に映る自分の顔が、見慣れたものより少しだけ薄く見えた。気のせいだと思った。疲れているのだから当然だと思った。しかし手を洗おうと蛇口を捻ったとき、鏡の中の自分が、一瞬だけ、手を動かすより先に動いた。本当に一瞬のことだった。村瀬は蛇口を止め、もう一度鏡を見た。鏡の中の自分は、今度は完璧に同期して動いた。

その夜、最後の夜、村瀬は夢を見た。

夢の中でも祇園の路地を歩いていた。昼でも夜でもない、夕方と夜の境目のような光の中を、一人で歩いていた。石畳の感触が足の裏に伝わり、湿った空気が肺に入ってくる。夢だとわかっていたが、夢の中の自分はそれを知らなかった。やがて裏木戸の前に出た。木戸は開いており、中庭が見えた。手水鉢の前に女が立っていた。白い着物、黒い帯。女はこちらに背を向けていたが、村瀬が木戸をくぐると、振り返った。顔があった。顔は村瀬自身の顔だった。ただし表情がなかった。目が開いているのに、何も映していない目だった。村瀬は夢の中で声を上げようとしたが、声が出なかった。女は口を開き、何かを言った。音は聞こえなかったが、唇の動きで読めた。「もう替わりましたよ」と言っていた。

目が覚めると、夜明け前の暗さだった。全身に汗をかいており、布団が重く感じられた。村瀬は起き上がり、窓を開けた。夏の終わりの空気が流れ込んできた。路地の向こうに古い家々の輪郭がある。何も変わっていない。ただの京都の朝だ。そう自分に言い聞かせながら、彼は荷物の最終確認をした。カメラバッグを肩に掛け、スーツケースを転がして廊下に出た。階段を下りると、女将がもう起きていて、玄関の三和土を箒で掃いていた。

「お早いお立ちで」と女将は言った。

「お世話になりました」と村瀬は答えた。

女将は箒を止め、村瀬をじっと見た。普通なら気にならない視線だが、その朝は何かが違った。女将の目が、村瀬の顔のどこか一点に焦点を合わせているように感じた。顔の表面ではなく、もう少し奥の何かを。村瀬は礼を言い、玄関を出た。外の石畳に足を踏み出した瞬間、女将が背後から小声で何かを言った。聞き返すと、女将はもう箒を動かしており、こちらを見ていなかった。聞こえなかった振りをして、村瀬は歩き始めた。

裏木戸の通り

タクシーを拾うために花見小路へ向かう途中、村瀬はもう一度裏木戸の通りを通った。なぜそちらへ足が向いたのか、自分でもわからなかった。最後に見ておきたかったのかもしれない。あるいは何かを確かめたかったのかもしれない。路地に入ると、朝の光がまだ届いていない時間帯で、石畳は薄暗く、湿っていた。歩き慣れた道のはずなのに、足の置き場が微妙に違う気がした。まるで別の人間の歩幅で歩いているような奇妙な感覚。村瀬は立ち止まり、足元を見た。自分の靴が、石畳の上に影を落としている。ごく普通の影。しかし影の輪郭が、自分の体の形より、わずかに細かった。

木戸のある突き当たりまで来ると、木戸は昨日と同じように立っていた。隙間から中庭をのぞく気にはなれなかった。しかし通り過ぎようとしたとき、木戸の向こうから声が聞こえた。はっきりした声ではない。低く、くぐもった、しかし確かに人の声。それも、自分の声に似た声だった。村瀬は歩みを止めなかった。止まってはいけないと、何かが教えていた。足を速め、路地を抜け、花見小路に出た。人通りが戻ってきた世界に出た途端、体の緊張が少し解けた。タクシーを拾い、京都駅へと向かった。

新幹線の中で、村瀬は撮影したデータを見直した。五日間で撮った写真は三百枚以上。依頼主が求める絵になる路地の写真も十分に揃っている。スライドショーで流しながら一枚ずつ確認していると、三日目の夕方に撮った写真の一枚で手が止まった。女が立っていた場面を撮ったコマ、人影が写っていなかったはずの一枚。その石畳の上に、やはり何も写っていない。しかし今日初めて気づいたことがあった。石畳の上の影が、一か所だけおかしかった。光源から考えれば、建物の影はもっと右側に伸びるはずなのに、一つの影だけが違う方向を向いていた。人が立っていれば生まれるはずの位置に、人のいない影が落ちていた。

村瀬はその一枚をしばらく見つめてから、次のコマに進んだ。

東京に帰り着いたのは昼過ぎだった。自宅マンションに戻り、荷物を解き、シャワーを浴びた。鏡の前に立つと、旅館の鏡で感じたあの一瞬の違和感が甦った。今度は何も起きなかった。鏡の中の自分は完璧に同期して動いた。村瀬は顔を洗い、タオルで拭いた。それからリビングのソファに腰を下ろし、何もしないまましばらく天井を見上げた。

依頼主から翌日連絡が入り、写真のクオリティを褒められた。特に数枚、光と影の使い方が際立っていると言われた。どれですかと聞くと、依頼主が挙げたのは、三日目以降に撮った写真ばかりだった。裏木戸の通りで撮ったもの、夕暮れの路地で撮ったもの。それらの写真には確かに、以前の自分の作品とは少し違う何かがある。影の扱いが大胆で、光の当たっていない場所への踏み込み方が深い。依頼主は「何か変えましたか」と聞いた。村瀬は「そうかもしれません」と答えた。

それから数週間が経った。

仕事は順調で、新しい依頼も増えた。日常に特に異変はない。しかし村瀬は、ある夜から、自分の眠りが変わったことに気づいていた。夢を見なくなった。以前は頻繁に夢を見る人間だったのに、今は朝まで完全な暗闇の中にいるような眠りが続く。目覚めは悪くない。むしろ以前より清々しいくらいだ。しかし布団から出て窓の外を見るとき、この清々しさが自分のものなのかどうか、ほんの一瞬だけ確かめようとする何かが、胸の奥で動く。そしてすぐに消える。

ある晩、旧知の写真家仲間と酒を飲んだ。京都の話になり、祇園の路地で面白い写真が撮れたと話すと、仲間の一人が「あそこ、昔から何かあるって言うよな」と言った。何かとは何かと聞くと、仲間は酔った声で笑いながら言った。「祇園の裏の路地には、人の抜け殻が住み着くって話。本物が出ていったあとに、形だけが残るらしい」。村瀬は笑って酒を飲んだ。馬鹿馬鹿しい話だと思った。

それは確かに馬鹿馬鹿しい話だった。

裏木戸の通り

自宅に帰ってから、村瀬は手を洗った。鏡を見た。いつもの自分の顔がそこにある。目があり、鼻があり、口がある。疲れた顔だが、見慣れた顔だ。水道の水が手の甲を流れる感触がある。タオルの繊維の手触りがある。リビングに戻って、ソファに座る。クッションの硬さが臀部に伝わる。窓の外に東京の夜景が広がっている。すべてが正常だ。すべてがここにある。

村瀬は目を閉じた。

暗闇の中に、石畳の感触の記憶がある。夏の湿気の記憶がある。白い着物の女の記憶がある。夢の中で女が言った言葉の記憶がある。「もう替わりましたよ」。

その言葉が誰に向けて言われたのか、村瀬はもう考えないようにしていた。

目を開けると、鏡は遠くにあった。この距離からでは自分の顔は見えない。見える必要もない。村瀬はソファに深く座り直し、明日の撮影の段取りを頭の中で組み立て始めた。仕事がある。やるべきことがある。それで十分だった。それだけが十分だった。

ただ、一つだけ。

旅館を出る朝、女将が背後から言った言葉。聞こえなかった振りをして通り過ぎたが、本当は聞こえていた。女将の声は低く、しかしはっきりしていた。「気をつけて帰ってください」とは言わなかった。「またいらしてください」とも言わなかった。女将が言ったのは、こういう言葉だった。

「お返しできなくて、申し訳ありません」。

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